日本語部局員たちへの石田の紹介が終わると、レゲット部長は彼を伴って再び自室に戻った。そしてそこであらためてBBC海外サービスの放送理念や石田の担当する業務内容について具体的な説明をしてくれた。「BBCの基本理念の根底にあるのは、真実、自由、そしてユーモアの精神です」と語るレゲット部長の言葉には穏やかななかにもどこか確固たる響きが秘められていた。
終戦翌年の1946年7月に三代目のBBC日本語部長に就任したトレバー・レゲットは、そのご幾度となく栄達の機会があったにもかかわらずそれを拒み続けた。そして1969年10月に引退するまでの実に23年余の長きにわたって心底愛する日本語部に在籍し続けた。頭のてっぺんから爪先まで根っからの親日家であったといってよい。
石田達夫に先立つこと2年の1914年、ロンドンに生まれたレゲットは若い頃からたいへん優秀な人物だった。大学に進学するのに必要な大学入学資格試験(GCE)に16歳で合格した彼は、ケンブリッジかオックスフォードへの進学を望んではいた。だが、英国きっての名門校であるそれら両大学は伝統的に全寮制をとっていたこともあって、18歳にならないと入学を許可されなかった。そのためだけに2年間を無為に過ごすことを潔しとしなかった彼は自宅からの通学が可能なロンドン大学進学の道を選び、そこで法律学を専攻し、弱冠20歳で同大学を卒業した。
ロンドン大学を卒業してから2、3年にわたってドイツやチェコに留学し、そのあと習い覚えた柔道の修行かたがた日本へとやってきた。そして彼は英国の外交官としてそのまま日本に留まることになったのだった。それからほどなく第二次世界大戦が勃発し、イギリス人は皆本国へと引き揚げることになったのだが、レゲットは一日でも長く日本に留まりたかった。そこで、英国大使館において様々な残務整理をしながらぎりぎりまで日本に居残り、1942年の最後の交換船で離日した。そして本国に帰国後すぐにBBC日本語放送の仕事を担当するようになった。
レゲットが長期にわたって日本語部に在籍し続けることができたのは、彼が断固として昇進を拒絶したからにほかならなかった。BBCでの地位が上がればあがるほど日本との関係が疎遠になることを自覚していた彼は、そうなることを危惧して昇進の道を捨てたのだった。BBCにおいては本人自身が実績をアピールしながら昇進したい旨を申告し、それを上層部が査定することによって栄進が決定するシステムになっていたため、レゲットはそれを逆手にとって日本語部長の席にすわり続けたわけだった。BBCの人事部としてもその処遇にはたいへん困ったと語り伝えられている。
レゲットの日本語能力は抜群であったが、日本語に堪能な外国人によくありがちなようにただ単に会話がうまいというばかりではなく、日本文を読む力、書く力が一般の日本人など足元にも及ばぬほどに秀れてもいた。仏典や漢籍を自由に読みこなすくらいであったから当然漢字には通じており、自分のレゲットという名前をもじった「麗月塔」という号を案出し、毛筆でその三文字を署名したりしてもいた。「禅入門」、「虎穴」といった禅関係の英訳書などがあるほか、サンスクリット語で著されたインド哲学の翻訳書が2冊あることからもわかるように、禅の教えをはじめとする東洋思想についてのその造詣の深さは並大抵のものではなかったようである。
彼はまた講道館六段(当時は五段)、イギリス柔道連盟八段の柔道家で、すでに述べたように当時のヨーロッパにおける最高位の有段者でもあった。柔道に関す書籍を20冊近くも著し、ロンドン市内に「RENSHUDEN(錬修殿)」という道場を創設、柔道の国際的普及に貢献した。柔道のほか日本将棋にも精通しており、その棋力は日本将棋連盟認定五段の実力で、当時の棋界で名声を馳せていた大山康晴十五世名人とも親交があった。もちろん、西洋が本場のチェスの腕前も相当なもので、BBCでのチェス大会においてチャンピオンにもなっていた。
大きな身体に似合わずたいへんに器用な人でもあり、ゴルフはシングル、そのうえ、速記ができたりピアノがうまかったりと文字通り多芸多才でもあった。なかでもピアノに関しては一時期真剣にピアニストになることを志したほどの名手だとのことだったが、その逞しい腕と太い指のどこにそんな繊細な技能が秘められているのかと皆が不思議に思うほどだった。ただ、能ある鷹は爪を隠すの諺通り、よほどのことがないかぎり、柔道をはじめとする自分の特技について自慢話をしたりするようなことはなかった。
