時流遡航

第10回 先端光科学研究の世界を訪ねて(2)(2011.3.15)

スプリング8は、西播磨の三原栗山という岩山を削り取って巨大な岩盤を露出させ、その上に建設された世界一の光科学研究施設である(写真)。だが、近年までこの大規模施設の存在は一般にはほとんど知られていなかった。欧米にある同様の研究施設の能力をも凌ぐ8ギガ電子ボルトの電子ビームにより世界最高輝度の放射光を生み出す施設であることを思うと、それは意外というほかない。和歌山カレー事件絡みの砒素化合物の成分同定で一時的にその存在が注目されはしたものの、スプリング8が稼働して以来進められてきた数々の先端研究の重要性に比べると、そんなことなど極めて瑣末な二次的出来事に過ぎない。

そもそも、2000億円にも及ぶ建設費が投じられ、年間運営費だけも100億円を超えるというこの重要研究施設が、本質的な科学研究の業績とはまるで無縁な刑事事件の延長上の薬物組成分析で脚光を浴びるなど、本末転倒も甚だしい。そのような見地からすると、小惑星「イトカワ」から持ち帰られた微小粒子の詳細な分析がこの研究施設を中心にして行われることになり、その結果としてスプリング8に関する諸情報がマスメディアを通じ広く伝達されるに至ったことは、このうえなく喜ばしい。新聞やテレビでスプリング8という風変わりな施設名称を初めて耳にし、いったいどんなところなのだろうと不思議に思った人も少なくなかったに相違ない。

科学研究機関にも説明責任が

従来は、スプリング8などのような重要な科学研究施設が、その固有の機能や研究目的、達成済みの諸業績、さらにはその社会的存在意義などについて詳細な説明を求められることはほとんどなかった。科学の専門研究というものは高尚過ぎて近寄りがたいとする風潮が国民の間にある一方で、研究者の側にも、専門研究の内容をわかりやすく説明するのは容易ではないし、たとえ苦労して説明を試みたとしても、どうせ十分には理解してもらえないだろうという、専門家にありがちな思い上がりが少なからずあったからである。

とくにスプリング8の場合などは、当該施設を管轄する理化学研究所の研究員のほか、国内外の諸大学や諸研究所の研究者らが数多く参画し個別にプロジェクトを進めてきた関係で、多岐にわたるその研究内容を国民に紹介するのは副次的なことだとし、少なからず軽視されてきたきらいがある。むろん、スプリング8にも以前から広報を担当する部門があって、同研究施設で遂行されている各種先端研究の紹介などに努めてきたのだが、全体的にみると、本来なら重視されるべきその役割が低く評価されてきた感は否めない。

だが、近年の国家財政危機に伴い、そのような状況に大きな変化が見られるようになってきた。事業仕分けなどに象徴されるように、多大な国費が投入されている先端科学研究施設や大規模科学プロジェクトなどは、その業績や社会的意義を国民にわかりやすく説明することを当然の責務として求められるようになってきたからである。

08年5月のこと、岡崎コンファレンスセンターで催された日本学術会議に講演者として招聘された筆者は、野依良治理研理事長、中村宏樹分子研究所長、岩澤康裕日本学術会議第3部会長以下、国内トップクラスの研究者80名ほどが居並ぶ前で、科学の世界における「パウロ的存在」の重要性を訴えかけた。そして、「科学界の先端研究者がキリストだとすると、わが国にはそれなりの数のキリストは存在する。しかし、それらキリストの革新的な教義(最新研究内容)を大衆に向かってわかりやすく説き、その意義深さを聴衆の胸に強く訴え刻み込むことのできる伝道師パウロはほとんど存在していない。私たちは伝道師パウロの存在
意義を重要視するとともに、優れた未来のパウロを養成するようにしなければならない」といった趣旨のことを提唱した。

改めて言うまでもないことだが、「パウロ的存在」とは、優れた能力をもつサイエンスライターやサイエンスネゴシエーターのことである。欧米先進諸国では、昔からこの種の仕事は社会的にも高く評価され、経済的にも十分な保証がなされてきた。だが、日本では今なお、このような仕事のみに専念して生きることは容易でない。ただ、昨今の社会情勢の変化に伴い、前述したように、日本でもサイエンスライターやサイエンスネゴシエーターなどの果たす役割が重要視されるようになってきた。

パウロ役の育成に必要なこと

むろん、キリスト自身がパウロの役割を兼務することも不可能ではないだろうが、一刻を争う熾烈な研究競争の最中に、現代科学界のキリストらが伝道師パウロの役をも担うのは至難な業に違いない。また、キリスト的存在としての能力は極めて優れていても、パウロとしての能力には著しく欠ける研究者も少なくはないだろう。

サイエンスライターなどは科学者とは異なるため、その仕事に必要な資質や教養は軽視されがちだ。しかし、真に優れたサイエンスライターになるためには、少なくとも、科学研究全般にわたる基礎知識のほか、科学哲学を主とした哲学的な素養、語学力、さらには的確かつ明快な文章表現力などが不可欠なものとなる。むろん、ほかに諸々の広い教養も必要だ。それらの資質をすべて具えた人材を探すとなると、現実には容易でない。将来的にはサイエンスライター科のようなものを大学に新設して優れた能力をもつ学生を育成し、人材不足を解消するくらいのことを考えなければならない。些か僭越に過ぎるかとも思ったが、岡崎の講演では、サイエンスライターやサイエンスネゴシエーター養成などに関するそのような私見を忌憚なく述べさせてもらいもした。

その時点では予想もしていなかったことだが、この折の学術会議での講演が契機となって、非才な身には対応に余るような難作業が突然舞い込んでくる羽目になった。こともあろうに、「夢の光を使ってサイエンスの謎に挑む」というタイトルの『スプリング8学術成果集』の執筆制作を担当して欲しいというのである。スプリング8における多様な先端研究内容を科学に強い関心を持つ国民に紹介しようというのが、その学術成果集制作の狙いだとの話だった。図に乗って些か余計な発言をしたため、中国の古典「戦国策」のなかにある「隗より始めよ」という有名な訓辞そのままの展開に身を置くことになってしまったのだ。

そんな事情で一昨年秋から昨年春にかけて同学術成果集の執筆制作に携わり、何とかその責務を果たし終えた。また、それが縁となって10年5月号と11年1月号のスプリング8ニュースの原稿執筆も担当させられた。それら一連の執筆制作作業に関わった経験をもとにして、次回以降に続く探訪記を綴らせてもらうことにしたい。

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