日本列島こころの旅路

(第46回)松本城鉄砲蔵(2)(2014,05,15)

展示されている資料によると、鉄砲伝来のニュースは瞬く間に堺を中心とした畿内一帯にまで伝わり、翌年の天文13(1544)年には、早くも紀州根来寺の刀工・芝辻清右衛門や堺の刀工・橘屋又三郎らが鉄砲製作技術習得のため種子島に派遣されているようだ。その年のうちに根来寺に戻った芝辻は刀工集団を率いて鉄砲の製作を始め、橘屋のほうも鉄砲伝来から2年後の天文14(1545)年には堺に戻り、刀工たちを動員して大量の鉄砲製作に着手している。薩摩領主島津家傘下の種子島領主は、むろん本土の島津家へも鉄砲に関する情報を伝えたようであるが、その情報が薩摩領内においてそれほど重要視されなかったふしがあるのは、当時の島津家は相次ぐ領内の内紛を鎮めるのに手いっぱいで、鉄砲どころではなかったからなのかもしれない。武器としての鉄砲の威力というものが、まだ島津家の上層部に十分理解されていなかったこともその理由の一つではあったのだろう。

薩摩領内でもほどなく傘下の刀工たちに命じて鉄砲の製造を行ってはいるが、鉄砲伝来の初期の段階においてその情報を独占するには至らなかったようだ。のちの徳川時代などにおいては徹底した情報管理を行ったことで知られた薩摩藩のことである。鉄砲の重要性に対する島津家の認識が不十分であったという背景でもなければ、種子島領主が畿内から鉄砲技術習得にやってくる刀工らを容易に迎え入れたことも、同家が鉄砲に関する厳格な情報統制を行わなかったことなども、簡単には説明がつかないように思われる。

ただ、たとえそのような背景があったにしても、鉄砲伝来とそれに伴う諸々の技術情報が当時としては異例の速さで近畿一帯に伝わったのは、いったいなぜだったのだろうか。種子島から九州本土各地、さらには中国地方各地を経て畿内へという陸路沿いの長大な伝播ルートをまずは想像してしまいがちなのだが、当時の交通事情や群雄割拠の時代背景を考え合わせると、その情報伝播の異常なまでの迅速さはいまひとつ腑に落ちない。内心そんな疑問を抱きながら、種子島と近畿地方と繋ぐ日本本土沿岸海域の地図をじっと眺めているうちに、急にあることに思い至った。

台湾沖から琉球、奄美諸島の東側を進んだ黒潮本流は、種子島南端の門倉岬の沖合いを北東に向かって通過し、太平洋へと流れ込む。鉄砲を伝えたポルトガル人たちの乗る唐船が門倉岬付近の浜辺に漂着したのは、まさに暖流黒潮のおかげだったと想像される。ところでこの黒潮なるものは、門倉岬のある種子島東南端部をかすめるように通過したあと、いっきに紀伊半島の潮岬沖から熊野灘一帯に到達する。かつて種子島を訪ねたとき、同島東南部にある「熊野海岸」に佇んでその沖合いを流れる黒潮の行方に想いを馳せたことがあるが、地図を見ればすぐわかるように、この熊野海岸から紀伊半島の熊野沖までの直線距離は意外に短い。黒潮の流れに乗れば一息なのである。

熊野という双方に共通した地名は、黒潮を介して行われた紀伊半島と種子島間の古代からの交流の深さを偲ばせる。遣唐使船関係の文献などを調べてみると、揚子江下流域から出帆し薩摩の坊津を目指した復路の遣唐使船が、嵐に遭って操船不能に陥り太平洋側に流され、紀伊半島の海岸に漂着した事例なども記録されている。もちろん、当時の人々に「黒潮」などという概念は無縁ではあったろうが、少なくとも一部の舟人たちは、潮の流れに乗りさえすれば、種子島から紀伊半島までの船旅はひといきに過ぎないことを経験的に知っていたに相違ない。潮の流れに抗う逆路はより時間を要したろうが、四国南岸や九州東岸沿いの各地に寄港しながら進めば、そう困難ではなかったことだろう。

ましてや種子島に鉄砲が伝来した天文年間ともなると、遠洋航海技術はともかくとしても、沿岸航海技術のほうは相当な域にまで達していたと考えるほうが自然である。そうしてみると、鉄砲に関する情報が直ちに種子島から海路伝いに畿内一帯へともたらされただろうことは想像に難くない。利に聡く機を見るに敏な根来衆や堺の商人衆が、即刻、種子島に刀工を派遣することができたのも、そのような背景を考えれば納得がいく。

それにしても、鉄砲伝来からの10年間、さらには、それから天正3年(1575)年の長篠の戦いに至る約20年間における異常なまでの鉄砲製造量の増大と、技術改良の歴史をいったいどのように説明すればよいのだろうか。また、雨後の筍のように国中に溢れ返りはじめた鉄砲が、たとえ間接的ではあったにしても、あわよくば日本の植民地化をと狙っていたに違いないヨーロッパ列強国の侵攻を抑止する力としてはたらいた可能性はなかったのであろうか。そんな疑問をあれこれ抱くうちに、夢想とも言えなくもないない私の想像力は、タタラ製鉄や玉鋼(たまはがね)に代表される我が国の特殊な伝統的製鋼技術と鉄砲製造技術との関係、さらには、のちの鎖国政策をはじめとする海外勢力の締出しに陰で鉄砲が演じ果たしただろう役割などにまで及んでいったのだった。

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