時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (6)(2019,12,15)

(幼少期の離島生活が心奥に育み残した適応力の数々)
 離島生活において体験した深い闇の世界というものが何時しか自らの原風景のひとつとなり、そこで培われた感性や思考が暗闇の存在に少しも恐怖を抱くことなどない今の自分を形成してくれていると述べてきました。しかし、ごく自然に闇の世界を体験することによってもたらされた利点はそれだけではありませんでした。暗闇に伴う諸々の危険や不慮の事態に備えながら子どもなりに慎重な行動を重ねるうちに、どんな厳しい環境下に置かれても、自らを冷静に律しながら沈着に行動する習慣を身につけるようになりました。 
また、星闇のもとで天空に煌めく無数の星々をじっと仰ぎ見ながら、時を忘れて独り空想に耽るうちに、それが何時どんな場所であろうとも、必要ならば長時間にわたって深い思考に没頭することができるようにもなりました。ただ、一風変わったそれらの習慣や思考法が、先々困難な状況に晒されたりした折に役立つことになろうとは想像だにしていなかったのですけれども……。好天時など海を挟んで遥か遠くに望まれる九州本土の山並みの影は、少年時代の私にとっては憧れの的そのものでした。そして、日々そんな思いに駆られながら育った幼少年期の身には、離島での一連の生活体験が心の奥に形づくってくれている原風景なるものの存在や、その意義深さなどわかるはずもありませんでした。
 自給自足生活が主体の貧しい半農半漁の集落でしたので、必然的な流れとして住民同士の連帯意識や相互扶助の精神は強く、農業漁業の繁忙期ともなると様々な共同作業も行われていました。幼い子どもの頃からそんな生活体験を積むことによって、農業や漁業に伴う各種作業の一連の工程やそれらに付随する諸々の技術などを自然に身に付けていくようにもなったものです。大人たちの仕事ぶりやそこで交わされる会話などを子どもながらに見聞きし、補助的に作業を手伝ったりするうちに、とくに教わるというのでもなく、見よう見まねで何時の間にかその要諦を自ら修得していくといったような次第でした。大人たちのほうも、仕事中の自分たちを取り巻く子どもたちを邪険に扱うことなどはせず、将来の生活に不可欠な事柄を身を以て、しかしさりげなく教えてくれたものでした。
そこには文字通りの「学育」の精神、すなわち、子どもらが自主的に「学び育つ」ための社会的流れが潜在していたわけなのです。学問と称される表立った知識の類は、「教育」すなわち「教え育てる」場を通して修得させられるのが普通ですが、生存の根幹をなす基本的生活技術やそれらを適宜支える知的感性を培うことに関しては、「学育」的な側面が強く働いていたのかもしれません。それゆえに、当時の島育ちの少年らは、中学生にもなると誰もが立派な労働力の保持者として農作業や漁獲作業に十分な貢献をしたものです。
 集落の人々の間には自然なかたちで芽生え、世代を超えて脈々と受け継がれてきた分かち合いの精神も存在していました。多少の価値観や人生観の違いはあっても、いざというときには互いに支え合うのが必然の流れだったのです。それゆえに、何かの理由で一部の人々が困窮の極みに陥ったとしても、集落全体の助けを受けながら何とか生活を維持することもできたのでした。ある意味で、それは、自給自足経済を主体にし、貧しいながらも己の身体のみを資本に日々を着実に生き抜く離島生活者ならではの美徳ではあったのかもしれません。物品に恵まれていないがゆえにこそ生まれる心の絆ではあったのでしょう。
そんな集落に本土などから突然やってきて暮らそうとする人があったりしたら、共同生活の輪の中に直ぐには溶け込めず随分苦労もしたことでしょうが、田舎暮らしがブームの現代の状況とは異なり、当時そんな事例はほとんどありませんでした。役場や郵便局の職員なども皆顔馴染みの村人だったものです。唯一の例外はそのほとんどが本土から赴任してくる小中学校の先生方でしたが、その時代の先生方は村人の誰からも尊敬されており、疎外などされることはまずなかったのです。また、独身や単身赴任の先生方は村内のどこかの家に下宿するのが常でしたから、村人との交流の数々がごく自然に生まれていったものでした。島育ちの少年少女らが中学卒業後に本土各地に渡り生活を送るようになってからも、そこで新たに出合った多くの人々に敬意をもって親しく接することができたのは、幼い頃からそのような生活環境のもとで育ったがゆえだったのでしょう。
(遊びの中にも思考力の基本が)
 子どもの頃の各種の遊びもまた単なる遊びに留まらず、生活の知恵や思考錯誤の経験を深めることに役立つものでもありました。例えば小学生の頃に夢中になった、真竹や孟宗竹を素材とする鳥籠造りなどは、まず工作用の刃物類の準備から始まりました。鋸(のこぎり)・錐(きり)・小刀・鉈(なた)・鎌(かま)などは昔祖父が使っていたものを用いることにしたのですが、その切れ味を鋭くするにはそれらの刃先を研ぎ澄ます技術をマスターしなければなりませんでした。そこで、鋸の歯や錐先を研ぐために、試行錯誤を重ねながらも鑢(やすり)の使い方を覚えもしましたし、小刀・鉈・鎌などを砥石を用いて研ぐ技法も自然と身につけることになりました。砥石に関しては、荒砥石や仕上げ砥石の性質の違いやその使い分け方を学んだほか、場合によっては、堆積岩のある岩場から適当な原石を探し出し、それをもとにした砥石の制作から始めたりするようなこともありました。そして、そんな体験のおかげで料理用の包丁研ぎなどはお手のものとなりましたし、通常なら見逃してしまいそうな岩石類の性質や地層の特徴などに自然と目が向くようになり、後々それなりに地質学関係の知識に興味をもつための契機ともなったのでした。
 刃物類の準備が整うと、竹林から竹を切り出し、それを筒状に切断したものをさらに細長い薄板状に割り揃え、それらを作業のしやすい囲炉裏端などに持ち込んだものでした。そして、鳥籠の主要骨格を構成する12本の細長い四角柱状の竹格子の削り出しや、三股錐を用いた数多くの等間隔の穴開け作業に始まる、複雑で手数のかかる制作工程に挑んだようなわけなのです。ただ、その過程で緻密な工程図を脳裏に描いたり、完成品を想像したりしたことなどが、先々に繋がる思考トレーニングになってくれたのは幸いでした。
小中学生時代の私が夢中になった遊びのひとつには小川での鰻の穴釣りもありました。遊びとは言っても釣った鰻が時々食卓を潤してくれるばかりでなく、それらを近くの木賃宿に1匹5円ほどで売ることによって小遣い稼ぎをすることもできたのです。鰻の穴釣りには先端に釣針と餌のついた細長い差し竿を用いるのですが、その前に季節に応じた鰻の生態や川の流れの状況を詳しく分析把握し、鰻の隠れ棲んでいそうな水中の穴を推定したものです。その過程においてはそれなりの自然観察力や推理力が必要となるのですが、そうやって身につけた能力は先々の専門的仕事において大変役立つことになりました。

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