時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(20)(2014,02,01)

原稿料など度外視して毎回長い文章を書き綴ったことには、それなりの理由があった。私はインターネットが普及するよりずっと前のパソコン通信時代以来のネットの常連だった。しかも、さまざまな先導試行的な役割を委託されたりもしながら、ごく初期の時代からパソコン通信の普及に深く関わってきた。既に述べたように、パソコン通信黎明期のさまざまな経験に基づき、当時チャットコーナーなどで用いていた「stranger」というハンドルネームをペンネームにして、「電子ネットワールド――パソコン通信の光と影」(新曜社)という本を執筆したりもしてきた。そのためもあって、未来工学研究所から21世紀のコンピュータ通信の展開についての予測を諮問されたことなどもあった。

(先導試行による経験をもとに)

まだ全国でもユーザー登録者数が2万人弱で、実質ユーザーはその半数以下にすぎなかったパソコン通信初期の時代に、長文のエッセイや紀行文をわざとBBS(掲示板)上にアップし、そこにアクセスする人々に読んでもらえるかどうかを試したりもしていた。その結果、相当長い掲載文だったとしても、それなりに誠意をもって書き込めば多くの人々に読んでもらえるという確信を持つようになっていた。当時のほとんどのマスメディア関係者は、パソコン上でやりとりされる文章なんてまだまだ子供騙しにすぎず、正規の活字メディアに追いつくまでには少なくともあと50年はかかるなどと冷笑していたものである。私自身は近いうちにパソコン通信の世界に一大革新が起こると考えていたが、なかなかそんなことを真に受けてくれる人はいなかった。「パソコン通信はもっぱらオタクか社会性の欠落した変人のやることだ」というのが当時の世論の趨勢だったからである。しかし、現実には、パソコン通信は私の予想をも遥かに上回る速度で発展し、インターネット文化という新たなかたちをとって一世を風靡するようになっていった。

穴吹史士さんから朝日のAICへの執筆を依頼された時、執筆条件にかかわらず即座にその申し出を受諾したのも、穴吹さんの意向に逆らうようにして意図的に長い文章をアップし続けたのも、実はそんな背景があってのことだった。幸い、内心で予想していた通りAICの読者は誰もが驚くほどの勢いでどんどん増え続けた。そんな展開を見てAICに記者生命を賭けることを決意した穴吹さんの並々ならぬ苦労や努力の甲斐もあって、それからほどなく月間アクセス数は100万回を超え、さらには200万回をも超える勢いとなった。まさに穴吹さんの面目躍如というところだった。

余技だったとはいえ、玄人はだしの本格的な能面制作技術を持ち、各種印章を彫るのも得意だった穴吹さんから、「成親」と刻んだ印章を頂戴したのは、AICの読者数が急増し始めたそんな時期のことだった。「自分がもっとも精神的に落ち込んだ時に彫った印章だから」という前置き付きでその印章を授かったのであったが、今は冥界の人となった穴吹さんが身代わりになって既に厄払いを済ませてくれていたせいか、この印章は私にとってはなんとも縁起がよいものとなった。そのため、その時以来ずっと折あるごとにその印章を愛用させてもらっている。ちなみに述べておくと、穴吹さんは、私が貰ったものを含めて3個、同種の印象を彫ったのだそうだ。生前の穴吹さんが語ったところによると、私のほかにその特製印章を贈ったのは、やはり穴吹さんが長年にわたって親交のあった漫画家の西原理恵子さんと、画家で作家の安野光雅さんだったという。西原さんや安野さんの作品や書画の片隅に私のものとよく似た趣の落款があるのを目にしたことがあるので、ご両人も穴吹さんの遺した印章を折々用いておられるのではないかと思う。

07年2月のこと、穴吹さんは、既に朝日のアスパラクラブへと移行合体されたAIC欄に「さらば」という手記を寄稿した。短いものだったが、いかにも穴吹さんらしい潔さの感じられるお別れの文章だった。それに先立つ癌の大手術の終わったあとで、「あと1回だけ原稿を書いて、それでAICでの自分の仕事を終わりにしたい」とのメールを頂戴していたので、その手稿の内容そのものに驚きはしなかった。だが、穴吹さんの最後の原稿が掲載されるのは、足掛け10年続いたAICのコーナーそのものが終わりになると聞いていたその年の3月末のことだろうと想像していたので、早々と掲載された穴吹さんの最後の文章を目にした時にはいささか戸惑いを覚えたりもした。

その前年、奥さんに先立たれたあとも、AICの編集を手掛けるかたわら健筆を揮ってきたのであったが、8時間にも及ぶその大手術は、さすがに穴吹さんの心身にひとかたならぬ負担をもたらしもしたようだった。幸い、手術そのものは成功し、一時的には体力も回復してきていたようだったので、それなりには安堵もし、足掛け10年にわたるご苦労のほどを偲びながら、その手稿に目を通したようなわけだった。

(役割を終えたAICのコラム)

その時にはもう故人となっていた永井明さんと私が、「穴吹さんの依頼を受けて……」というよりは、コンピュータ通信、さらにはインターネット社会の発展の可能性を穴吹さんに吹き込み煽りたて、朝日のAICで原稿を書き始めてから足掛け9年が過ぎ去った。そのほとんどはいまも書籍化せずウエッブ上に眠らせたままにしてあるが、AICで書き綴った原稿は膨大な量にのぼった。毎週ごとに400字詰め用紙で12枚~15枚の原稿を9年近くにわたって執筆し続けたわけだから、それも当然のことだった。

その間における心身の酷使ぶりはひとかたならぬものではあったが、最終的にはAICの月間アクセス数が300万回近くにも及ぶに至り、メディア社会におけるインターネットの重要性が一般の人々にも広く認識されるようになったのは喜ばしいかぎりであった。もちろん、その頃までには、朝日新聞社をはじめとする各新聞社や出版社も、諸々のコンピュータ通信技術が将来のメディア界の中枢を担うことになるだろうと認識するようになっていた。当初想像された以上の速度をもって時代は大きな変革を成し遂げたのである。通信機器も安価となり、誰もがPC類を容易に手にすることができるようにもなったのだ。

その年の3月を最後にAICはその先導的な役割を終え、必然的に私もまた9年間にわたる連載の筆を置くことになった。さすがに寂しい思いもしなくはなかったが、時の流れには抗いようがなかった。悲喜交々の「マセマティック放浪記」の筆を収めるにあたり、私は万感の思いをこめて胸中で次のような一句を呟いていた。

 

桜待ち去り行く者も来る者も

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