野田首相は福島第一原発事故の収束を宣言したが、それは単に暴走の危険があった4基の事故炉が当面安定した状態になったというだけのことである。現実には、廃炉に向けた事故処理過程のほんの入口に立った段階に過ぎない。完全廃炉が実現するまでには、これから先、幾つもの未知の難題や不慮の事態の待ち受ける長く危険な道程を歩んでいかなければならない。文字通り試行錯誤の連続の先にしか光明は見えてこないのだ。首相の宣言は、政財界や関係諸企業の様々な思惑、さらには対外的体面を反映してのことなのだろうが、国内外を問わず、心ある専門家たちのほとんどが異口同音に「収束なんてとんでもない」と異議を唱えているのを見れば、実状がどうであるのかは明白だろう。
そんな行政の対応ぶりを見透かしたかのように、福島第一原子力発電所の事故を契機に国内54基の原子力発電所を徐々に減らしてゆくべきだという「脱原発」の気運が日々高まり、最終的にはそれらすべてを廃炉にするのが最善の策だと考える人々が多くなってきた。私自身も、実際にそのプロセスを迅速かつ着実に進めることができるのなら、それが理想の選択だとは考えている。だが、いざそれを実践に移そうとすると、思わぬ問題が浮上してくることも忘れてはならない。
既に報道されているように、事故を起こした福島第一原発を完全廃炉にするまでには40年、場合によってはそれ以上の歳月が必要だとされているが、現在稼働中あるいは運転休止中の他の原発についても廃炉に長い年月を要するのは同じである。いずれの原発も完全廃炉に至るまでには少なくとも30年はかかるだろうと考えられている。使用済み核燃料や高濃度の放射性物質に汚染された大量の原子炉構成材料、膨大な循環パイプ類などを安全に処理するには、長い時間と高度な技術、そして多額の費用を要するからである。老朽化したビルや工場施設類の解体作業のように、重機を持ち込んで短時間に破壊し撤去するというわけにはいかないのだ。
廃炉作業を進めるに当たって特に深刻な問題となるのが、原子力工学分野における専門研究者や高度な知識経験を持つ技術者の将来的な枯渇である。現在その分野で主導的な役割を担う研究者や技術者は30年、40年という歳月の流れの中で高齢化し、やがて現場を離れていく。一方、今回の一連の事故に伴う世論の動きを反映し、原子力工学や放射線科学分野への進学を志望する若者たちは激減していくと思われる。そのため、原子力工学の研究者や原発技術者の数はどんどん先細りになることが予想されるのだ。まさか、廃炉処理専門の研究者や技術者になるために原子力工学を専攻してくれなどと若者を勧誘するわけにもいかないから、廃炉処理に当たる専門家がいずれ不足するだろうことは目に見えている。このままだと、高額な費用を出して国外から廃炉処理のために専門家や技術者を招かねばならないなどという、笑うに笑えぬ事態にまで発展していきかねない。
将来的に国内の廃炉作業に備える必要があるのはむろんだが、韓国や中国、ベトナム、インド、そして現在政治的指導者の継承問題が生じている北朝鮮などでは、既存の原子炉運転が続けられるばかりでなく、今後も新炉の建設が進められていくようだ。それゆえ、先々予想される国内外からの各種技術的要請や万一の非常事態などに適切に対応するためにも、一定数の原子力工学や放射線科学の専門家は常時存在していなければならない。それにまた、原子力工学や放射線科学分野の研究や技術は、昨今国際的にも注目されている最新光科学や素粒子物理学の先端研究にも不可欠なものとなっている。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な一時的感情論によって、原子力や放射線関係の専門分野における研究者や技術者の数を減少させるようなことがあってはならないのだ。文科省などの教育行政担当者はむろん、我々一般国民もそのことは十分に認識しておく必要がある。
廃炉に伴う使用済み核燃料や高濃度放射能汚染物質の処理にも絶対的な解決策は存在していない。一時代前のような深海への投棄などもってのほかだから、それらを溶融ガラス中に封入して固め、長い年月腐食に耐える金属筒容器に完全密閉して地中深くに埋めるしかない。だが、実際にそれをどこかに埋めようという段階になると、可能なかぎりの技術を駆使して極力リスクを抑え、地元に対しそれなりの説明と見返りの供与を図るようにしたとしても、お決まりの地域エゴに因する強硬な反対意見が生じ、たちまちその実践は不可能となる。使用済み核燃料を収納する金属容器は1000年も経てば腐食が進むから、ガラスで固められた放射性物質が徐々に地中に漏れ出るという声なども上がる。現状のまま国内各地の原子力施設の周辺に保管し続けるほうが遥かにリスクは高く、当面どうするかが優先課題のはずなのに、国民はそれを切実な問題だとは受け止めようとしない。自ら招いた不祥事に万全な解決法が無い場合、リスクの最も少ない負の選択をするのは避けられないはずなのだが、この国においてはその責務を誰もが無視あるいは放棄し続けてきている。私にはその代償の大きさが危惧されてならない。