(「やさしき明治」展に見る風物と水彩画の極み)
静かな輝きの奥に深い時の流れを湛えながら浮かび上がる異次元の空間に、思わず足が止まり目が釘付けになりました。詩情豊かな雰囲気を漂わせて広がる山海、湖沼、河川の光景、日常的な庶民生活の数々が紡ぎ出す人情味溢れる景観――それらの風物の背後には忘れてはならない壮大な物語が秘め隠されていたからです。
一連の事象群がさりげなく語り誘(いざな)う世界に目を向け、1世紀半もの時の流れを遡航しながら自らの感動を深めるには、十分な時間的余裕を持って臨むに越したことはないと感じたりもしたものです。ともかくも、そんな想いを胸中に抱きながら、私はそれら心温まる風物のひとつひとつとじっくり対峙し、拙い己の見識を少しでも深めようと心掛けたような次第でした。
それは、7月10日まで府中市立美術館で開催中の「ただいま・やさしき明治」展の会場においてのことでした。以前に同美術館において開催された「おかえり・美しき明治」展については本連載で紹介したことがありますが(本誌19年10月15日号参照)、今回の企画展はその流れを一段と極めたもので、広い会場には364点にものぼる絵画作品が展示されていたのです。この膨大な展示絵画群は、700点にも及ぶという高野光正コレクションから抜粋されたものらしいですが、ごく最近まで門外不出とされてきた作品が殆どだけに、それらを目にした際に受ける感動と衝撃にはひとかたならぬものがありました。
海外在留経験も豊富な実業家の高野光正氏は、長年にわたり、国外、なかでも英米両国において長年秘蔵されてきた、明治期日本の風物を描いた絵画をオークションで購入し、国内に持ち帰ることに専念してこられたというのです。それらのコレクションの中には、当時の日本人画家のものばかりでなく、英国人をはじめとした訪日外国人画家の作品も含まれているのが大きな特徴でもあるようです。忘失されて久しい明治時代の風物を詩情豊かに、しかも実にリアルに描き留めたそれら水彩、油彩の作品群は、民俗学や地史学の資料としても第一級のものであるに相違ありません。周囲からの20年にも及ぶ公開要請に応じた高野光正氏の立会のもと、京都国立近代美術館において日本各地から参集した専門研究者らによって、コレクションは一点ごと丹念に検証されもしたのだそうです。
そして、その成果のもとに、2021年に京都国立近代美術館において初めてコレクション作品の公開展示が実現し、それに続き、今回東京の府中市立美術館において、「ただいま・やさしき明治」展として同作品群が一般公開されるに至ったような次第です。府中市立美術館のベテラン学芸員である志賀秀孝氏が、京都での作品検証や高野氏の説得に多大な尽力をなさったことなどが契機となって、同展開催の運びとなったとのことでした。ウエッブ上で「府中市美術館」や「高野光正」、「やさしき明治展」などを検索すると、同美術展の素敵な案内動画を見ることもできますので、関心のおありの方はチェックなさってみてください。展示会終了も間近ですが、皆様にはご訪館のほどをお勧めしてやみません。
(笠木治郎吉作品に始まる展示)
会場に入ってすぐのところに設けられた特別なスペースには、思わず息を呑むような18点の水彩画作品が展示されています。作者は笠木治郎吉、国内ではほぼ無名の人物なのですが、その精緻でしかも詩情溢れる作品群はまさに究極の水彩画とでも言うべきでしょう。しかも、それらは芸術作品としてではなく、当時の日本人庶民の日常的生活ぶりを伝えるべく、外国人旅行者向けのお土産品として描かれ、好評を博したというのですから驚きです。のちに笠木は海外に渡り、そこでも日本の民俗や風物をテーマに絵筆を揮ったのだそうですが、これまで国内にはその作品は存在しておらず、高野コレクションのおかげで一部の笠木作品の海外からの里帰りがようやく実現したようなわけなのでした。
農業、漁業、狩猟、手仕事などに携わるごく普通の老若男女の生活ぶりを描いた作品であるにも拘らず、水彩画でここまで緻密で華麗な描写が可能かと思わせるその絵画からは、壮大な物語が浮かび上がってくるのです。作品中の人物個々の四股の筋肉の動きや、表情筋の繊細な機能ぶりまでを精緻に捉えたその描写からは、モデルとなった庶民らの内的思いや仕事にかける真摯な情熱、さらには諸々の生活用具の駆使ぶりが、時の壁を超えてありありと伝わってもきます。まさにそれは、笠木という天才画家の観察眼や描写力あっての賜物で、当時の写真技術などで同様の対処をするのは不可能だったに違いありません。
展示作品中の「新聞配達人」、「狩人」、「農家の娘たち」、「花を持つ少女」、「提灯屋の店先」などは圧巻というほかないでしょう。これらの絵をお土産として安い値段で買い求め、自国へと持ち帰った英米人の関係者らは、素朴ななかにも優しさと豊かさを湛えた当時の日本の民俗文化にひとかたならぬ感銘を覚えたことでしょう。明治時代と聞くと、どこか軍国主義ないしは権威主義的な社会を想像しがちですが、必ずしもそのようなものだけではなかったことが、一連の作品群からは読み取れるのです。私見ではありますが、日本人の誰もが忘れ去った世界に改めて出遇い、その素晴らしさを堪能しながら本作品展のエッセンスに触れるだけなら、笠木治郎吉のコーナーを見るだけでも十分かもしれません。
江戸時代末期から明治時代にかけて日本を訪れた外国人の多くは英米人で占められていたのだそうです。日本のごく庶民的な風物に感動した彼らのうち、画才のある人物らはその情景を水彩画に描き留め、大切に故国へと持ち帰りました。なかでも英国人新聞記者チャールズ・ワーグマンやその仲間は、自ら水彩画を描いたばかりでなく日本人にも水彩画技法を伝授し、そこから数々の日本人画家が誕生したのです。そして庶民的風物をテーマに彼らが描いた水彩画の数々は、お土産品としてほとんどが海外へと渡っていきました。
英国人らがもたらした水彩画技法は、有名無名の日本人画家たちに継承され続けることによって精彩の度を高めるとともに、それまで名所旧跡や特殊芸能のような風物だけに傾きがちだった日本人の芸術観念を変え、ごく日常的な事象に美観を見出す目を培いもしたのです。西洋画の視点と技法で日本の民俗的な風物を描き、それが西欧人に高く評価されることを知った国内の新鋭画家らは海外にも進出し、そこで制作した絵画を当地の人々に購入してもらうことによって諸々の旅費や滞在資金を調達もしたようなのです。
そんな流れを汲む画家の中には、河合新蔵、吉田博、中川八郎、鹿子木孟郎のような有名画家がおり、今回はその感銘深い作品の数々も展示されています。高野氏は、海外に眠っていた彼らの遺作を根気強く探し出し、明治時代の庶民の心の豊かさに今一度現代人の目を向けさせるべく、母国日本へとそれらを連れ戻したというわけなのです。高野光正氏の先見の明と損得を超えたその見識の高さには、一日本人として深く敬意を表するばかりです。