賢治はかなり以前から結核菌によって肋膜を侵されており、この頃までには幾度も療養を繰り返していた。ただ、恩師にそんな実務上の相談の手紙を書き送った前後、彼は一時的に小康を得ていたようである。関豊太郎がどのような返信を送ったのかは知るよしもないが、3月に入って正式に東北砕石工場技師に嘱託されているところをみると、恩師の関からはその仕事を引き受けてみたらどうかとの返信があったのだろう。
この年の3月から8月にかけて、賢治は炭酸石灰の製法改良と販売の業務に従事し、宣伝のため秋田、宮城、福島をはじめとする東北各地を巡り、9月には東京までその足を延ばしている。仕事は何処にいてやってもよいとの条件下での年俸600円の待遇というと当時としては相当なものだが、先述の手紙にみるかぎり石灰岩末の現物支給だったようだから、売り捌かなくてはお金にならなかったはずで、その点でも苦労は尽きなかったことだろう。
9月に入ると賢治は炭酸石灰製品見本などを携えて上京した。「夏までには参上拝眉致したく」と手紙にも書いているところをみると、予定よりは遅れたものの、たぶん、この時に関豊太郎にも会うつもりでいたのだろう。しかし、神田区駿河台南甲賀町12番地(現在の千代田区神田駿河台1丁目4番地)八幡館に到着とともに発熱臥床し、数日後になんとか帰途につくが、帰郷後に再び体調が悪化し床に伏してしまった。
のちになって明らかになったことだが、死期の近いことを察知した賢治は、この上京の際に遺言の書簡をしたためている。また、同年の11月には、死後に遺言の書簡とともに発見された手帳の中に、有名な詩「雨ニモマケズ」を書き残してもいる。翌年の昭和7年から他界した翌々年の昭和8年9月まで、賢治は病床にありながらも、「グスコーブドリの伝記」をはじめとする数々の作品の執筆に精魂を傾けた。伝えられるところによると、彼はまた、そのような状況下での作品執筆の合間に、なんと高等数学をも学ぼうとしていたのだという。その有様はまさに、宮沢賢治という稀代の精神の発した美しくも悲しい「最後の光芒」とでも言うべきものであった。
着実な足取りで刻々と迫り来る死の影を察知していた賢治の心魂は、「雨ニモマケズ」という詩を詠んだとき、すでに達観とも諦念ともつかぬ領域に踏み入っていたに違いない。そんな背景を念頭におきながら、そのあまりにも有名な詩を読みなおしてみると、これまでとは一味違った新たな感銘が湧き上がってくるような気がしてならない。そう言われても、出だしの部分くらいしか憶えていないという方がほとんどだろうから、もう一度その詩の全文を記して賢治の手紙についての本稿の結びとしたい。
<雨ニモマケズ> 宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