日本列島こころの旅路

第10回 鎮魂 ~深い悼みのもとで受難者の冥福を祈る~

三陸の青き浄土に地獄絵図描く仏の御心や如何に

想像を絶するこの異常事態に我々国民はどう対処していくべきなのだろう。遣り場のない深い悲しみと、先行きの見えない不安とで今この国は覆い尽くされてしまっている。突如東北・関東一円を襲ったマグニチュード9の大地震は、巨大津波を誘発し、人々の懸命な営みを嘲笑うかのごとくに太平洋沿岸各地の集落を破壊し尽くした。その猛威によって多数の人命を奪い去り、数知れぬ家屋や施設を瓦礫の山と化したにもかかわらず、それだけではなお暴虐の念が満たされぬとばかりに、福島第一原発の原子炉群を危機的状況に陥れた。

被災地一帯の海岸には続々と遺体が漂着し、現時点においてさえも亡くなった方の数は1万人を超え、行方不明者はほぼ2万人に達しているという。最終的には犠牲者数は3万人にも及ぶのではないかと予想されている。蟻にも等しい小さな身にできることなど何一つないが、ともかくも、亡くなられた多くの方々のご冥福を心からお祈りし、深い哀悼の意を表したい。そしてまた、無残に砕け飛び散った「明日への夢」の残滓になおも無念の思いを托す数々の御霊に鎮魂の祈りを奉げたい。
想像を絶する各地の凄惨な状況については、各種メディアを通じて既に報道がなされている通りだから、今更言及するまでもない。問題はこの降って湧いた想定外の国難をどう受け止め、今後どのように克服していくかだろう。いまこうして生き残っている私たちには、日本の現況に絶望し、意気消沈している暇などない。ささやかでもよいから一人ひとりが節制に努め、その人なりにできる範囲での被災者救済を心がけ、互いに手を携えながら明日に向かって笑顔で立ち上がるようにするしかない。さもなければ地震や津波で亡くなった方々に申し訳が立たない。爛熟した現代文明に浸りきった身をいくらかでも反省しながら、社会的機能や生活必需品の生産体制が回復するまでは少々不自由な生活に甘んじるしかないだろう。そんな自己抑制の向こうにしか新たな希望は湧いてこないからである。

青潮の寄せる浄土ヶ浜や牡鹿半島周辺の景観をはじめ、風光明媚だったあの三陸海岸の諸景勝地はいまや阿鼻叫喚の地獄と化した。もしも天に懲罰の意思があったとすれば、その天意を向けられるべきは、被災地にあった人々ではなく、私たち都会の住人たちのほうだったのではなかろうか。大震災に伴う被災地の惨状や福島原発の事故情報が報道されると、即刻被災者の支援に乗り出し、ボランティア活動のため現地入りする都会人も少なくはなかった。しかし、それよりもずっと目立ったのは、異常なまでに生活必需品を買いあさり、電力不足の影響に不安を抱く都会人の姿だった。経済的に豊かな階層の家族にあっては、大規模余震や放射能汚染の拡大を恐れて出国したり、被災地から遠く離れた地方などに一時退避したりするケースも少なくなかったと聞く。そのためもあってか、九州各地のホテルなどは、観光シーズンでもないのにまったく予約がとれない状況になったりもしているという。

断っておくが、私にはそんな人を責めるつもりなど毛頭ない。人間というものは誰しもが自己防衛本能を有しており、長年のうちに培われた個々の社会経験や価値観に応じてその本能の発揮のしどころが決定される。どの段階で自己防衛に踏み切るかは結局各人の判断に委ねるしかない。決断が早すぎると自分勝手だと謗られ、遅すぎると状況判断が甘いと批判される。同じ決断を下しても、逆に、決断が早かったと称賛されたり、最後までよく頑張ったと評価されたりすることもある。その優劣を一概に裁定するのは難しい。

長期の停電や極端な物資不足に慣れている一定年齢層の人々などは、今回の一時的な停電や生活物資不足などに対しては平然と構え、一本の蝋燭の明かりのもとで粗食に甘んじた遠い昔を懐かしみさえしていることだろう。だが、たとえ短期間ではあっても、そのような環境下での生活経験のない現代の都会育ちの人々にそんな冷静かつ臨機応変な行動を期待するのは酷なことなのかもしれない。

だが、たとえそうだとしも、都会人に科せられるべき天の責めをも背負って被災された方々には心から手を差しのべ、その悲しみを共に分かち、その労に深く報いなければならない。便利で豊かな生活に恵まれてきた都会人は、この際それぞれに身を削り、半ば忘れかけてきた助け合いの精神に立ち返って被災地域の人々を真摯に支えなければならない。当面は誰もが政治的立場の違いや個人的恩讐を超え、国家的危機に立ち向かっていく必要がある。

原発問題に関しては、放射性物質は遠いところに棲息する原子炉という怪物の吐き出す汚物ではなく、我々自身の排泄物そのものだと自覚するべきだ。どんなに汚く危険でもそれを直視し、リスク覚悟でその処理と対応に臨む意識を持たねばならない。快適な環境の中で美味しい料理を腹いっぱい味わい、その料理に起因する排泄物には我関せずという態度をとることはもう許されない。もし汚物の処理を他者に依頼するのであれば、その相手にそれなりの心配りを行い、相応の経済的負をも引き受ける決意をしなければならないだろう。

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