時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(16)(2013,12,01)

IT全盛の現代だとはいっても、その発展にとって必要な人間の資質ということになると、本質的には従来と少しも変わりがない。どんなに時代が進んでも、大自然や大宇宙の奥深さに感動し、人間という存在の不思議さに心をときめかすことができなくなってしまったら、どんなInformation Technologyであっても有名無実の存在になってしまうことだろう。将来、「人間」という概念そのものが崩壊し、いまの人類とはまるで異質な生命体へと変貌していく時代がきたらむろん話は違ってこようが、まだ当分は人間あってこそのITだという事実に疑問を差し挟む余地はない。

IT時代の最前線に立つ研究者や技術者、経営者などを見てみると、意外なことに、幼児期や少年期、大自然には恵まれはしていたものの、当時の先端技術や最新情報にはまるで無縁な山奥や離島など、いわゆる非文化的空間に育った人物が少なくない。そんな彼らに共通して言えるのは、一般的な都会育ちの者に較べ、教科書的な知識量ではひどく遅れをとっていたけれど、生きた自然事象に対する観察眼や生命のドラマに感動する心においてはずっと勝っていたということだろう。彼らは創造力の源泉となる原風景や原理思考の方法論を十分時間をかけて獲得形成していったように思われる。そして、それら彼らの内なる原風景や原方法論がIT世界での優れた業績へと繋がっていったのだろう。近年インドがIT分野で世界の最先端を走るようになったのにも同様の背景があるのかもしれない。

(人間とは何とも厄介な存在だ)

発生学的認識論の研究で知られる高名な認知心理学者ピアジェの理論を借用するなら、一般的に、田舎育ちの人は具体的操作の段階(実際の対象物をじっくりといじくりまわしながら思考を培い深めていく段階)から形式的操作の段階(文字や各種記号など抽象的な記号のみを操作して論理思考を積み重ねていく段階)への移行が緩やかで、逆に都会育ちの人は具体的操作の段階から形式的操作の段階への移行が急だということになろう。だが、昨今の我が国では、極度の少子化と親たちの教育熱の高まりのせいで、国内の津々浦々までが形式的操作の段階への移行を急ぐ都会的な教育風潮の中に巻き込まれてしまっている。

ピアジェは、「具体的操作の学習段階には十分に時間をかけるべきである。形式操作への移行を急ぎすぎると一時的には知識の習得が急速に進んだようにみえるが、本当に高度な論理構造や抽象的理論の基礎学習段階に差しかかるとたちまち壁に突き当たり、それらの概念の理解すら困難になる。ましてやその先における独創的な学術理論の構築など覚束ない」と述べている。むろん例外もあろうが、それは、トレーニングによって表面的には難しい文章をすらすら音読できるようになった幼児が、成長してからもその文章の真意や微妙な綾をまったく理解できずにいる事態にも似ている。ちなみに、具体的操作の段階とは、媒介となる言語や文字、各種記号などを用いて、身近な実際の対象物にじっくりと働きかけ、刻々と様相や様態の変化をみせる対象物からのメッセージを知覚しながら、一連のそれら言語や文字、記号類の機能に少しずつ習熟していく過程のことである。この段階が性急に過ぎたりすると、先々、高度な抽象論理の理解に支障をきたしたり、自己の論理の的確な伝達や相手の論理の十分な理解ができなくなったりするおそれがある。

 そんな認知心理学の問題はともかくとしても、情報技術の革新に伴う今後のコンピュータサイエンスの発展には計り知れないものがある。ただそうは言っても、容易には解決できそうにない問題も少なくない。よく知られているように、コンピュータにとっては、高度で複雑な数理科学上の演算処理をこなすよりも、人間がごく普通にやっているような行為をうまくやってのけることのほうがずっと難しい。例えば、「俺は酒が嫌いだ。ジュースのほうがいい!」という酒飲みの冗談まじりの言葉を、会話の文脈だけから、実は「酒を飲ませろ」と要求しているのだと即刻コンピュータに理解させることは容易でない。

 的確にそんな芸当のこなせる対話型ソフトを作成するには、ありとあらゆる付帯的状況の解析を行いその解析データに基づく迅速な状況判断を遂行するための膨大なプログラムと、高度な意味論に基づき全情報を統括的に管理する機能とを、そのソフトの中に組み込んでやらなければならない。SF「2001年宇宙の旅」の中のハルのように、自然言語を人間同様に使いこなし、しかも人間の感情までも正確に読み取るようなパーフェクトな対話型コンピュータの製作が極めて困難なのは、そういった事情があるからにほかならない。

人間とはなんともナルシスティックな生物で、自己の言葉や行動を極力そっくり真似できるコンピュータやロボットを造りたがる。しかしながら、簡単そうに見えてもそれは大変難しいことなのだ。完全無欠な人間のコピーを機械的に造るとなると、絶望的な困難が伴うことになりかねない。コンピュータサイエンスの先端研究者らが、揃って人間というもののもつ不可思議なメカニズムに感動し嘆息するのもそんな理由があるからなのだ。

だが、それでもなお、人間は究極の対話型コンピュータや超高性能人型ロボットの実現に挑み続けていくことだろう。それは無限級数の和の極限値を各項の値を順次計算しながら求めていくような果てしない作業になるに違いない。むろん、その過程において様々な副次的技術が誕生し、それらが独自の発展を遂げ、我々人類の生活形態を大きく変えていくというようなことは当然起こり得るだろう。

(言語の壁が破れる日の到来も)

iモードの携帯電話やipadで情報を手早く収集活用する若者達の姿をさりげなく眺めながら、情報社会の近未来像にふと想いを馳せらせることもなくはない。現在の何千倍何万倍もの高速大容量データ送受信可能な携帯用通信機器が先々登場してくれば、高度な多言語間相互翻訳変換機能をもつスーパーコンピュータなどと自由に接続することによって、それら携帯機器類を双方向多言語同時音声翻訳機や多言語対応文章即時翻訳機などとして用いることもできるようになるだろう。

現在の翻訳機器類はいまだ不完全なものであるが、とりあえずその内容が伝わりさえすればよい実務的文章などの場合にはもっと容易に実用的翻訳が可能になるだろう。そんな時代が到来したら、現在行われているような外国語教育というものの意義はどんどん薄れていくに違いない。幼児期からの英語学習熱に煽られ、幼い我が子を日々幼児英会話教室に送り出している昨今の教育ママたちが、もっとしっかり母国語の表現力や理解力を身に着けさせておけばよかったと嘆息する日が、ここ何十年かのうちに到来しないともかぎらない。

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