時流遡航

第21回 東日本大震災の深層を見つめて(1)(2011,09,01)

3月11日の東日本大震災発生の当日、私は東京の自宅の書斎で仕事中だった。突然に襲ってきた大地震の揺れのために、老朽化した二階建て木造家屋は断末魔の悲鳴にも似た音を発して激しく軋み、崩壊寸前の状況に陥った。いまにも倒れそうな本棚を片手で支え、もう一方の手をテーブルの角に当てて必死に身体のバランスをとりながら、最悪の事態に至るかもしれないと内心覚悟さえもした。これまで経験したことのないような長い地震の揺れがおさまり、家の倒壊だけは辛うじて免れたらしいことを知ると、床一面に散乱する書籍類や調度品などには目もくれずにテレビのほうへと駆け寄った。そして、台から転がり落ちかけているテレビを元の位置に戻すと、すぐさまスイッチを入れて画面に見入った。

「震源は宮城県沖。東北地方の太平洋沿岸一帯に大津波警報発令」という緊急報道に尋常ではない気配を感じはしたものの、その時点ではまだそれが想像を絶する一連の大惨事へと進展するなどとは思ってもいなかった。だが、ほどなく、様々なメディアの報道を通じて、震災被害の全容を把握すること自体が不可能な状況であると知るに至っては、文字通り言葉を失うしかない有り様だった。さらにまた、これでもかと言わんばかりに追い討ちをかけてきたのが、ほかならぬ福島第一原子力発電所の予想だにせぬ大事故であった。

三陸海岸を訪ねるつもりが

実を言うと、私は3月10日に仙台に出向く予定であった。今年4月から仙台の大学に教員として赴任することになっていた愚息を、一部の身の回り品と合わせて当地まで車で運んでやるというのが表向きの目的だった。だが、生来旅好きで、いささかの放浪癖もあるこの身のことゆえ、息子思いの殊勝な心がけなど有ろうはずもなく、本当の狙いはそれとはまるで別のところに向けられていた。翌日の11日から、まだ春浅い三陸海岸沿いの各地を訪ねまわり、その明媚な景観を楽しみながら、交通費から宿代・食事代までをまるまる息子にもたせつつ心ゆくまで海の幸に舌鼓を打とうという魂胆だったのだ。

ところが、急な仕事のため息子は札幌に向かわねばならないことになり、その目算はあえなく潰え去ってしまった。東北沖地震が発生した当日の14時20分羽田発の飛行機で息子は札幌へと飛んだのだが、なんとその直後にあの大地震が発生し、それに誘発された大津波が東日本太平洋沿岸各地を襲ったのだった。11日に三陸海岸を訪ねていたらおそらく無事では済まなかっただろうことを思うと、私はやり場のない複雑な心境に陥らざるをえなかった。神にも仏にも見捨てられた凄惨きわまりない事態を前にしては、とても己の無事を喜んでなどおられなかったからである。本人にすれば悪意はなかったのだろうが、「11日に札幌に行ったことが、結果的には何よりの親孝行になった」などという、ブラックジョークまがいの一言を電話口で発しかけた息子を、私は思わず叱りつけたほどだった。

大震災の日から数日を経た頃になると、被災地一帯の海岸に犠牲となった人々の遺体が続々漂着しだしているとの報道もなされるようになった。またその一方で、大津波によって各地の集落が次々に破壊されていく生々しい様子なども放映され始めた。だが、そんな衝撃的な光景を目にしたところで、蟻にも等しい小さなこの身にできることなど何一つあろうはずもなく、遠くから多くの犠牲者の冥福を祈るのが精一杯の状況だった。

久慈から宮古浄土ヶ浜、大船戸、気仙沼などを経て牡鹿半島に至る、三陸海岸一帯の「青き浄土」とでも呼ぶべきかつての美しい風景に、いまや阿鼻叫喚の地獄と化した現実の光景を重ね合わせながら、私は柄にもなく愚歌を一首詠み呟いた。それは、「三陸の青き浄土に地獄絵図描く仏の御心や如何に」というものだった。無残に砕け飛び散った「明日への夢」の残滓になおも無念の思いを托しているであろう数々の御霊に、鎮魂の祈りを込めてそんな拙い短歌を捧げるのが、その時の非力な私にできる唯一のことのではあった。

私的視座から根源を見つめる

あの震災の日から5ケ月半が過ぎ去り、死者と行方不明者とを合わせた数は2万人を超えることが明らかになった。その間、生死を賭けた被災者の方々の壮絶このうえない体験や言葉に窮する悲劇の数々、さらには奇跡的生還のドラマなどがテレビや新聞を通じて連日のように報じられ、被害の甚大さに我々は絶句するばかりとなった。ただ、被災者の方々一人ひとりがそれぞれに異なる悲惨な体験を心に秘めておられることを思うと、マスメディアがいくら必死になって奔走してみたところでそれらすべてを語り尽くすなど不可能な話に違いなかった。それにまた、いまだ収拾の目途さえまったく立たない福島第一原子力発電所の事故の問題までが絡むとなると事態はいっそう複雑になってしまうから、メディア各社が総力を挙げて臨んだところで、一連の深刻な状況を的確に把握するのは容易でない。ましてや、私のような微力なフリーランス・ライターが今回の大震災について個人的に書き述べることのできる事実主体のレポートなど、所詮、高が知れたものである。

そのため、「東日本大震災の深層を見つめて」というテーマを掲げた今回のシリーズでは、既になされてきた各種メディアの震災報道とは幾分異なる角度から意見を述べさせてもらうことにしたい。大多数の人々の目を無難に納得させるという意味での客観性には欠けるかもしれないが、たとえ主観に傾くことがあるとしても、私的な視座に立って一連の事態の奥底に横たわる本質的な問題を考察することは許されてもよいのではないかと思う。

そもそも今回起こった大震災を考えるに際しては、自然災害、経済的損失、地域文化崩壊、社会の諸組織の機能不全、科学理論の限界、医療体制の不備、さらには教育制度のありかたなどといったような様々な視点の選び方があり、視点のとりかた次第で得られる災害像はまるで違ったものになってくる。裏を返せば、今回の大震災はそれほどに多面的な問題を我々に提起しているということにもなるのだろう。そう考えてみると、震災から間もなく6ケ月にもなろうかというこの時点において、少々異質な視座に立って独断的な見解を綴らせてもらうのもそれなりには意義あることなのかもしれない。

震災から2ケ月後の5月18日に東北地方に出向いた私は、数日をかけて岩手県の田老地区から福島県の南相馬地区に至る被災地の海岸線を一通り取材してまわった。また、18年前のことになるが、関西電力大飯原子力発電所を徹底取材し、文藝春秋社のかつてのオピニオン誌「諸君」で原発の問題点を指摘する記事を発表したこともある。それらの体験などをも踏まえながら、ささやかながらも私見を述べさせてもらうことにしたい。

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