時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(21)(2015,12,15)

(優れた研究者だが人間的には問題な人も)
 改めて来意を告げ、指示通りの時刻に訪ねたのだが不在だったのでしばらく待っていた旨をこちらが伝えると、「ああ、そうだったですかね。いろいろあってすっかり忘れていました」と相手は答えた。室内に入った私は、飽く迄も冷静かつ鄭重に挨拶を済ませたうえで、「雑文ライターの身なので理解不足が多々あるでしょうが、どうかその点はお許しください」と一言断ったうえで、直接本題の取材に入った。一連の成り行き上もあって、正直なところ研究テーマ以外のことについては話をする気にはなれなかった。
 相手の研究については一通り下調べをして要点を押さえておいたので、質問は核心部に迫るものだけを中心に最小限に留めた。そんななかで、少々意地悪かとも思ったが、ある専門的事項についての明快な解説を求めた。実を言うとその問題については既に私なりに熟知していたのだったが、相手がどう説明するかを確かめたかったからである。一般人には難解な専門用語を羅列しながら相手は得々としてその内容を説明し始めたが、それに対して、私の方は、難しい表現や概念が出てくるごとに、念を押すようにしてそれらを易しい言い回しや比喩に置き換え、相手の確認を求めた。当初は特に何も感じていない様子だったが、さすがに、しばらくすると相手はいささか怪訝そうな表情を浮かべ始めた。それでも私は素知らぬ顔で取材インタビューを続け、ともかくもあらかじめ検討しておいた要点についての質問をやり終えた。
 すぐに帰る容易を済ませると、相手の研究成果を讃えながら取材を受けてもらえたことに対してもあらためて鄭重なお礼を述べた。そして、「先生が研究でご多忙なことは承知していましたが、私のほうもSPring-8から委託された学術成果集の執筆・編集・制作者としての責務を果たさなければなりませんので、ご無理を申し上げました」と付け加え、そのまま立ち去ろうとした。すると、相手は何故か少々困惑したような表情を浮かべながら、「あなたは執筆・編集・制作にまで関わるんですか?」と訊ねてきた。まったくの偶然だったのだが、ちょうどそのとき、私のいた場所から、その部屋の窓越しにある研究棟が遠望された。実を言うと、それは、かつて私の研究室があった建物だった。そのため、私は思わず率直な言葉を返すことになった。
「もともと無能な身ですが、一応、私も、昔は、あそこに見える研究棟に属し、専門研究や学生の指導に従事していました。そんなちょっとした背景などもあって今回の仕事を依頼されたような次第です。とても荷が重いのですけれども…」
 そんな私の返答を聞いた所為だろう、一瞬相手は顔を強張らせたようだった。私はそれ以上余計なことは言わず、すぐさまその部屋をあとにした。それから数日後、自らの勤務する大学に戻ったその人物から一通のお詫びのメールが届いたが、こちらは穏やかにそれを受け流し、特別な対応を取るようなことはしなかった。
(若手助手が教授の代役に立つ)
 いまひとつ、こんなケースもあった。関西のある大学に取材に出向いた際のこと、鄭重に研究室に迎え入れられ、そこの教授と対面したまではよかった。直ぐに研究の核心に触れたりはせずに、あれこれと雑談まがいの話をしていると、外から私たちのほうを遠慮がちに覗き込む助手か院生らしい若者の姿が目にとまった。それに気づいた教授は、すぐさまその若者を部屋の中に招き入れた。そして、私の前に彼を立たせると、「彼はここの助手なのですが、院生時代から今回の取材対象の研究にずっと参画しており、その内容全体にも通じています。説明もなかなか上手いので、私に代わって彼に一連の研究の解説をしてもらうことにしますので」という、意外な言葉を吐いたのだった。
 その人物の説明は確かに的確だったし、私の様々な質問にも驚くほど明快に答えてくれた。取材を続けていると、教授がちょっと席を外したので、私は彼に名前を訊ねてみた。だが、何故か、彼はどうしても名前を明かしてはくれなかった。ただ、インタビューの中で、その研究において自分は中心的な役割を担ってきたということを示唆するような言葉をさりげなく漏らしはしたし、実際、その見事な応答ぶりからしてもその言葉に偽りはなさそうに思われた。
 取材を終えて東京に戻り、それなりの時間をかけて当該研究の成果を解り易く纏めた私は、その基本原稿の適否を確認検証してもらうために、データファイルを研究室の教授宛てに送信した。そして、そのメールの中で、インタビューの際に直接対応してもらった助手の方の名前を共同研究者ないしは協力者として併記したい旨のことを申し出た。学術成果集を制作するにあたって、個々の研究については、中心となった研究者名ばかりでなく、共同研究者名をもなるべく記述しようという方針を定めていたからである。
 だが、その申し出に対する先方からの返信はなんともそっけないものだった。その人物は助手になったばかりで、研究に関しても未熟だから名前を載せてもらう必要はないというのである。取材の際に名前を訊ねても相手が答えようとしなかった背景が私にはよくわかるような気がした。結局、その研究に関しては教授のみの名前を記載することになってしまったのだが、私には、陰にあって教授を支え、実質的には中心的役割さえ果たしているその人物のやるせない思いが偲ばれてならなかった。一昔前、大学の研究室には一種の徒弟制度的な雰囲気があり、若手の助手や院生の手による業績を主任教授が自分の名前で発表するということが行われていたのは確かである。しかし、今はもうそんな時代ではない。そんなことをしていたら真に実力のある若い研究者は育たないし、よしんば抑圧を被った若い研究者が将来自立して教授や准教授になったとしても、院生や助手に対して自分が経験させられたのと全く同じことをやってしまいかねない。
 この話にはさらに後日談がある。この教授は別のある大学においても特任教授を務めていた。私は研究紹介の原稿を執筆するにあたって同教授の様々な研究データをネットで検索していたのだが、そのとき意外な事実を知ることになった。その教授は兼務先の大学でも類似研究を進めていた。そして、その研究成果をある学会誌に発表していたのだが、なんとそのレポート中には若い助手の女性の名前が共同研究者として明記されており、さらに、二人の写真までが並んで収められていたのである。その女性がなかなかの美人だったことなども妙に私の心に引っ掛かった。どう見てもその教授の研究には、私の取材に対応してくれた若い男性助手のほうがずっと大きな貢献をしているに違いないと思われたのだが、そんな状況の公表が一筋縄ではいかないのもこの世の避け難い現実ではあるのだろう。

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