日本列島こころの旅路

(第38回)日川(にっかわ)渓谷~甲斐武田家滅亡の地(その2)(2013,9,15)

家臣土屋惣蔵昌恒は、討死を覚悟した勝頼に田野まで引き返して自刃するよう進言し、自らは竜門の滝に近い渓谷の断崖絶壁を縫う隘路で織田軍を待ち伏せ、次々と敵兵を切り殺し渓流へと蹴落とした。当時その付近は垂れ下がる(ふじ)(かずら)を片手で掴みながら通り過ぎなければならないほどの難所で、土屋は片方の手で藤蔓を掴み、もう片方の手で刀を振りかざし敵兵を切り落としたのだという。その伝承にちなんでその場所は「片手切」と呼ばれるようになった。土屋のほか、小原丹後守、小原下総守らも配下の兵とともに同地近辺で奮戦、千人にも及ぶ織田軍兵を切り倒したと伝えられている。いっぽう、日川渓谷下流の田野への入口にあたる鳥居畑では秋山紀伊守、小宮山内膳正友信、阿部加賀守らがわずかな兵力をもって織田配下の滝川一益の軍勢と激闘し、数度にわたって滝川軍の田野侵攻を押し留めた。最後まで勝頼に忠節を尽くした武田家臣らも少なくはなかったのだ。

家臣らが必死に抗戦している間に、勝頼と北条家出身の19歳の勝頼夫人、勝頼の世子で16歳の信勝の3人は自刃したという。武田一族最期の地にはのちに徳川家康の命によって天童山景徳院が建立され今日に至っている。景徳院境内には勝頼夫妻や信勝らの墓のほか、その影像、位牌、遺品を収めた甲将殿、3人の自刃の場だとされる3個の生害石などが現存している。いまでは澄み切った水が溢れそんな生々しさなどまるで感じられはしないが、近くには織田方が勝頼ら3人の首を洗ったところだと伝えられる首洗池などもある。

もっとも、歴史上の話にはよく起こりがちなことであるが、勝頼の最期を見届けた織田方武将の伝えるところはいささかそれとは違っているようだ。勝頼は飢えと極度の疲労のために動けなくなり、戦闘にも参加できずに具足(ぐそく)(びつ)の上に腰掛けたままだった。そしてついには前面を死守する土屋惣蔵らも討死し、その直後に側面から襲いかかった伊藤伊右衛門永光の手によって無抵抗のまま一刀のもとに討ち果たされてしまったのだという。激戦のゆえに、戦闘終結後も3日間にわたって一帯の渓流には数多くの死んだ兵士らの血が流れ続けた。そのために、かつてこの渓流は「三日血川」と呼ばれていたのだそうだ。ただ、史実に沿っているとは言ってもそれではあまりにも凄惨なイメージが強すぎるというので、現在では「三」と「血」の二文字を取り去って「日川」と改名されている。

そんな名称の由来だけを耳にするとおどろおどろしい印象を抱いてしまいがちだが、実際の日川渓谷はこのうえなく風光明媚で詩情豊かなところである。大菩薩嶺(2057m)には、南に向かって大菩薩嶺―大菩薩峠―小金沢山(2014m)―牛奥ノ雁ガ腹摺山(1985m)―黒岳(1988m)―湯ノ沢峠―大蔵丸(1781m)―米背負峠―大谷ヶ丸(1643m)―大鹿峠―笹子雁ガ腹摺山(1357m)―笹子峠(1096m)とのびる尾根筋と、同じく南側に向かって大菩薩嶺―上日川峠(1590m)―砥山(1607m)―下日川峠―源次郎岳(1477m)―宮宕山(1309m)とのびる尾根筋とがあって、日川渓谷はそれら2つの尾根筋の間に位置している。ちなみに述べておくと、大菩薩峠は中里介山の名高い時代小説のタイトルにもその舞台にもなったところである。

景徳院のある田野から渓谷伝いに遡上するとやがて清流の(ほとばし)る竜門の滝に着く。この地点で渓谷は竜門峡を形成する左手の日川渓谷本流と、「片手切」のある右手の支流大蔵沢との二つに分かれる。瑞々しい新緑や鮮やかな紅葉で知られる竜門峡には遊歩道が設けられていて、この遊歩道を登りきると天目山栖雲寺へと出る。中国杭州天目山で修行を積んだ業海本浄禅師が南北朝時代の1343年に開山したというこの禅寺には、花崗閃緑岩の自然石群をそのまま活かした珍しい石庭などがあって、こよなく旅人の目を惹きつける。またこの栖雲寺は蕎麦(そば)(きり)発祥の地ともいわれ、境内にはその旨を記した石碑が立っている。もちろん蕎麦切とは、細長く切って供される現在の蕎麦の原形態ことである。その伝統を受け継いでいるともいう近くの蕎麦屋天目庵や砥草庵の蕎麦は絶品といってよいだろう。

日川渓谷のあちこちにはPH10.3というきわめてアルカリ度の高い鉱泉が湧き出ている。渓谷の奥にある嵯峨塩鉱泉はその代表格だろう。栖雲寺からなおも渓谷に沿って遡上し、日川最奥の牛奥集落をすぎてさらに進むと、鄙びた一軒宿「嵯峨塩館」が現れる。泉質抜群のこの宿の露天風呂にゆったりと身を沈めながら眺める四季折々の渓谷の景観は実に素晴らしい。渓谷の清流に映える新緑や紅葉、さらには美しい冬の雪景色と、目を奪われることこのうえない。若き日の東山魁夷画伯がその風景に感動し絵筆をとったというのも頷ける。実際、この宿の廊下の壁面には、当時の東山画伯の手によるものだというスケッチ類が数点飾られていて、心の安らぎを求め(おとな)う者たちの目を奪う。渓谷に沿う林道は嵯峨塩鉱泉からさらに奥にのび、日川ダムを経て長兵衛小屋のある上日川峠に至っている。渓谷の上流一帯から望む富士の眺めも、長兵衛小屋付近から目にする南アルプスの景観も息をのむほどに美しい。

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