時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (11)(2020,03,01)

(「日本一役に立たない教養講座」に関わって思うこと)
 現代社会において「教養(リベラルアーツ)」というものの持つ意義について、以前に少しばかり述べさせてもらったことがありますが、最近のこと、市民相互の教養を深めるべく、東京府中市近辺の有志が中心になって「リベラルアーツの会」なるものが立ち上げられました。そして同会の主催により2ヶ月に1~2回くらいのペースで「日本一役に立たない教養講座」という、いささか風変わりな自主講座が開催される運びになりました。京王線府中駅前の市民活動センター・プラッツ会議室が会場で、収容人数にも限りがある小規模な公開講座なのですが、他地域にお住いの方でも自由に参加できるように配慮されています。たまたまその府中市に在住していることもあって、折々私もその講座の講師を務めさせられることになりました。今後それが如何なる展開を見せるようになるのかは、実際に講座の流れを展望してみなければわかりません。ただ、たとえごく地味なものであったとしても、このような講座が国内各地で催され着実に根付いていくようになるとすれば、それは日本文化の維持発展にとっても好ましいことではないかと考えたりもしています。
 教養というものが究極的に目指すところは、精神的自立を通して自由な思考土壌を培い広めることにあるのですから、教養講座の類を催す場合には、その内容が押し付けがましいものになったり、特定分野の知識や知見のみをもっともらしく教え授けるような流れになったりしてはいけないでしょう。また、講師を含む講座の参加者全員がなるべく自由に意見を交換できる雰囲気をつくり、それを通じてその人なりに思考力や諸々の社会的実践力を深めていけるような状況を生み出すことが肝要でしょう。その意味では「役に立たない」という特異なフレーズにも一理はあると言えるかもしれません。
 これまでも度々述べてはきましたが、ここで今一度教養というものの本質についてその概要を整理しておくことにしましょう。端的に言えば、教養とは実生活の中で起こる様々な出来事や問題などを相互に関連付けながら、それらを総合的な見地から理解していく素養のことを意味しています。無関係にも見える知識同士を繋いでみたときそこに何が浮かび上がってくるのかを認識し、その内容を実生活に活用することを試みたり、そのための方法を具体的に探ったりする知恵のようなものだと考えることもできるかもしれません。当然至極に見えていたものがけっしてそうではないのだと知り、そのことによって新たな知見や展望が生みもたらされてくるのも教養の秘め持つ力のひとつでしょう。そんな過程を通じて心身の活力やその社会的存在感も高まっていくことになります。真の教養というものは、それを身に付けた人々を謙虚にし、優しさと穏やかさに満ち満ちた包容力のある姿を具えさせてもくれるものです。ユーモアやウイット、ジョークの源泉でもある教養は自然に滲み出るものであって、見せびらかすために存在するものではありません。
(幼き日の好奇心を甦らせつつ)
 リベラルアーツの会主催の講座講師を担当するに際しては、「役に立たない教養講座」、すなわち、「特定の実務分野のみを対象とせず、また直接的な実利性追求などとは無縁ではあるが、それなりには興味深く有意義な講座」を実践するにはどうしたらよいものかと考え込むことになりました。そして、何とも奇妙なことなのですが、そんな状況の下でふと思い浮かべたり立ち戻ったりしたのが通常は心奥に眠っている自らの原風景なのでした。無論、遠い日々の懐かしい光景の数々をそのままテーマとして取り上げようとしたという意味ではありません。あくまで、幼少期にあれこれと稚拙な思考や空想をめぐらせながら身に付けた諸事象への体感的な対応手法を想い起こし、その発想の展開過程を講座内容の企画構成に利用してみようと考えたわけなのです。
 例えば、幼かった私は夏になるとよく蝉捕りをやっていました。用いる道具は長い竹竿の先端に細い竹の枝を小さな輪状にまるめて取り付けただけのごく単純なものでした。その竹の輪の部分に庭の木立や生垣などに棲息するジョロウ蜘蛛の巣を何個分かクルクルと巻き付けると、その部分には強力な粘着力が生じます。あとはその竹竿をもって蝉のとまる木々にそっと近づき、蜘蛛の巣を巻き付けた輪の部分で蝉を上から抑え込むのです。すると、羽をべったりと付着させられ、蝉は幾らもがいても逃げられなくなってしまいます。いっぽう、竿先に厚く巻き付けた蜘蛛の巣のほうは一日もすると粘着力を失い、乾いた薄いただの和紙のような状態になってしまいます。そこで子どもなりにその理由に思いをめぐらし、水を吹きかけてみたり弾力性を確かめてみたりするうちにその意外な強度に驚かされたりもします。さすがに蜘蛛の糸の研究を通じて新繊維を生み出そうなどという現代的な着想にまでは至らなかったものの、水をも弾く蜘蛛の糸の成分って何なのだろうというくらいの関心は湧いてきたものです。もっと蝉を捕りたいという欲求が高まると、今度は近隣の林や野原から生きたままのジョロウ蜘蛛を何匹も手掴みしては家の庭に持ち帰り、そこに放して巣を作らせ、それを巻き取ったりもしていました。また、そうこうするうちに、蝉よりも蜘蛛の生態そのものの観察のほうへと興味が移ってもいったものです。
梢や軒先に留まった状態からどうやって巣を張るのか、巣の張り替えはどのくらいの期間ごとになされるのか、巣網は中心部から外側へと向かって張り広げられるのか、それとも逆に外側から中心部へと張り縮められていくのか、その作業は右回り左回りのどちらでなされるのか、どんな獲物が巣にかかりそれをどう食しているにか、雄雌間の交尾やそれらの子孫の繁殖状況はどうなっているのか――次々に湧き上がってくる疑問と自然に対峙したそんな経験は、何時しか、ありふれた物事の奥に潜む世界を探ってみようとする思考習慣、すなわち「問題発見能力」の向上へと繋がっていくことにもなりました。
 蜘蛛が左右どちら回りでその巣を編むのかという前述の疑問は、そこから一気に飛躍して、朝顔などの蔓草類はなぜ右回りに巻き付くのか、左巻きのものは本当に存在していないのかという問いかけへと展開したりもしました。向日性のゆえに東から昇り南の空を経て西へと沈む太陽の動きと関係しているからだとすれば、南半球の蔓草は左巻きに伸びるのではないかなどという妄想を抱くことにもなりました。そんな想いがさらに膨らみ、いつも付近の海や磯辺で獲っている巻貝類は蓋を手前にして見ると皆なぜ右巻きなのだろうと考えたりもしたものです。むろん遺伝子云々のところまでは想像力が及ぶはずもなかったのですが、幼少期にそんな数々の実験的思考体験を重ねるうちに、周辺の諸事象を総合的に関連付けて把握する習慣が身に付いたのかもしれません。そして、そんなささやかな事象探求の実践経験が、昨今の講座の企画構成に一役買ってくれているというわけなのです。

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