石田よりもずっとのちの一九六八年から一九七三年まで丸五年間日本語部に勤務し、その後カナダに移住した重松彬に関するエピソードは、レゲットという人物の温かくしかもこまやかな人柄をなによりもよく物語っているように思われる。
伝えられるところによると、重松は仕事を通して知り合いになった英国大使館商務部の二等書記官から、ある日突然、「ゴルフのクラブはいらないか?」という電話をもらった。そのゴルフのクラブというのがたまたまレゲットが日本に残していったしろもので、しかもその商務部二等書記官なる人物がレゲットの柔道の弟子でもあった。それが縁となってレゲット部長からBBC勤務を要請された重松はついに断り切れなくなってロンドンへと旅立つ羽目になってしまった。
BBC人事部からは空港に誰かが迎えに行くという連絡があらかじめ入っていたが、当時NHK国際局に出向中で重松の英語力のテストをしたニューマン(のちの第四代日本語部長)は、その話を聞いて、「じっさいにはどうなんだか……、まあ、あまり当てにしないほうがよいかもしれないよ」と笑いながら忠告した。そのため重松のほうは、万一誰も出迎えに来てくれない場合でも自力でBBCのホステルを探し当てることができるようにと考え、午前中にはロンドンに到着することができるように旅程を整えた。いったんアメリカのニューヨークに渡り、そこからロンドン行きのBOAC機に乗り継ぐというのが彼の立てた予定ルートであった。
ところが重松の搭乗する予定だったBOAC便は出発地のニューヨークが猛吹雪に襲われたために8時間あまりも遅れる結果となり、ヒースロー空港に飛行機が着いた時にはもうあたりはすっかり暗くなってしまっていた。すっかり予定の狂ってしまった彼は初めて踏むロンドンの地でどうしたものかと半ば途方に暮れかかった。するとその時、黒いアノラック姿の大男がかがみ込むようにして声をかけてきた。
「Are you from Tokyo?」
「Yes……」
不意を突かれた重松が反射的にそう答えると、その白髪の大男は黙って重松の重たいスーツケースを素早く奪い取った。そして何事もなかったかのようにすたすたと歩き出した。この体格のいい男は空港まで自分を迎えに来てくれた車の運転手かなにかなんだろうか、それともBBCの守衛でもやっている人物なんだろうか、もしそうだとすればそれらしい制服くらいは着ていてもよさそうなものなのだが――男のあとについていきながら内心で彼はそう思い迷った。
しばし間をとっていったん自分の心を落ち着けたいと考えた重松は、咄嗟に英語で相手に話しかけた。
「ちょっとどこかで両替をしてきたいと思います。イギリス通貨をまったく用意してきていないものですから……。両替所はどこでしょうか?」
「ここに五ポンドあるので両替は明日でいいのでは?」
重松の問いかけに対して端的にそう答える相手の英語には、どことなくぶっきらぼうな響きがあった。先に立って外に出ると、男はそこに待機していた二階建てバスの階段を上っていった。やむなく重松も無言のままそのあとに続いて階段を上り、おずおずとしながらもとりあえず男の隣りに席をとった。
しばらく二人は無言のままであったが、一息ついた頃になってから男は大きく首をねじるようにして重松のほうを向くと、いきなり予期せぬ事柄を尋ねかけてきた。しかも、驚いたことにそのために発せられた一言は日本語であった。
「ステブトーはどうしてますか?」
重松はまったく予想もしていなかったその日本語の問いかけに一瞬息を呑み、相手の顔をまじまじと見やった。そのステブトーというのは、レゲット部長の柔道の弟子で英国大使館商務部に勤務しているあの二等書記官のことだったからだった。相手の日本語につられた重松のほうも思わず日本語で反問した。
「あなたはもしかするとトレバー・レゲットさんですか?」
「そう」
またもや日本語で短くそれだけ言うと、重松の上司となるべきその人物は少年のような表情を見せながらにこやかに笑った。膝の上に置かれた両手のあちこちには擦り傷があった。それらが柔道の練習中についた傷であることは明らかだった。BBCの日本語部長自らがたった一人で、遠来の新人部員重松を夜のヒースロー空港までわざわざ迎えに来てくれたというわけだった。その身体の大きさにもかかわらず、レゲットはそれほどに温かくこまやかな配慮のできる人物であった。