ある奇人の生涯

96. 時は移り人は替わる

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

全世界の政治体制に深く関わる一大ニュースが飛び込んできたのは、市川房枝に続いて砂原美智子が訪英したのとほぼ同じ時期のことであった。砂原美智子の訪英は、「本物の蝶々さん来る!」ということで英国人の間でも大評判となり、取材に押しかけた多くの報道人相手にホテルで記者会見を開くという騒ぎになった。だが皮肉なことに、その夜全世界を駆けめぐった思いもかけぬビッグ・ニュースのために、三浦環以来の日本人プリマドンナとして名を馳せた砂原美智子の影もすっかり薄れてしまう事態になってしまった。砂原にとってはただただ運が悪かったとしか言いようのない出来事だったが、さすがにそればかりはどうしようもないことであった。

こともあろうに、それは、善い意味でも悪い意味でも世界の政治情勢に途方もない影響を与えたあのスターリン死亡のニュースだったからである。すぐに世界中のジャーナリズムというジャーナリズムが次々にスターリン特集を組む騒動となり、BBC各部局も当然その対応に追われることになってしまった。ただ石田はというと、もともとスターリンという人物にはそれほどの関心もなかったし、またスターリンの想像を絶するような恐怖政治の実態がまだそれほどには明らかにされていない時代のことでもあったから、その死に対して悲嘆、愛惜、あるいは安堵、歓喜といったような特別な感情や感慨を抱くようなことはなかった。

またこの年の3月末には、人目につかないところで密やかな余生を送り、すでに相当な高齢に達していたクイーン・メリーの逝去が報じられ、時を移さずしてしめやかな葬儀が営まれた。もちろん、ジョージ6世の大葬の時と同様に、BBC日本語放送でもその様子を放送し哀悼の意を表明した。だが、前年のジョージ6世の葬儀とほどなく催されることになっていたエリザベス女王の戴冠式の間にあたる時期のことでもあったから、伝統的な儀式手順にはのっとっていたものの、葬送の儀そのものはそれほどに大々的でセンセーショナルなものではなかった。もちろん、それは、英国民がクイーン・メリーのかつての存在をおろそかにしていたからではなく、その静かな死に対してはそのような静かな葬送が相応しいという空気が流れていたからでもあった。

クイーン・メリー逝去のいっぽうで、この時期になると、バッキンガム宮殿の周辺などにおいては未来の英王室を担う幼いロイヤル・ファミリーらの微笑ましい姿などが見かけられるようにもなっていた。たまたま石田が4月のある日の午後、温かい春の陽射しを浴びながらバッキンガム宮殿にほど近いセント・ジェームズ・パークを散策していると、一人の女の赤ちゃんの乗った乳母車をいっしょうけんめいに押しながら、まだ幼い男の子が広い芝生の上をとことこと歩き回っている姿が目にとまった。そんな2人の幼子の様子をじっと見守っているのは、100メートルほど離れたところで静かな微笑を浮かべて立つ世話係の若い女性1人のみだった。

石田同様にリージェント・パークを散策中の市民の一人が、乳母車を押すその幼い男の子のほうに足早に近づき、そのほうに向かって軽く手を振りながら、「ヘーイ、チャーリー!」と呼びかけた。すると相手の男の子も「ヘーイ!」と可愛らしい声で応えながら、その小さな手を振り返した。なんと驚いたことに、乳母車を押していたのは当時まだ5歳になったばかりのチャールズ皇太子、そして乳母車に乗せられている赤ちゃんはチャールズ皇太子の妹アン王女の姿だったのだ。

そんな幼い2人の姿を目にしてすくなからず感動した石田は、すぐさまさきほどの男にならって、自らも「ヘーイ、チャーリー!」と声を掛けてみた。すると、すかさず、チャールズ皇太子のほうも、石田のほうに向かっていささかはにかみ気味に「ヘーイ!」という声を上げながら、にこやかに手を振ってくれたのだった。幼い2人の様子を遠くで見守る世話役の女性のほうは、その間すこしも慌て動じることなどなく、未来の英国王と通りがかりの庶民とのあいだで交わされるそんなやりとりをなおもじっと眺めやるばかりだった。皇室というと庶民には近寄り難いところだという思いの先立ちがちな日本で育った石田には、それはなんとも信じ難い出来事であった。

幼いチャーリーやアン王女とロンドンの一般市民との間で繰り広げられるそんな光景を目にしたのは、その時一度だけに限られていたわけではなかった。そして、それに類する体験を何度か重ねるうちに、石田は、タブロイド各紙による表向きの王室批判や王室揶揄にもかかわらず、なお目に見えぬところで脈々と息づき流れている英王室と英国民との間の深い信頼関係の秘密を垣間見たような思いにもなった。どうやら、英王室の王子や王女らは、家柄も家風もはじめから異なる一種の雲上人的存在として庶民から完全に切り離されたところで育てられるのではないらしかった。

