ある奇人の生涯

46. 強運と悲運のはざまにて

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

漢口に着いてからほどなく、石田らの新兵部隊に軍令が下された。彼らが命じられたのは、北京まで出向き軍馬を引き連れて漢口まで戻るという特別な任務だった。馬の取り扱いなど知らないに等しい新兵らに、日毎に激しさを増す米軍機や毛沢東指揮下の八路軍による猛攻をかいくぐりながら、片道千三百キロにも及ぶ漢口と北京間を往復し軍馬を連れてこさせるなど正気の沙汰の命令とは思われなかった。そもそもそんな危険をおかして遠路はるばる軍馬を連れ戻ったとしても、そのことにどれほどの意味があるのか疑問でもあった。あえて勘ぐれば、懲罰含みの命令であるとも受取れないこともなかった。

だが、上官の命令は絶対的なものだから、結局のところ、部隊の誰もが黙々とその命令に従うほかはなかった。戦局が悪化した太平洋戦争終末期の日本軍の軍令やそれに基づく軍事行動などには、悲壮な精神論がやたら強調されるのみで合理性に欠けたものがすくなくなかったため、戦線のいたるところで犠牲者が続出した。この時に石田らの部隊に下された命令もけっしてその例外ではなかったのだった。

皮肉と言えば皮肉な話だが、石田らの部隊がいよいよ漢口を出発しようという当日のこと、結果的にはその後の生死をわけることになった運命の分岐点が意外なかたちをとって彼の身に訪れた。入隊して以来、連日の猛訓練にともなう不摂生が祟ってその時までに彼の両足はひどく水虫におかされてしまっていた。それまで我慢に我慢を重ねてきていたのだが、すでに尋常の状態ではなくなっていたのである。その両足はどちらも五本の指が互いに癒着して拳みたいに固まってしまい、痛みや痒みばかりでなく出血などもあって、現実問題として長い行軍に堪えらえるような状況ではなくなっていた。ただ、それでも石田自身は命令に従って仲間たちと一緒に漢口を出立し、力のかぎりを尽して歩けるところまでは皆について行こうと覚悟を決めていた。あとは野となれ山となれという、半ばやけっぱちな気分でもあった。

部隊の出発前に、一応、希望者に対して軍医や衛生兵らによる簡単な健康状態のチェックがあったので、石田はたとえ一時的な気休めではあっても何かしら水虫の薬でも貰えないものかと思いその診察を受けた。ところが、たまたま石田の足の状態を診てくれた軍医はそのあまりに異常な病状に驚き、すくなからぬ好意をもって、せめて数日くらいは出発を遅らして治療にあたるようにと勧告し、急遽そのように手配してくれたのだった。部隊の他の者たちに申し訳ないという気持ちがしなくもなかったが、結局、数日してから後を追うつもろだと仲間たちに伝え、軍医の指示に従ってその日の従軍を思いとどまった。

石田翁は、「生まれつきの悪運の強さですよ」と自嘲気味にこの時の話をしてくれたのだが、結果的はこの水虫の極度の悪化が彼の一命を救うことになったのだった。実際、「水虫様々」と白癬菌に心底感謝するしかないような一連の成り行きで、悪運の強さのゆえの命拾いと老翁が笑うのももっともなことであった。

数日後に新兵からなる先発部隊の後を追うというつもりでいたのだが、結局、北京方面への後続部隊出動の命令は下らぬまま、いたずらに時は過ぎていった。一新兵に過ぎなかった石田にはむろん知るすべもないことであったが、米軍機によるさらなる猛爆撃と一大攻勢に転じた八路軍の急襲により、すでに北京と漢口を結ぶ軍事輸送路はいたるところで寸断され、後続部隊が容易に進軍できるような状態ではなくなっていたのである。

その惨状が明らかになったのはずっとのちになってからであるが、本来なら石田がともにその命運を委ねるはずであった部隊は、その時までにほぼ全滅に等しい状況に陥っていた。のちに判明したところによると、五百人ほどの部隊員のうち生還したのは僅か数人程度にすぎず、残りの兵士たちは皆非業の死を遂げたのだという。実際、人間というもの何が幸いするかわからない。ほとんど死ぬ運命にあったはずの石田は、こうして辛くも生の道へと押し戻され、その後に続くさらに数奇な人生航路へと突き進むことになったのだった。

この年の七月二十六日、ポツダム宣言がおこなわれ、連合国側は日本に対して無条件降伏をするように通告した。そして、それに呼応するように翌二十七日、蒋介石指揮下の国民政府軍も日本軍に対する一斉攻撃を開始した。さらにその十日後の八月六日には広島にウラニウム型原爆が投下され、それから二日後の八月八日、ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州への侵攻を開始した。そして、翌日の九日にはとどめを刺すかのように長崎に二発目のプルトニウム型原爆が投下された。

異常なまでに悪化した水虫の治療を受けながら、石田が漢口の兵員宿舎に一時待機していたのは、終戦間近のそんな時期のことであった。もちろん、広島や長崎に原爆が落とされたことなど知るわけもなかったし、ましてや終戦が近づいていることなど石田には想像もつかないことであった。ただ、なんとも奇妙なことに、なお漢口に残されている石田ら一部の新兵たちは竹槍の訓練を受けさせられたりもした。いざという時には玉砕覚悟で迫る敵と戦わなければならないから、竹槍の訓練は絶対に欠かせないという触れ込みであったが、全体的な戦況のわからない石田らには、銃剣の訓練を差し置いて今更なぜそんなことをしなければならないのか、なんとも合点がゆかなかった。

