御嶽山の水蒸気爆発、台風18号・19号の襲来と、最近、国内は自然の猛威に晒されている。それゆえ、連載手稿を一時保留し、自然災害について私見を述べさせてもらいたい。
率直に言って、現代人には、自然災害の発生や遭遇に際して、その責任や対応策を国家や社会に求め、自己責任を回避しようとする傾向が見受けられる。被災の原因は行政上の不備や防災科学者の無能さにあるとする主張がそれで、諸メディアもその論調に追随しがちなようである。自然に対し誰もが畏敬の念を抱いていた時代には、自然の猛威から身を守るには「自力頼み」が当然とされていたものだ。動物的な嗅覚に近い本能的感性をもって忍び寄る危険を個々人が自ら察知し、己の身を守るのが基本で、集団的な相互の助け合いはその延長上に成立していた。むろん、それには限界もあったが、身を守るのは自己責任だという自覚があったからこそリスク対処能力にも磨きがかかったし、万一不慮の事態に陥ったとしてもその運命を耐え忍ぶだけの覚悟があった。
だが、現代社会においては、我が身を危険から守ってくれるのは国家であり社会であるという他力本願の考え方が定着してしまった。自らは何をしなくても公的力が危険を防いでくれるはずだというこの「他力依存」の体質が徐々に危険察知本能を蝕み、遂には不測の事態発生の際に自己責任を回避してしまう昨今の風潮を生み出すことになったのだ。
(離島生活に見た大自然の猛威)
台風銀座の異名をもつ鹿児島県の離島で幼少期から中学卒業時までを過ごした私は、本場の台風の猛威を厭というほど体感しつつ、それに伴う諸々の危険から身を守る術を学んできた。同時にまた己の存在の卑小さを自覚し、人知を超えた自然の力に畏敬の念を抱くことも忘れなかった。南の島を襲う台風の猛威はそれを直に体験した者にしか分からない。
ラジオで(当時はまだテレビはなかった)台風接近が報じられると、波止場の漁船は村人総動員で陸上に引き揚げ固定された。また、そうでなくても何隻もの船を交互にロープで連結し、激浪に襲われても流失しないような処置がとられた。ロープの結び方ひとつにも、古来伝承されてきた漁民の知恵が秘められていた。頑丈な近代建築家屋が多くなった昨今とは違い、当時の民家のほとんどは木造平屋だったが、四方を堅固な石垣や密生した生垣で囲まれ、屋根瓦は漆喰で固められて、それなりには防風対策が施されていた。
それでも、台風が近づくと、頑丈な雨戸を立てたあと、長い竹竿を何本も横に並べて外側と内側から戸板を挟み込み、戸と戸の隙間に丈夫な細縄などを通して内外の竹竿を引き締め繋ぎ固定した。むろん、暴風で戸板が飛ばされないようするためだった。瓦が飛ぶのを防ぐため屋根瓦を漁網で覆う家もあった。台風襲来時の停電は避けられなかったから、蝋燭とランプの準備は不可欠だった。田畑のほうは放置するしかなかった。だが、それだけ準備をしても甚大な被害が生じることは少なくなかったし、逆にまた台風の進路が変わり、空振りに終わることも多かった。人事を尽くして天命を待つしかなかったわけである。
「嵐の前の静けさ」という言葉があるが、台風の直撃進路上にある地域では、風が止み海は凪ぎ、見事な夕映えが見られることも少なくない。だが、それはほんの一瞬の出来事で、すぐさま恐怖と驚愕のドラマが始まるのだ。海面全体が不気味に泡立ち、激浪が集落一帯の海岸線に打ち寄せ始める。防波堤や岸壁、岩礁帯に激突した波浪の飛沫は高さ20メートルにも達し、轟音とともに軽々とそれら障壁を乗り越える。そして、ほどなく狂ったように強風が吹き始め、無数の水圧銃の放水を連想させるような豪雨が一帯に襲いかかる。
風速が 50mを超える南海の離島の台風の最中には外出するなど不可能だ。大型車さえ瞬時に横転してしまう激しさで、折れた木の枝が飛んできて人家の戸板に突き刺さるなど珍しくない。どんなに対策を講じても一定速度以上の強風が屋根の斜面に沿って横方向に吹き抜けたり、吹き下ったりすると何処かしらの屋根瓦が吹き飛んでしまう。流体力学の原理通り、屋根瓦の上面を風すなわち空気が高速で流れると、無風の瓦の下側から上方に向かって大きな揚力が働き、瓦が浮き上がってしまうからだ。一枚でも瓦が剥がれると、次々に周辺の瓦が飛び始め、そこから豪雨混じりの烈風が屋内に吹き込み、遂には屋根全体が吹き飛んでしまう。同じ揚力の原理により、屋内から外に押し出す力が働き雨戸もはずれ吹き飛ばされる。航空機の浮力やヨットの推進力となる揚力がここでは悪魔の力と化す。
屋外では次々に樹木や電柱の類が倒れ、至るところで電線が切断されて停電となる。そうなると、たとえ昼間であっても薄暗い蝋燭やランプのお世話になるしかない。当時は携帯ラジオなどなかったから、停電と同時に台風情報も聞けなくなった。停電が解消されるまでに1週間以上かかるのは常のことだった。何時果てるともなく轟々と響き渡る不気味な風の息も、雷鳴や雷光も凄まじいものだった。長時間連続して轟きわたる雷鳴は、家々を激しく揺るがすほどの凄まじさで、文字通り耳をつんざくばかりであった。だが、人々は運命を天に委ね、ひたすらその状況に耐えながら台風の通過を待つしかないのだった。
集落一帯に轟き渡る海鳴りの響きも尋常ではなかった。通常は海底や磯辺に鎮座している無数の巨大な岩石が激浪に翻弄され、グワーッゴロゴロゴロという異様な音を発しながら、パチンコ玉が飛び跳ねるみたいに水中を動きまわるからだった。その一部は大浪と一緒に防波堤に激突し、鉄筋コンクリート製の堤防を容赦なく破壊し続けた。満潮時の高潮と豪雨と洪水が重なり、我が家を含む集落の殆どが床上浸水することもしばしばだった。
台風が去ったあとの光景を前に大きな衝撃を受けながらも、そして毎年同じことが繰り返されることを承知しながらも、人々は手を携えて立ち上がり、再び歩き出したものだった。ただ、そんな中で人々は謙虚になって自然を相手に生き抜くために必要な叡智と自己責任の重要さを学び取り、国や社会の災害対策、さらにはそれらを支える防災科学に過度の依存をしてはならないことを無意識のうちに身につけてきたものだ。
鹿児島市で高校時代を送った私は、桜島の噴火と降灰に何度となく直面した。微細な粒子の火山灰は容赦なく衣類に付着するばかりか、室内にも入り込んで机上に積もり、容易には拭き取れなかった。それでも市民は慣れたものだし、桜島の住民などは激しい噴火をものともせず、日々平然と生きてきた。むろん、それなりの覚悟の下だった。御嶽山には過去3度ほど登ったことがある。もう随分昔のことだが、一度は深夜登頂だった。その時のことだが、今回水蒸気爆発の起こった地獄谷全体が神秘的な燐光の輝きに覆われていた。原因は不明だが、それは人知を超えた自然の演出になる一大ドラマに違いなかった。