幼い頃からなるべく多くの一般国民とごく自然なかたちで触れ合えるような配慮がなされ、そのことを通して知らず知らずのうちに一般国民との間に心からの信頼関係を培うことができるように、英王室関係者がかねがねこまやかな配慮してきているのはその一事を見ても明らかなことであった。目に見えないところにあるロイヤルファミリーと国民との間の絶対的な信頼の絆は、どうやら長い時間をかけて徐々に築き上げられてきたもののようであった。そしてまたそのゆえにこそ、いったん築き上げられた信頼の絆は容易には断ち切り難いものとなり、国家の非常時には特別な強制などがなくてもその絆が一段と強まるのだろうとも想像された。

石田が知るかぎり、英国王をはじめとするイギリスのロイヤルファミリーのメンバーらは国民と自分たち王族との間を無理やり遠ざけるような過剰警備を嫌うのが常であった。国民と親しく接することによってたまたま生じるかもしれない不慮の事故などは、たとえそれらが重大なものであったとしても自らが率先して負うべきリスクにほかならないし、それが王族の責務でもあるという哲学が、英国のロイヤルファミリーの人々には当然のものとして浸透もしていた。おそらくは、そうした不動の信念もまた幼い時からの一般国民とのごく自然な関係をもとにして築き上げられるものなのだろうと、石田はつくづく思うのであった。

この時期に先立つ2月8日には、日英両国においてエリザベス女王の戴冠式には昭和天皇の名代として皇太子が参列するということが発表され、そのための訪英日程なども公表された。それによると、皇太子はイギリスを訪れる前にアメリカやカナダを歴訪し、そのあと、当時世界最大を誇ったイギリスの豪華客船クイーン・エリザベス号に乗り、大西洋を渡ってサウサンプトン港に到着するということになっていた。そして、4月を迎える頃にもなると、日本の皇太子が4月27日にイギリスに到着するらしいというニュースは一般英国民の間にも広く伝わっていった。

当然そのような情況が予想もされ危惧もされていたし、そのゆえにこそ昭和天皇直々にではなく皇太子が名代に立つという配慮がなされたのであったが、やはりイギリス国内のあちこちでは反日運動が高まり、その動きは日毎に激しさを増していった。とくに、タイやビルマの戦線などで傷ついた傷痍軍人や、日本軍の捕虜となり同地での鉄道建設に伴う強制労働が原因で死亡した元英兵の遺族などは、「おれたちを不具にしたり、おれたちの子供や兄弟を奪った憎っくき国の皇太子になんとしても枕木を担がせてやるんだ!」などと気勢をあげたりする事態にもなった。そして、彼らのなかには、サウサンプトンまで出向いて実力で日本の皇太子の上陸を阻止しようと息巻く者までも現れはじめた。

当然のことながら、英国の当局者もずいぶんと心配はしていたが、なかでも日本大使館関係者の心労のほどは並々ならぬものであった。皇太子の身に万一のことでも生じたら、単なる責任問題などのような話ではすみそうになかった。ただ、各国から多数の元首や王族関係者が続々と英国入りするなかにあっては、日本の皇太子だけを特別に警護してほしいとイギリス政府当局に依頼するわけにもいかなかったし、また、たとえそのような要請をしたとしても、なりふり構わず直ちにそれに応じてくれるようなお国柄でもなかった。

サウサンプトンに皇太子を迎えに行くのは松本俊一駐英大使の役目ではあったが、藤倉修一と石田達夫とは皇太子のイギリス到着の模様を取材する仕事をかねて松本大使に同行する手筈になっていた。かつて日本から飛行艇に乗ってイギリスにやってきた際、サウサンプトン港に上陸した石田はその周辺の状況にも通じていたから、自分自身の取材のためばかりではなく、あまり英語が得意でなく、現地事情にも疎い藤倉の先導役としても適任だった。

ただ、イギリスに滞在する日本人の数自体が大使館員を含めてもごく限られたものだったから、皇太子を迎えにサウサンプトン港まで行けるのはおおめにみても数人程度に過ぎなかった。だから、もしも反日感情を抱くイギリス人らが皇太子上陸阻止の実力行使にでたりしたら、それに抗すべきすべがないのは明らかであった。

もっとも、石田自身は、それまでの英国生活、なかでも自ら進んで体験したロンドン・イーストエンドの貧民街での貴重な生活を通して、ロンドン在住の他の日本人関係者とはかなり異なる思い懐きもしていた。それは、この国の人々の多くは、たとえそれが下層階級の人々であったとしても、真摯に振舞っていさえすれば、よほどのことでもないかぎりは一個人の立場と一国家としての立場とを別のものとして考えてくれるはずだという確信にも近い思いだった。イースト・エンドのパブでイギリス人捕虜に対する日本軍の残虐な行為のために兄を失ったといって憤り掴みかかってきた男から身体を張って石田を守ってくれたのは、その場に居合わせた貧民街のお喋り好きなオカミサンたちにほかならなかった。

だから、石田には、いざという時には誰かそれなりの立場の人が「日本の皇太子の渡英に対して国民は冷静に振舞うように」との呼びかけをしてくれさえすれば、この騒動は沈静化するのではないかという期待感もあった。ひとつだけ危惧されるのは、皇太子が日本の皇室の一員として戴冠式に列席するために訪英するのではなく、日本という国家全体を代表してイギリスにやってくるのだと受取られた場合に、過激な行動に走る者も皆無ではないだろうということだった。

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