時流遡航

第11回 先端光科学研究の世界を訪ねて(3)(2011.4.1)

可視光線の下で観察が可能な諸事象については、科学研究は飛躍的に進んでいる。だが、原子・分子の構造やその運動様態のようなミクロな現象を可視光線で観測するのは至難の業だ。光学顕微鏡で試料を観察する場合でさえ、倍率を上げるほど視野が暗くなる。対象物が拡大されるにつれ各部分に当たる光量が減少してしまうからだ。従って、原子・分子レベルのミクロな世界を観察するには、可視光線より桁違いに明るく、十分に細く絞り込まれた指向性の高い光線が必要となってくる。別の言い方をすれば、それらミクロな観察対象物のサイズよりも波長が短く極めて輝度の高い光でなければならない。原子・分子のサイズよりも遥かに波長の長い可視光線では、それがどんなに明るく見えても原子・分子レベルのサイズ当たりの光量はごくわずかなものになり、ミクロな対象物をうまく照らし出すことができないからである。

さらにまた、物質の表層部ならまだしも、物質内部の原子・分子などを観察するとなると、照射する光に高い透過力が備わっていなければならない。そして、これら一連の要件を満たす光ということになると、高指向性、高輝度、高エネルギーの放射光X線以外には考えられない。そんな特殊な光線を安定的に供給できるのが、スプリング8というわけだ。

スプリング8放射光の特性

スプリング8の放射光は、赤外線から可視光線、紫外線、さらにはX線に至るまでの全波長領域の光をカバーすることができる。ただ、同施設における諸研究のほとんどがミクロな世界に関するものであるため、波長10ナノメートル(1000分の1mm)前後の真空紫外線から、より波長の短いX線に至るエネルギー領域の光が多用されている。またX線は、波長1ナノメートル(1万分の1mm)前後の軟X線、波長1オングストローム(10万分の1mm)前後のX線、さらには波長が10ピコメートル(100万分の1mm)から1ピコメートル(1000万分の1mm)の硬X線に大別されている。

スプリング8の放射光のもうひとつの特徴は、発光時間長50億分の1秒ほどのパルス光であることだ。サイクロトロン放射光が連続光でなくパルス光になるのは、その発光原理や発光システム上の特性によるものだが、それが発光時間長の極めて短いパルス光であることは、原子や分子の様態観測には好都合なのである。ミクロな世界で超高速変化をする事象の様子を観測するためには、その事象が高速変化するのに必要な時間よりもさらに短い瞬間当たりの映像や解析用データを取得せねばならない。発光時間長が極度に短いパルス放射光は、そのような目的にとってお誂え向きの存在なのである。

些か安直な比喩に過ぎるかもしれないが、夜道を高速疾走する車の瞬間写真を、何度もフラッシュを閃かせながら連続的に撮影する光景を想像してもらえばよいかもしれない。ただし、通常の写真撮影なら短くてもせいぜい1000分の1秒程度のシャッター速度なので高速度カメラに見るような機械的制御も可能だが、50億分の1秒レベルのシャッター速度となると機械的に実現するのは不可能だ。その点、スプリング8のパルス光なら50億分の1秒の瞬間フラッシュと超高速シャッターの機能とを同時に果たせるという訳なのだ。

もしかしたら、ビデオ撮影した連続映像を一時的に静止させ瞬間映像を見るのと同じことができないのかという疑問を持つ人もいるかもしれない。だが、50億分の1秒レベルの瞬間映像を得るためには、その50倍の時間長の1億分の1秒間ほどの連続映像が必要となってくる。残念ながら、原子や分子が高速で運動するミクロな世界の様態を1億分の1秒間だけ連続撮影し、その映像をもとにして50億分の1秒ごとの瞬間映像を得る技術など、この世には存在しない。しかも、スプリング8などの先端光科学研究施設で再現されるミクロな世界の映像は、我われが肉眼で見たり、カメラのレンズを通して撮ったりする直接的な映像とは異なっている。実際には、それは、放射X線の照射よって得られる瞬間的な原子や分子の運動データを高性能コンピュータで解析し、再現した映像なのである。

X線で微細構造を探る手法

X線で物質の微細構造を調べる方法は、試料となる物質にX線を照射し、照射後に試料から放出されるX線を観測するか、照射後の試料の状態を観測するかの2手法に大別される。透過力の強いX線は試料となる物質の内部深くに入り込み、物質を構成する原子や分子からさまざまな作用を受ける。そしてその結果、当該物質に固有な物理的情報を引き出すかたちで試料から飛び出してくる。もしも物質の内部に何らかの構造体が秘められているとすれば、それによって引き起こされるX線の回折現象や散乱現象の様子を通して構造体の情報を把握することができるのだ。それが第一の手法である。

今ひとつは、X線を照射して試料を物理的に刺激し、その物質がどのように変化するかを調べる手法である。この場合には、X線のエネルギーを連続的に変えながら試料物質を照射し、エネルギーの変化に応じたX線の吸収度を調べたり、X線照射によって刺激され、物質から2次的に放出される光や電子を調べたりすることになる。

構造的な側面からスプリング8の特徴を端的に述べるなら、それは先端科学技術の粋を集めた超精密機械の集合体だということになろう。1436メートルの蓄積リング内を光速近くで周回する個々の電子ビームは、進行方向に対して縦6ミクロン(0・006mm)、横300ミクロン(0・3mm)、長さ4mmほどの扁平な形をしており、その領域内に80億電子ボルトのエネルギーを持つ100億個もの電子が詰め込まれている。

なお、参考までに述べておくと、電子の集合体である電子ビームはもともと不連続体であり、切れぎれに存在する無数の電子ビーム(自由電子群)が蓄積リング内を高速度で周回している。スプリング8の放射光がパルス光となるのも、そのような電子ビームの特性に起因しているのだ。

それら電子ビーム群は、断面が楕円形をした口径数センチのアルミニウム合金製のビームパイプ内を1秒間に20万回もの高速で周回し続ける。電子ビームの軌道位置は全周にわたって設置された300台のモニターで常時監視されている。これらのモニターの測定誤差は1ミクロン(0・001mm)以下で、この計測精度をもってすると、1436メートルの蓄積リング周長が1日に2回周期的に10ミクロン(0・01mm)程度変動するのを感知できる。東京・大阪間の距離が5㎜伸縮するのにも相当するこの変動は、何と月が地球に及ぼす潮汐力による地球表面の変形の結果なのだという。

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