日本列島こころの旅路

第2回 竜飛崎に見た新生のエネルギー

津軽半島の最北端、竜飛崎を初めて訪ねたのは23年前のことである。津軽半島を西海岸沿いに北上、十三湖を経て小泊村に入り、そこから隘路(あいろ)伝いに標高五百メートルほどの山岳地を越え三厩村(みんまやむら)に属する竜飛崎の小集落に着いた。初冬という時節に最悪の天候までが重なったせいもあってか、竜飛は想像していた以上に暗く寒々としたところだというのが率直な印象だった。おまけにその夜の宿探しには苦労した。宿の側もそんな時節外れの荒天の日に気まぐれな客がふらりとやってこようなどとは考えてもいなかったらしい。何軒目かに訪ねた宿で、そこの主らしい男が薄暗い感じの玄関先まで顔を出してくれたのだが、突然の宿泊依頼に一瞬怪訝な表情を浮かべさえする有り様だった。宿泊を承諾されるまでに一瞬の沈黙があったのは、眼前の風体定かならぬ客が、料理をつくったり風呂を沸かしたり部屋の掃除をしたりする手間に十分値するかどうか勘案していたからだろう。

宿に荷物を置き、折からの冷雨と烈風を突いて竜飛崎周辺の探索にとりかかった私は、まず昭和五十年秋にその地に建てられたという太宰治の文学碑を探し当て、その前に立った。その碑にはほかならぬ小説「津軽」の一節が彫り刻み込まれていた。「ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いているとき、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に至り、路がいよいよ狭くなりさらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全くつきるのである」という一節で、太宰は戦時中の昭和十九年の五月末に、「津軽」執筆の取材のためこの地を訪れている。続いて私は、竜飛崎灯台近くにあった、当時のごく簡素な造りの展望所へと足を運んだ。その展望所の突端に立つと、北西側の海から猛烈に風が吹き上げてきた。その風に向かってスキーのジャンプ選手みたいに斜め前方に身を傾け、宙に乗り出すような姿勢をとってもバランスがとれるほどの烈風だった。竜飛崎は一年中強風の吹き荒れるところだとかねて聞いていたが、なるほどと納得のいく思いだった。今ではその周辺には、時代を物語る巨大な風力発電用風車が林立している。

低く垂れ込めた黒雲のもと、その日の津軽海峡の海面(うなも)は、海水特有の青の成分をすっかり抜き取られてしまったかのような暗灰色をしていた。海峡対岸の松前半島南端白神岬あたりの陸影もまったく見えなかった。しばらくして西方の日本海へと視線を転じると、暗く鬱々とした色の海と空とが相互に近づくあたりに、どちらとも見分けがたい黒く長い帯状の領域があるのに気がついた。それは常々目にする水平線の光景とはまるで異なるものであった。場所や方角によって濃淡こそ違うが一面黒灰色に覆われた殺風景このうえない世界、感動とは無縁なもっぱら薄ら寒いだけの風景――見方によってはそうとしか感じられようのないモノトーンな光景を前に、これが竜飛の竜飛たるゆえんかとしばし私は思い沈んだ。

だが、その西方の黒い帯状の領域を凝視するうちにその思いは驚きに変わった。一帯の海面から幾筋もの巨大な水蒸気柱が立ち昇り、上昇するにつれて濃い霧の柱となり、さらに上空に達したところで次々に厚い黒雲に変わっていっているではないか。考えてみると、東シナ海に端を発した対馬海流は列島沿いに日本海を北上し、津軽半島西方沖合を通過している。この暖流の表層部から湧き昇る大量の水蒸気が雨雲や雪雲となって裏日本各地の上空に押し寄せ、豊かな緑や清流を育んでいるのだ。憑かれたようにその黒い蒸気エネルギー柱の織りなす自然のドラマを眺めやるうちに、黒灰色の寒々とした姿を見せて広がるその海と空には、何物かを新生させる超自然的な力が無尽蔵に秘め蓄えられているように思われてきた。暗い海面からさらに暗い空へと向かって激しく立ち昇る水蒸気は、その途方もない創造エネルギーの一端を象徴しているかのようにも感じられた。黒と灰色の織りなすそのモノトーンの世界こそが生命の躍動する色彩豊かな世界の隠れた演出者であることを私はあらためて実感するとともに、太宰作品の魅力の根源も、さらには津軽の優れた芸能文化の根源もそんな創造エネルギーのなかにこそ求められるべきなのではないかとも思うのだった。また、「竜飛」という風変わりな地名は、天に昇る無数の竜の姿とまがうばかりのこの光景に由来しているのではないかとも考えはじめたのだった。

竜飛集落と堤防で繋がる帯島の東側海底を走る青函トンネルが開通し、周辺の道路開発が進むと、立派な観光施設やホテルもでき、以前のような暗さはなくなった。碑の丘という新設の展望公園には、太宰治の文学碑のほかに吉田松陰の漢詩碑なども建っている。吉田松陰は嘉永五年(一八五三年)三月に小泊村を経て津軽海峡の見下ろせる算用峠に立ち、憂国の情を一篇の漢詩に詠みたくした。外国船の日本周辺横行を憂い、海防の重要性を説いていた松陰は、諸外国の船が頻繁に通行する津軽海峡の状況をはるばる徒歩で視察にやってきたのだった。

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