石田にとって生涯忘れることの出来ない悲しい事件が起こったのは八月十四日のことであった。現地召集され新兵として戦闘訓練を受けるようになって以来、彼には寝起きを共にしてきた同い年の友人があった。それは、慶応大学中退の経歴をもつ舟村という新兵であったが、その育ちのよさもあってか、やることなすことのすべてにおいて石田以上に要領が悪かった。育ちのよさに対する妬みや憎しみなどもあって、当然、新兵の舟村は古参兵の鬱憤晴らしの格好の対象となり、やはり毎日のように殴る蹴るの暴行を加えられていた。石田もずいぶんと殴られ続けたが、彼に対する暴虐や侮蔑の数々はより凄まじいものであった。

お互い兵士としては落ちこぼれにすぎない存在だったが、それゆえにまた相通じるものもあって、石田と舟村とはいつしか深い心の絆で結ばれるようになっていた。もちろん、二人ともそれなりの教育を受け、過去それなりに知的な生活を体験してきていたから、ずいぶんと話も合った。他の兵士たちの目を避けながら、過去に見た外国映画の名作やそれまでに読んだ文学作品などについて、二人だけで密かに話し込むこともしばしばだった。不当な暴行などを受けたあとなどは、お互い慰め合い励まし合うこともすくなくなかった。

ただ、舟村はかなり身体が弱かった。新兵としの教育と訓練を受け、石田とともにやはり南京から漢口に連れてこられたのだが、その途中でもずいぶんと苦しそうな様子を見せていた。漢口から北京に向かうように石田らの部隊に命令が下った際も、病気がちな彼はすっかり体調を損ない体力が弱っていたので、結局、そのまま漢口の宿舎で待機するように命じられ、その指示に従って部隊には同行していなかった。そして、そんなお荷物的存在の彼は、その理由如何にかかわらず、いっそう古参兵らの侮蔑と嘲笑と暴行の対象にされるようになったのだった。殴られ蹴られたばかりでなく、最後には、性的な嫌がらせをはじめとし、その人格を根底から否定されるような凌辱のかぎりにさらされる状況へと発展した。悔しさに堪えかね、毎晩のように苦悶しすすり泣く彼をなんとかしてやりたいとは思ったが、宿舎では同室でなかったこともあり、石田にできることにはおのずから限界があった。

八月十四日の朝のこと、兵員宿舎のトイレ付近で突然なにやら騒がしい声がし、それに続いて一部の兵士や士官らが慌しくその場に向かう気配がした。そして、それからほどなく、石田に耳にも誰かがトイレの中で首を吊って死んだらしいという報せが飛び込んできた。それを聞いてはっとした彼は、もしやと思い大急ぎで現場に向かって走り出した。友人の舟村でないことを心中で祈りながら、人だかりができているトイレのそばに駆けつけてみると、すでに死後硬直を起こした様子の一人の兵士の縊死体が担架に載せられ衛生兵らによって搬出されようとしているところだった。

石田の予感は的中した。それはほかならぬ舟村の無残に変わり果てた姿だった。まわりの制止を振り払うようにして担架の脇に近寄ると、彼は友の頭部にかけられた白布をめくり、青黒く空ろな色になり果てたその顔を覗き込んだ。そして、片手で遺骸の胸のあたりを揺すりながら、「舟村君、舟村君、なんでこんなことになったんだっ!」と大声で叫び号泣した。やり場のない怒りと悲しみがとめどもなく込み上げてきたが、最早石田になすべきすべのあろうはずもなかった。

当時の軍隊では、古参兵などによる暴虐に堪えかね自ら命を絶つ者もすくなくなかった。だから、そのような事態が起こった場合の軍隊内での事後処理にはそれなりに手馴れたものがあって、石田の個人的な想いなどにはまるで無関係に、どこか事務的かつ機械的な手筈のもと、舟村の遺体は所轄の安置所へと運び去られていった。

そして、石田の哀しみもさめやらぬその翌日の八月十五日、ついに運命の時がやってきた。言うまでもないことだが、それは日本がポツダム宣言を受け入れ、無条件全面降伏に踏み切った日にほかならなかった。重要なラジオ放送があるというので兵士たちは通信隊の設置したスピーカーのある宿舎の一角に集められ、低く途切れ途切れな感じで流れる玉音放送に耳を傾けさせられた。だが、石田をはじめとするほとんどの兵士たちは、その放送の内容をはっきりと聴き取ることはできなかった。ただ、将校らの様子をはじめとするその場の全体的な雰囲気から、日本の全面降伏をもって戦争が終結したのだということだけは、誰の目にも明らかだった。

不思議なことだが、善い意味でも悪い意味でも日本が敗れたことに対する感慨のようなものはほとんど湧いてこなかった。放送を聴き終え解散したあとも、兵士たちの間には戦争が終わったことをとくに一喜一憂するような様子は見られず、奇妙な脱力感だけがひたすら現場の部隊やその関係者たち全体を支配していた。

そんな状況の中で、石田はあとわずか一日だけ我慢しておれば自ら命を絶つこともなくてすんだであろう舟村のことを何度も何度も想い浮べた。自らの悪運の強さを思うにつけても、たった一日の違いで無残な最期を遂げた舟村の天運のなさが無性に悔しく、そして胸がはりさけるほどに悲しくもあった。

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