時流遡航

《時流遡航280》日々諸事遊考 (40)(2022,06,15)

(世捨て人の孤独と権力者の孤独の相違に想いを馳せる)
 ウクライナ問題に端を発する世界各国の著名な政治家やメディア関係者らの動向が社会に及ぼす影響の大きさを見るにつけても、つくづく考えさせられるのは、自分という小さくて非力な身のありようです。最早老いさらばえ、社会にとっても無益無用な存在と成り果てているわけですから、この際、世の混迷などには我関せずと開き直り、一切の国際情報に耳目を塞いで臨みつつ、日々を送ってみるのも一法なのかもしれません。しかし、たとえそうしてみたところで、当今の国内外の社会の流れと無関係に生きることなどできるはずもないでしょう。俗に言う「人畜無害」で質素な余生を分相応に送ってみたいと願ってはみても、社会的な状況をそれなりに把握することができなければ、己に相応しい道行きを実践するなど到底不可能だと言うほかありません。
たとえば、他人には極力迷惑を掛けたくないという思いのもと、社会との交流を抑制したり断絶したりして生きた挙句に、人知れず孤高な死を遂げたとしてみましょう。そのような場合でも、後になって遺体が発見されたりしたら、当人の意図とは裏腹に、諸々の法的対応を含めた事後処理のため、周辺の人々にひとかたならぬ面倒をかけることになってしまいます。他人に一切迷惑をかけない人生なというものは元々存在していないのです。そう考えてみると、人間というものが如何に社会性の強い動物であるかは明らかでしょう。
ではその逆に、国際情勢を始めとする諸々の人間社会の動向に深く関わり、直接的に人類の将来を左右する任務に生甲斐を見出す絶対的権力者らは、自らの存在をどのように考えているのでしょう。プーチンやゼレンスキー、習近平やバイデンといった現下の時流形成を主導する面々の内的思いとはいったい如何なるものなのでしょうか。
昔から権力者というものは孤独だといわれてきています。権力の度合いが絶対的になればなるほどその孤独度も高まるというのですから皮肉なものだと思うしかありません。「無益無用」な存在として世間から何の期待もされない世捨て人のような人間の孤独とは対照を成し、「有用有益」な存在として世間から過大なまでに期待を寄せられる権力者の孤独というものを、我われはどう考えればよいのでしょう。
この後者の孤独なるものには、常に極度の精神的不安が付き纏(まと)い、権力の様相が独裁的になるにつれ死の恐怖にさえも脅かされるようになると言いますから、実態の理解やそのプロセスの把握は容易ではありません。
 個々の存在としては小さな力しか持ち得ない人間というものは、通常、意を同じくする多くの他者と連携し合い、集団として困難な諸問題に立ち向かいながら、自己の維持存続を図ろうとするものです。その集団が小さなうちは構成者相互の意志疎通もそれなりに巧くいきますから、全体としての行動方針の決定にも大きな齟齬(そご)はなく、たとえ誰かが纏め役を演じる場合でも強権を揮う必要はありません。しかし、社会集団が一定以上大きなものになってくると、その中に異なる意見を持つ複数のグループが現われるようになり、集団全体の方針や意思決定を手際よくリードする人物の存在が不可欠になってきます。
 そしてそこで問題となってくるのが、そのリーダーとなる人物の資質や度量、立ち位置、さらには理念や思想信条というわけです。そのリーダーが信頼性と指導力を発揮して、異なる立場のグループ間の意見を調整し、いくらかの過不足や妥協はあるにしても集団全体としての一定の意思決定を導出する構図は、民主主義の原点とでも言うべきでしょう。この基本構図やその拡張形態においては、リーダーと集団構成者との間に少なからぬ主義主張のフィードバックが機能し、状況に応じてリーダーが代わることも、集団としての意向を大きく転換することも可能です。まだそこには民衆主体の柔軟性が残っているのです。
 しかし、その集団内の特定グループが強い自己主張をして譲らず、他のグループの意向を一切無視するという状況が生じると、事態はまるで異なる展開をみせざるを得ません。しかも、その特定グループのリーダー役の人物が、極めて特異な思想や信念、懐疑的思考の持ち主であるような場合には、当該集団内では一段と強制力が強まり、病的なまでの思想統一への動向が生じることになっていきます。それは独裁主義や専制主義の構図の芽生えにほかならないと言ってもよいでしょう。何とも皮肉極まりない話ではありますが、民主主義的構図の延長上に独裁主義や専制主義の構図は存在しているというわけです。
(民主国家の延長たる独裁国家)
 ある集団が国家レベルの数の民衆によって構成されていたとしましょう。またその集団内には、政治理念も異なり相対的に力量差もある大小複数のクループが存在するものの、主導的なグループや集団全体を統率するリーダーには、自らとは立場の違う他集団の存続をも許容する度量があったと仮定してみます。するとそこには、西欧型の民主主義国家が誕生することになるでしょう。この種の国家の特色は、指導者が一定期間で代わるのが通常で、また、たとえ在任中に大きな失政を演じようとも、それが特別な犯罪行為によるものでもないかぎり、退任後もそれなりに平穏な生活を保証されていることです。この段階までの民主主義は適度に権力者の内的不安を和らげるようにも機能しています。
 しかし、もしその集団の主導的グループが、自らの理念に沿う絶対的なリーダーを崇(あが)め奉(たてまつ)り、理念の異なる他グループの徹底した弾圧や排除に走り始めると様相は大きく一変します。また、そのリーダーが特異な思想や観念、宗教などに執心(しゅうしん)しているうえに、他者を心底信じることのできない強度な被害妄想癖などを秘め抱えている場合などは、事態は一層深刻です。その集団の相対的少数派はどんどん抑圧され、やがて絶対的多数派への同化を強制されるようになっていきます。リーダーやその側近筋の権力者らは、異分子に対する拘束、拷問、殺戮などの対応は体制維持にとって必然だと思うようになる一方で、当該集団に属する殆どの民衆は自らの意志による理性的な思考を一切放棄し、リーダーと崇める人物の一挙一動、一言一句に無条件で依存するように変貌してしまいます。
 その段階を迎えた集団から成る国家は、既に独裁主義あるいは専制主義国家と化しているわけですが、最高権力者としての地位に立つ人物は、絶対多数の民衆の支持を得る過程を経て成立した国なのだから、民主主義国家にほかならないと公言して憚(はばか)りません。「民主」という言葉を拡大解釈すれば、その主張にも一理はあるわけですから話は実に厄介です。
 ただ、多数の政敵を容赦なく弾圧あるいは殺戮して独裁者となった人物らが、自身への復報に怯えるのは必然です。その結果、極度の猜疑心や被害妄想に陥り、近親者にさえも心を許せない、権力者としての窮極(きゅうきょく)の孤独を味わうことになるのです。同じ民主主義を標榜(ひょうぼう)するにしろ、先々彼らを待つのは、無惨な刑死か無慈悲な獄中生活なのかもしれません。

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