日本列島こころの旅路

第18回 原子力発電所災害に思うこと(その8)(2011,12,15)

電力各社は、原発の安全性とクリーンなイメージを広くアピールしようという意図から、バスツアーの団体が原発見学をコースに組み込んだ場合、バスのチャーター料金を電力会社側で負担するというサービスを提供したりもしてきた。自社の電力管内の小中学生が団体で見学に立ち寄る際などには弁当のサービスまで行ってきたようだ。東京電力などは、今回の事故発生以前までは、管内各地の町内会長などを原発見学ツアーに招待してその安全性をアピールし、そのあと宴会まがいの接待を催す行為を日常的に繰り返してきた。また、私が大飯原発を取材した18年前当時は、反原発陣営寄りの有力人物を原発関連の主要ポストに迎えようという画策もなされ、そのためにあの手この手の勧誘が行われたりもしていたようだ。電力会社側の苦労もわからぬではないが、このような上辺だけの場当り的な工作は、かえって原発に対する疑惑や不信感を深めるばかりで真の解決になどなりはしない。原発の存在意義を世論に訴える意図でそれだけの費用をかけるなら、少なくとも、真摯に問題の本質を世に問うための別の工夫や発想があってしかるべきである。

最近ある調査で幸せ度日本一にランクされたという福井県だが、同県の行政や経済はすでに原発関係資金への依存なしにはうまく機能しないところまできているという話もあるし、原発は棚からボタ餅だという失言をしたともいうある元首長の一件や、九電絡みの佐賀県知事をはじめ、あちこちの首長にまつわる黒い噂なども飛び交っている。原発技術者は自分の子どもを原発近くの海では泳がせないようにしているとか、原発の排水口のある付近の沖の魚介類から放射能が検出されたとか、高温排水の影響で浮いた魚を原発サイドの船がさりげなく回収しているとかいったような話もまことしやかに囁かれたりもする。

その真偽のほどはともかくとして、いまひとつ確たる裏付けのないままにこのような噂や憶測が飛び交う背景には、極力関連情報を非公開で済ませようとする原発や関連行政当局の秘密主義や、それに起因する周辺住民の強い不信感があることは否めない。そして、現実を無視した一連の不毛な原発論争は、その相互不信の延長線上にあると言ってよい。

電力会社や行政当局が、当面の原発の必要性を国民に理解してもらおうと思うのなら、鸚鵡返しに「安全」の一語を繰り返すのではなく、原発の基本原理やその問題点などを真摯に説明する努力をしなければならない。また、原発システムのどこにリスクがあり、現在の技術でそれらをどのようにカバーしているかなどについても十分に情報を公開し、電力事情の逼迫を客観的に説明したうえで、原発存続の是非を世論に問うていく必要があろう。どうせ一般国民は専門的なことなど理解できないだろうと高を括り、相も変わらぬ行政主導型の秘密主義をとりながら、上辺だけのソフトなイメージ戦略のみに頼り続けようとするならば、多くの国民のコンセンサスを得ることは最早不可能であろう。

一方、我々国民の側も、感情論剥き出しのヒステリックな原発批判にのみ走るのではなく、公開された情報を冷静に受けとめ、自らの電力依存状況を十分に顧みながら、実状に即した的確な態度と行動をとるようにすべきだろう。長年に亘る原発推進派と原発反対派の不毛な感情的対立の影響を受け、原子力工学の専門家と言われる人々も賛成・反対の両派にわかれ、相手側の意見のあら捜しと批判に明け暮れてきたというのが近年に至るまでの状況であった。だが、福島第一原発で重大事故が生じた現在、何時までもそのような不毛な論争に明け暮れているわけにはいかない。それなりの難しさはあるだろうが、科学者としての真の良心に基づき、中立の立場から原発の諸問題を客観的に審査検討することができるような組織の再編成が急がれる。そして、国民への情報公開を前提として、その組織に強い発言力と指導力を与えていくべきである。

原子力安全委員会をはじめとし、現在もそれに類するいくつかの機関は存在しているようであるが、率直に言って行政主導型の御用機関である感じは否めない。原発問題に関するかぎり、産業界の一方的な要請を背にした行政の独走は危険なことこのうえない。社会の発展と維持のためには当面どうしても原発が必要だが、その代償として、中小の事故や平常運転における一定量の放射性廃棄物の排出、さらには、それらに伴う原発労働者のある程度の放射線被曝が避けられないというのなら、その問題に対応するため一定の社会資本を投入するのはやむをえないことだし、国民一人ひとりもなんらかのかたちでそれに協力する姿勢をとらねばならない。逆に、現代の原発制御技術を冷静に検討評価してみて、あまりにも危険が大き過ぎ早急に運転停止や廃炉が望ましいというのであれば、現在の快適な生活環境を一時的には捨てることを覚悟したうえで節電に努め、安全な代替エネルギーを模索していくしかない。なんのリスクも自らは負わず、快適さと便利さだけを当然のように要求し、社会の吐き出す汚物には目を背け、我関せずという甘えた態度をとり続けることは、もはや我々には許されない。

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