前略
明るく澄んではいるものの、どこか淋しい光をはらんで空を旅する秋の風というものは、もともと相当に気まぐれなしろものなのです。吹き流れゆくその風の行方を別の風が意のままに定め操ろうとすることは、絶望的に難しいことなのですよ。そんな風にめぐり逢い、その風と戯れ、自らもその風の流れに息を合わせて遠く遠くどこまでも旅をしていこうとするならば、相手の流れに身を委ねとことん我が身を捨てる覚悟をするか、さもなければ、逆に、高みから悠然と相手の気まぐれな流れの有り様を見守り包むことのできるほどに強い自我を築き上げてゆくほかないのかもしれません。
そうでなくても、たまたま出逢った風と風とが同じ向きに旅をしようとする場合には、普通、どちらの風もある程度まで己の心の欲求を抑えて臨むか、どちらか一方の風が相手に悟られぬようにして大きく向きを変えるかするものなのです。冷静な心で相手の風を見つめてみて、お互いのあまりに強烈な個性のゆえに、共に旅することによって風としての存在そのものが危うくなり、しかも、どちらにとってもそれは耐え難いというのであれば、一時的にはどんなに意気統合したとしても、あるところまで一緒に旅を続けたあとは、別々の方向に吹き抜けて行く覚悟をしておかなければならないでしょう。むろん、これは頭で考えるほどに容易なことではありませんけれども・・・・・・。
あなたの痛みと深く傷ついた心の内はよくわかります。でも、あなたなりにこの大空を旅して行くならば、きっとまた、キラリと輝く新たな風とのめぐり逢いがあることでしょう。お互いのすべてが一致するなどという「ないものねだり」を強要したりしなければ、そして、「相手にも心の安らぎを与えてあげる」というこまやかな配慮を常に忘れないようにするならば、風向きをうまく揃えて仲良く旅を続けて行くこともできるでしょう。
ただ、一言だけ敢えて付け加えさせてもらうと、当面とても話が合い、互いに身を寄せ合っていると心安らぐということと、ともに生活して行くということの間には、いまあなたが想像している以上に大きな違いがあるのです。相手を結婚の対象として考えるとなると、通常、誰もが慎重になるもので、本質的なことが重要だとは十分に納得しながらも、本質的なところ以外の問題についてもあれこれと考えてしまうものなのです。そして、社会動物としての人間個々の弱い立場を思うと、それは必ずしも責められるべきものではありません。
慰めの言葉が欲しいとのことでしたが、ある意味では、それを要求される側にとってこれほど難しいことはありません。ともすると心にもないことを言ってしまうことになってしまいがちだからです。もちろん、文字通りの意味での慰めでもかまわないというあなたの気持ちは十分に理解できるのですが、このような時にはその事態から目を反らすのではなく、奥の奥までその本質を見すえることも一つの知恵なのです。酷なようですが、もしかしたら、それ以外に痛みから抜け出る方法はないのかもしれません。また、長い目で見れば、そのほうがあなたの志すシナリオの仕事などにもよい影響がでるのではないかと思います。よく言われることですが、あるものごとが頭でわかるということと痛みを経て身体ごとわかるということはまったく異なることだからです。
天地(あめつち)に我独り居て立つごとき
この寂しさを君は微笑む
この歌は僕の好きな歌人のひとりで、秋艸道人(しゅうそうどうじん)の号を持つ会津八一が奈良法隆寺夢殿の救世観音を前にして詠んだものです。救い難い痛みと悲しみを抱え、そしてまた生きる限り背負っていかねばならない底知れぬ孤独を思いつつ大和の寺々をめぐっていた青春のある日たまたま出逢ったこの歌は、その頃の自分にとってはなんとも衝撃的なものでした。それまでのすべてのこだわりが溶け去っていくような言い知れぬ深い感銘に心を打たれたことを昨日の出来事のように思い出します。僕とはまるで違う状況のもとに育ったあなたにこの歌の心を今すぐに理解せよと無理強いする気は毛頭ありませんが、これから先、ひと皮脱いであなたが大きく成長を遂げていくためには、この歌にあるような境地を凝視し感じ取ってみるのも必要なことなのかもしれません・・・・・・。
思いつくままに筆を運ぶうちに、なんだかあなたの意にはそぐわない内容の手紙になってきてしまいましたが悪しからず。「明日は明日の風が吹く」――あの名作『風と共に去りぬ』の中にもあるこの名文句には、癒し難い数々の痛みと深い孤独の淵を超えた者のみの知る、静かなしかし揺るぎなき「生」への肯定と回帰が秘められているように思われてなりません。生き抜いていくことによってのみ、生きることのほんとう意味は見えてくるのではないでしょうか。洋々たる未来のあるあなたのこと、心から力強い再起を願ってやみません。
草々