時流遡航

《時流遡航251》日々諸事遊考 (11)(2021,04,01)

(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――②)
(日常的行動パターンを捨てる)
 家族旅行、修学旅行、観光旅行といったようなものは、もちろん社会生活の向上発展にとって重要なものですから、それらの意義を否定するつもりはありません。ただ、ここでいう自己発見のための旅を実践するには、必然的に、一時的な「親離れ、子離れ、家族離れ、所属集団離れ」とでも言うべき、しばし日常性から離脱・乖離した行動形態を厭わないだけの意識改革が求められはするでしょう。
 24時間単位の日常的な思考や行動パターンを捨て、自らがその時々に立つ場所を内的思考の原点として世界を眺めるように努める――そして進めるところまで進み、見ることができるものを見て楽しみ、眠れるところで眠る――そんな自然体の旅ができるようになればベストなのですが、その域まで到達するにはそれなりの経験が必要ではあるでしょう。いずれにしろ、真に感動的な事象に出逢ったり想定外の貴重な体験を積んだりするためには、通常の行動形態をはずれて振舞うしかありません。そして、そのような意味からしても、「旅は無計画をもって至上とする」という心構えがこのうえなく重要なものになってくるのです。ただ、いきなりそんな行動をとるのは容易なことではありませんから、細かくプランニングされた旅行に出掛ける場合でも、毎回、少なくとも一度くらいは意図的に予定外の行動をとるように心がけ、先々の「創造の旅」実現に備えてみたいものです。
 たとえごくささやかな旅だとしても、自主的な行動に基づく旅路での小さな発見は、自らの人生にとって大きな転機となることが少なくないものです。大掛かりなプランを打ち立て、あれもこれもと欲張った旅をする必要はありません。古典のひとつとして有名な世阿弥の「風姿花伝」のなかに、「秘すれば花」という芸道の極意を述べた一文があります。「どんなその道の達人であっても、あらかじめこんな見事な芸が見られると知れ渡っている場合には、観衆の期待が大き過ぎるため想定していたほどの感動を与えられずに終わってしまうことが多い。一方、たとえ無名の芸人であっても、それまで内に秘め続けた至芸をいっきに披露すれば、何の期待もしていなかった分、観客はその芸の見事さにより圧倒されて深い感動を味わい、その芸は大輪の花を開くことになる。有名無名の身を問わず、心魂を傾けた芸というものは内に秘め続け、ここぞという時に披露するにかぎる」というのがその要旨ですが、実は旅にもそれに似かよった一面があると言ってよいでしょう。
 高額な費用をかけ、大手観光業者などが企画した大旅行に参加し、事前に大々的に宣伝された名所巡りをするのも悪いことではないでしょうが、全体的にどこか茫洋としていて、期待していたほどの感動や想い出が得られないこともよく起こりがちです。それに対して、比較的限られた地域の無計画な貧乏旅行を通してその後の人生を大きく左右するような人物や事象に出逢い、心底感銘を覚えることも少なくありません。別の喩えを用いるなら、望遠鏡で見る世界と顕微鏡で見る世界の対照性や相補性に相当するとも言えるでしょう。我われは、望遠鏡を用いて遠くの事物を眺めたり大宇宙を観察したりすることによって壮大な未知の世界に目を開かされる一方、顕微鏡を通して極微な世界を覗くことによって、何でもないと思っていた自らの周辺に想像すらしたことのない神秘的な世界が秘め隠されていることを知ったりもします。望遠鏡的世界観と顕微鏡的世界観とは対照性をなすと同時に相補的な関係を成すものですから、もちろん本来両者に優劣をつけるべきではありません。ただ、そのことを承知したうえで敢えて述べさせてもらうなら、行動範囲や快適さには限界があるものの、成り行き任せの貧乏旅行のゆえにこそ新発見や奇遇に恵まれる自己主体の旅路などは、後者に相当していると考えられるかもしれません。
(さまざまな旅の形態やその意義は)
 この際ですから、思わぬ発見や出逢いに恵まれそうな幾つかの旅の形態について考えてみることにしてみましょう。「旅は無計画をもって至上とする」と述べはしましたが、生涯にわたって文字通りの放浪の旅を続ける覚悟ならともかく、限られた条件下で、自己発見や自己省察、内的視野の拡大、未知の人物や事象との遭遇などに繋がる実り多い旅を目指すなら、そのスタイルに関してはある程度事前に考慮しておくほうが賢明だからです。
 その一例としては、特定の地域の生活と深く関わる川を選び、その源流域から河口地域に至るまでの一帯を訪ね回りながら、その川と地域文化との間の歴史的、地理的、文化民俗的な関係を考えてみる旅の様態が挙げられます。たとえば歴史や文化において名高い最上川は、山形県内の総ての地域と直接間接に深い関わりを持っています。それゆえ、上・中・下流それぞれの流域に属する幾つかの集落を訪ね歩き、そこに住む人々としばし話し込んでみるだけでも、通常の観光旅行などでは気づかない山形という地方の感慨深い姿が浮かび上がってくるものです。出羽三山や鳥海山に纏わる信仰の由来、紅花交易の歴史、芭蕉らの奥の細道の旅路の実態、斎藤茂吉をはじめとする諸々の著名な文人たちの足跡、さらには芋煮会などに象徴される民俗文化などが、相互に強い連関性を持ちながら深く胸中に迫って来るのも、全県に広がり繋がる最上川という存在あってのことなのです。
 さらにまた、その地域を代表する特定の山岳地域の山麓一帯を周遊するかたちで旅をし、その山々が周辺地域の気象や風土にどんな影響をもたらしているのか、またその地に散在する諸集落の風土や文化とどう関わっているのかなどを気の向くままに調べてみるのも面白いかもしれません。元々登山の趣味があったり、そうではなくても体力が有り余ったりしているようならそこの山々にも登頂してみるに越したことはありませんが、そこまで自信がないようでしたら、各種交通手段を適宜活用しながらのんびりと麓の道路伝いに周回してみるだけでも十分でしょう。たとえば北海道中央部の大雪山国立公園の山々などを東西南北様々な方角から展望しつつ大回りに一周してみるのも味わい深いかもしれません。
 旭川、美瑛、富良野、南富良野と同国立公園の西側に位置する地域を、旭岳、トムラウシ山、十勝岳などの雄姿を眺めながら巡ると、旭岳ロープウエイのほか、「北の国から」や「鉄道員」の舞台にもなった諸々の景観や豊かな風物を楽しむことができます。また狩勝峠、十勝平野の新得、鹿追、帯広、士幌など大雪山系南側に広がる豊かな農業地帯からは、ニベソツ山やウペペサンケ山などが遠望されます。続いて旅情抜群の林道奥にある然別湖を経て、国立公園東側を走る273号線を糠平湖沿いに北上し、三国峠展望台を過ぎれば石狩川源流地の大雪湖畔に至ります。そこから北側に位置する層雲峡の景観を楽しみ、上川、愛別を抜ければ旭川に戻ります。この周遊の旅路で遭遇する数々の出来事は必ずや旅人の心に深い感銘を刻み残してくれることでしょう。

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