時流遡航

《時流遡航242》日々諸事遊考 (2)(2020,11,15)

(苦労人と報じられた新首相とその政権について思う)
 新型コロナウイルス流行の禍中にあって、世相は相変わらず激しく揺れ動いているようです。民主主義国家のお手本とも思われてきた米国は、今回の大統領選を通じて複雑極まりないその選挙制度の欠点を曝け出し、世界中の人々を唖然とさせています。傲岸このうえない現職大統領を選び、その無分別な振舞いを許したのは、詰まるところ米国民であったわけで、たとえ福音派とは無縁な反トランプ主義者であったとしても、その責任の一端は負わなければならないことでしょう。進化論を完全否定し、いまだに地球は平であると信じその証明に奔走する者さえいる福音派の人々を嘲笑することは容易ですが、自らを含めた人間の愚かさというものをこの際反省せずにいるわけにはいきません。
 米国とは対照的に、去る9月、日本では大きな混乱などもなく国政を主導する首相の交替が行われ、それに伴って新内閣が誕生し諸々のメディアの報道を賑わしました。かつて「確率の悪魔」(工学図書)という著昨を執筆し、確率論や統計学のもつ数々の宿命的な問題点を指摘したこともある身としては、世論調査というものの信憑性を全面肯定する気など毛頭ありませんが、それにしても新内閣に対する支持率が7割にも近かったという結果には唖然としたような次第でした。何かと問題も多く支持率も3割台に落ち込んでいた安倍内閣の政策をそのまま継承したはずの、しかも前政権の蔭の仕切り役だった菅総理率いる新政権が、それほどまでに高い支持率を得られたのはなぜだったのでしょう。一時的なご祝儀相場だったと言えばそれまでなのですが、それにしても日本国民の政治的感性の寛容さには善い意味でも悪い意味でも驚き呆れるばかりです。
 高校卒業後に上京し、段ボール工場で働きながら大学法学部を卒業、ほどなく政治の世界に目覚めその筋の世界に入ったとかいう経歴がマスコミを通じ美談として報じられ、それに「令和おじさん」のイメージが重なって、人々の心を大きく動かしはしたのでしょう。前首相の発言や挙動があまりにも庶民離れしていたことなどが逆に幸いし、新首相の庶民性とやらが必要以上にクローズアップされたことも、意外なまでに内閣支持率が上昇した要因ではあったのかもしれません。しかし、新首相は秋田の農家の出だとは言っても、大農家の出身で、父親は地元の議会議員も務める名士でもあったとかで、世に言う、食うや食わずの貧農の育ちだったわけではなかったようなのです。
 そもそも、新首相の年代層やそれ以前の年代層の地方出身者にとって、苦学を経験するのは珍しいことではありませんでした。私のような世代の地方出身者らにとっては、都会に出て苦学をするのは当然のことであり、その程度の試練などは美談でもなんでもなかったのです。地方の貧しい農漁村の出身で人知れぬ苦学を積んだのちに、様々な分野の超一流の専門家になった人物は、私が知るかぎりでも枚挙に暇(いとま)がありません。自らの体験談で恐縮ですが、鹿児島県の貧しい離島育ちで、中学1年生時に片親だった母と死別し、苦学覚悟で本土の高校に進学したその年に最後の肉親だった祖父母を相次いで失い天蓋孤独の身になった私も、その意味では苦学体験をした一人でした。学費に窮しながらも自助努力や周囲の人々の好意のおかげで何とか高校卒業を果たし、若さのゆえの開き直りの精神力だけを頼りに上京、辛うじて大学に進学しました。学生時代は、生活費や学費の総てを自力で賄うために配達業の助手や工事現場の手伝いをはじめとする様々なアルバイトにも従事しました。なかでも大学時代から大学院時代まで長年にわたって務めたのが、東京江東区の運河地帯にあった東京シャーリングという鉄板加工会社での夜警の仕事でした。ただ、男女を問わず島の仲間の殆どが、中学卒業後すぐに国内各地へと集団就職し、それぞれに想像を絶する苦労を重ねたた事実を熟知する身としては、自分の辿った境遇を恵まれていたとは思いこそすれ、それを苦労譚として美化する気分などには到底なれません。
 もちろん、とことん醒め切った双眸の鋭い煌めきを見せながら、感情を押し殺した口調で語る菅総理が、自らの人生を美化して伝えた諸メディアの一時的な報道を額面通りに受け取ったなどとは思いません。むしろ、心中深くでは、「そのうち手のひらを返したように政権批判を繰り返すに違いない。以前から密かに国内のメディア群を操作するよう画策してきたが、政権の頂点に立った今こそは、あらゆる手を尽くして内閣の政策に批判的なメディアをコントロールし、お高くとまっている学者や言論人らをとことん締め上げてやる」と決意を固めている感じさえしてくるのです。即効性があるように思えて大衆受けする各種政策を巧みに打ち出したり、浮世離れして見える学術界に一石を投じたりすることによって、自らの世俗性を人々にアピールしつつ庶民派内閣の姿を印象づける手法はなかなかのものでしょう。実際その政治手腕を高く評価する人々も少なくはないはずです。
(学術研究を軽視する政権の姿) 
 しかし、なお真相が隠蔽されたままの日本学術会議会員任命拒否問題や、それを契機にした学術界への陰湿な政治的介入ともなると、話はまるで別問題です。日本学術会議というものの社会的な意味や機能が殆んど人々に知られていなかったことは事実ですから、これを機に学術会議関係者らもその任務の重要性と独立性を強く国民に訴えかけるべきでしょう。幸い、ノーベル賞学者をはじめとする著名な研究者らが立ち上がり、任命拒否問題の不透明性に強く異議を唱えつつその理由の説明を求める一方で、日本学術会議の成り立ちやその役割についても説明がなされ始めたようではあります。アベノマスク配布に要した何百億円とは較べものにもならない10億円という額の運営費が国庫金だからという理由を掲げ、政権に向けられる日本学術会議からの批判や不都合な提案を封じようとする姑息極まりないその手口には、先進民主国家としての矜持のかけらさえも見られません。
 人文・社会科学分野を含む学術研究や学術教育なるものは国の命そのものです。昨今の日本には、学術的知識や深い教養というものは一部の特別な人たちの嗜好を満たすだけの代物で、一般庶民に関係するのは精々受験レベルまで――それ以上の知見は庶民には無縁な存在だとするきらいがあるようです。学術予算の削減に加え、若い世代に広まりつつあるそんな風潮の所為か、日本の大学の国際的評価は年々下落し、アジアにあっても中国やシンガポールの大学の後塵を拝するようになりました。これだけは未来を背負う若い人々に忌憚なく伝えておきたいことですが、学術研究や人間教育の面で日本は最早先進国ではなくなりつつあるというのが実情です。資源不足のこの国から自由な学術研究の芽を摘み取り、その発展を阻害してしまったら、いったい何が残るのでしょう。景気回復政策も重要ですが、学問の本質を見据えた真摯な学術行政の展開こそが喫緊の課題ではあるのです。

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