時流遡航

~ノーベル賞発表の時節が終わって(2)~(2012,12,01)

ヒトiPS細胞を創り出すことに成功した直後から、その技術の応用研究促進のため、山中伸弥教授には国内では異例とも言える多額の資金が供与されるようになった。だが、それにも拘らず、09年の民主党政権による事業仕分けの際には、iPS細胞研究プロジェクトなども仕分け対象事業のひとつにされた。世界に先駆けiPS細胞作製技術の基礎研究に成功したとはいえ、山中教授自身はその時点で既に、iPS細胞の実践的応用研究、なかでも再生医療の研究においては、豊富な資金力と強大かつ高度な組織力を持つ欧米先進国に立ち向かうのは困難だと自覚していた。だから、iPSプロジェクトが仕分けの俎上にのぼりかけたその時ばかりは、穏健な山中教授も自ら進んで記者会見を開き、「日本は海外の先進国より10年も20年も遅れた環境で研究を行ってきている。それを考えると、今回のiPS研究に対する事業仕分けは想像を絶する事態である」という主旨の批判を行ったりもした。

幸い、短期間で実利的成果が期待できる山中教授のプロジェクトの場合は、限られた応用研究のみに供与される数十億円もの競争的資金を獲得することができた。だが、その特別な研究資金の支給対象者に選ばれた同教授にしても、なお苦悩は尽きなかったようで、一時は大変な重圧のため心身のバランスを崩すほどだったと聞いている。研究費に窮する数多くの研究者の羨望に満ちた視線を浴びる中で、目に見えて大きな実利的成果を一定期間内で求められる心理的プレッシャーは容易ならざるものだったのだろう。諸メディアからノーベル賞候補と崇められる中で莫大な競争的資金を供与され、直ちに実践的応用研究面で一層大きな業績を求められることは、苦痛以外の何物でもなかったに違いない。

(計算し尽くされた山中発言?)

京大iPS研究センターを自ら組織し、そのセンター長として組織運営に当たるには、基礎医学研究とは本来無縁な経営能力が要求される。諸々の特許申請、各種会計処理、施設管理などのような研究組織維持に不可欠な業務を遂行するのは、労働力や経費面のみからしても容易なことではないだろう。研究者を支援する技術員や知的財産管理の専門家の揃った欧米のような体制を確立するまでの道のりはなお遠い。京都マラソンなど通じて研究資金を募ろうとしてきた山中教授の姿を見るにつけても、どこか不自然で場違いな感じがしてならず、にこやかなその表情の裏に隠された内面の苦悩が偲ばれてならない。

現在の立場を考えると迂闊なことが言えないのは当然だろうが、これまでの一連の情況から推察してみると、先のノーベル賞受賞決定に際しての「まさに日本という国が受賞した賞だと感じています」という発言は、ある種計算し尽くされたもののようにも思われてくる。その効果があってのことか否かはともかく、国は、再生医療技術開発を睨んで応用研究を進める京大iPS研究センターに対して、今後10年間ほどのうちに300億円前後の資金を供与する方針を決定したようだ。これほど多額な研究費の投入はむろん国内では稀なことだが、それでもなお欧米先進国に比べると随分見劣りするものらしい。

ノーベル賞受賞が決定した時点までには、ほとんどの場合、その受賞者による研究業績の内容は既知の事実となって学術界や産業界に広く普及しているものだ。同賞受賞後に、その研究者が率先して自らの業績を基にした応用研究を進めるようなことはめったにない。しかし、山中教授の場合には、自身が先頭に立って応用研究に乗り出し、再生医療技術の開発を通して目に見えるかたちで社会に貢献しようとしているようだ。その点では極めて異例であるが、研究内容の性質やそれに対する社会的な期待の大きさもなどあってそうせざるを得ないのだろう。むろん、学術研究費の削減の続く昨今の国内事情からすると例外的に多額な資金を供与されていることも、その大きな理由ではあるに違いない。

(iPSロードマップの評価は)

文部科学省は11月2にiPS細胞を再生医療などに生かすためのロードマップ(行程表)案を発表した。それによると、将来の再生医療に備え2年以内にiPS細胞の備蓄体制を整え、10年以内には日本人の大半をカバーできる型の細胞を揃えるようにするという。さらに、肺や腎臓、脳などのような臓器をiPS細胞からつくりだす技術も10年以内に確立することを目標に掲げているようだ。加齢黄斑変性治療用の網膜色素上皮細胞や心筋梗塞治療用の心筋の臨床研究などは、5年以内に実施したいとしている。率直なところ、国内の諸々の医療事情からすると、このロードマップ通りに事が運ぶとは考えにくいが、文部科学省とすれば、多くの国民や財務省官僚を説得して研究資金を確保するためには、いささかスタンドプレー気味に見えるこの種のアピールも不可欠なものだと考えたのだろう。

このロードマップ発表当日、山中教授は首相官邸で開かれた総合科学技術会議に出席し、欧米先進国に比べて問題の多い日本の基礎医学研究機関の充実を訴えかけた。ノーベル賞受賞が決まった「時の人」の要請とあっては、首相以下の閣僚らも神妙な面持ちでその意見に耳を傾けざるを得なかったことだろう。常々財務官僚や経産省官僚などに圧倒されがちな文科省官僚も、この時ばかりはしばし溜飲を下げたに違いない。

そんな山中教授の求めに応じて、野田首相は、iPS細胞の実用化を促進するため、①薬事法改正を含む安全規制面での基準整備と倫理面での検討の迅速化、②大学などの研究環境の大胆な改革、③若手研究者の育成に向けた研究費制度の改革の3点について適切な対応をするように関係省庁に指示を出したという。そしてまた、「iPS細胞に続く新たなイノベーションを幅広い分野で生み出してほしい」とも述べたようである。一見したところもっともらしい対応にも思われるが、野田首相の発言が実際にこの報道通りだったとすると、いささか話の筋道が混乱していると思わざるを得ない。①の点はiPS細胞による再生医療に直接関係することだから問題ないが、②と③とはiPS細胞の実用化、さらには新機軸に基づく技術革新の問題に留まらず、基礎学術研究の領域にまで深く関わってくることだから、話はそう単純ではない。

総合科学技術会議終了後、前原誠司科学技術政策担当相が記者団と会見し、「②や③の狙いは研究者の身分を安定させて研究に専念してもらうことや、出身大学などで評価が左右されない仕組みをつくって独創的な研究者を見つけることだ」とフォローしたようだ。だが、それでもなお、日本の学術研究、中でも基礎学術研究がどれほど厳しい状況に置かれているかを十分に認識したうえでの発言なのかについては疑問が残る。①、②、③の意味するところについていま少し考察を進めてみることにしたい。

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