そんな計画のもと、実際に街並みをピンクに塗り替える作業が始まり、著名な公共の建物などもいったん明るいピンク系のパステルカラーに塗り替えられた。当然、その作業に関わったのは一流のデザイナーや装飾関係の専門家たちだったが、当初の思惑は外れてしまい結果的にその企ては大失敗に終わってしまった。明るいパステルカラーというものは、スペインやイタリア南部、南仏などにみるような燦々と降り注ぐ陽光のもとにあってこそ美しい。緯度や気候の関係で強い太陽光の差し込むことの少ない英国のような風土にあっては、ピンク系のパステルカラーは甚だ貧弱で浮薄な感じを生み出すばかりで、塗り替え作業の進んだ街並みは以前以上にみすぼらしい感じになってしまったのだった。
街並みのピンク・カラー塗装計画が失敗だと判明するや、一週間後に戴冠式が迫っているにもかかわらず、いったん塗ったピンクの塗料を剥ぎ落とし落ち着いた色へと戻す突貫作業が遂行された。既に投じられた費用に加え、復元作業にはさらに多額の費用を要することは明白だったが、そんなことなど一切気にかける様子もなく、総動員でその再塗装作業は実践された。ロンドンのように太陽の光が弱く、年間を通じて抜けるような青空の広がる晴天の日の少ない土地柄には、重厚な色のほうがよく似合うと再認識されたため、ピンクを落としたあとには黒い塗料が塗られ、その上に金銀や深い赤の装飾が施された。そして、ぎりぎりのところで、元のロンドンの街並みらしい、くすんだ色のなかにも落ち着きのある雰囲気が取り戻されたのだった。石田はそんな騒ぎを取材しながら、あらためて、金、銀、黒、赤といった色はロンドンという都市にこのうえなく似合いもするし、また、それらの色は同地の長い歴史のなかで洗練もされてきたのだということを実感した。「ロンドン今日この頃」の番組の中で、石田は、もちろん、そのことを話題として取り上げた。
ロンドンの街並みの色調が大急ぎで元通りの落ち着いた色へと戻され、あと三、四日で戴冠式を迎えようという五月末のこと、その前祝いといでもいうべきビッグニュースが全世界を駆け巡った。それは、戴冠式を目前したエリザベス女王にとっても英国民にとっても、またとないような一大ニュースであった。一九五三年五月二十九日午前十一時三十分、ニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリーとネパールのシェルパ、テンジンとは、英国登山遠征隊の隊員として、世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)、八八四八mの初登頂に成功した。そして、そのニュースが電波に乗って世界中を席捲したのであった。
一九五二年以前の大規模遠征登山隊をことごとく退けてきたこの山は、一八五六年の観測隊によって「ピーク・15」と記録され、その観測隊の前任隊長エベレスト卿の名を冠して「エベレスト」と命名された。ただ地元では当時から「チョモランマ」と呼ばれていた。一九五三年のその日、遂にこの難攻不落の世界最高峰の頂きに足跡を刻んだ二人は、テンジンが腕につけていたローレックスの時計エクスプローラーで登頂時刻を確認し、頭上高く英国旗ユニオンジャックを掲げたあと、それを山頂の氷雪中に突き立てたのだった。
英国登山隊によるエベレスト征服の報せに英国民はこぞって酔い痴れ、新聞各紙もBBCの全部局もこぞってその詳細の取材と報道に追われることになった。この時、BBC日本語放送においてこのニュースを読み上げたのはほかならぬ石田達夫であった。登頂成功の第一報に接した石田は、我が事のように興奮しながらBBC本部から届けられた英語の原文ニュースを直ちに日本語に翻訳し、日本語オフィスからアナウンス室のあるブッシュハウスに駆けつけると、いささか声をうわずらせながら、ヒラリーとテンジンの偉業を日本の人々に向けて伝え報じたのであった。
偉業の達成には、それに水をかけるような噂や見方はつきもので、「一九二四年に英国人登山家マロリーが頂上近くで遭難死したのは、エベレスト登頂直後だったはずだ」とか、「世界最高峰は他に存在しているのではないか」とか言ったような、悪意と嫉妬に満ちた中傷などが囁かれたりもした。その種の際物的な見方が一部タブロイド誌の片隅に掲載されたりはしたものの、むろん、ヒラリーとテンジンによるエベレスト初登頂を祝い報じる報道各社の趨勢に変りはなかった。そして、その後の測量調査であらためてエベレスト(チョモランマ)は世界最高峰であることが確認され、その標高についても正確な測量値が報告された。また、マロリーの遭難がエベレスト登頂成功直後のことだったかどうかについてはその後も議論が続いたが、近年になってその遺体や遺品が発見され、それらの状況からして頂上に立つことなくマロリーが遭難死したことも確実視されるようになった。
(異常寒波と冷雨の中の戴冠式)
英国民ばかりでなく世界中の人々が待ち望んだエリザベス女王の戴冠式ではあったが、そんな戴冠式の前評判ぶりに嫉妬でもしたのであろうか、天は女王に好天を恵んではくれなかった。戴冠式当日の六月二日は、早朝からひどく荒れ模様の天候で、いつになく気温も低く、強風のために横なぐりの雨が容赦なく叩きつけてくる有様だった。通常、六月のロンドンは一年中でもっとも好天に恵まれる時節に当たり、晴天の日々が続くことで知られていた。国王や女王の実際の誕生日がいつであっても、各国の元首や国内外の著名人を招いて催される公式の誕生祝賀会を六月初旬の土曜日に催すように定められているのもそのような理由からだった。ちょうど、日本の十一月三日の文化の日のようなもので、晴天の特異日に当たるその日に戴冠式の日取りが定められたのは必然の成り行きと言えた。だが、皮肉にも、そんな目論みは結果的には裏目となってしまったのだった。
例年の六月なら正装をしている者にとっては暑くも寒くもなく、このうえなく心地よいはずなのであったが、この日のロンドンは誰もが驚くほどに異常な寒波に襲われたのである。戴冠式のおこなわれるウエストミンスター寺院の前に組み立てられた高さ二十メートルほどの櫓の上のBBC放送席には冷たい風雨が吹きつけ、レインコートを着ていても全身が震えるほどの寒さであった。この特設放送席には当時の日本にはなかったテレビの受像機が設置され、NHKから派遣された実況放送担当の藤倉修一はそこに映し出される映像を眺めながら実況放送をおこなう手筈になっていた。実際に戴冠式の行われるウエストミンスター寺院内に立ち入ることを認められたのは、BBC日本人スタッフの中では、ロンドン社交界の花形でもあったミセス・クラークこと伊藤愛子だけだった。彼女のみは英国王室や英国政府筋にも及ぶその広い人脈を通じて、この日の式典の直接取材をおこなう許可を取りつけていた。実際、日本国内でなら知らない人など誰一人いない藤倉修一のような人物でさえも、寺院内での直接取材は許されないという厳しい状況なのであった。