一九九〇年の八月末、ある新聞の「にゅーす・らうんじ」というコーナーに一つの記事が掲載された。石田の目を惹いたその記事の見出しは「BBC日本語放送を来年三月に廃止」というものだった。うしろから不意に頭を殴られでもしたかのような気分になりながらも、彼はその記事を貪り読んだ。そして、すくなからぬショックを受けつつも、そのいっぽうで、いよいよ来るべきものが来たのかという遣る瀬ない思いに沈んだのだった。
「こちらロンドンBBC放送です」で始まるBBC日本語放送は、対日宣伝放送として第二次世界大戦中の一九四三年七月に始まり、以来、四十七年間も続いてきていた。石田がBBC日本語部に勤務していた当時は毎日三十分間の放送であったが、その後、放送時間枠が拡大され、毎日、日本時間の午前六時四十五分から七時までの十五分間と午後八時から八時四十五分までの四十五分間、両方合わせて一時間の放送がおこなわれるようになっていた。また、出力も中継局も当初とは変り、ロンドンから発信された電波は香港で中継増幅され、日本へと送り届けられるシステムになっていた。
新聞報道によると、日本語放送の廃止はBBC国際放送に財政援助をしている英国外務省の意向を反映したものだということだった。放送を廃止することになった最大の理由は、BBCの所属機関の調査によって、日本語放送を毎日聴いている人の数が十年前に較べて約半分の二十万人に減少したとの事実が判明したからだった。BBCとしては、日本語放送廃止と同時にマレー語放送も廃止し、その分の放送枠をよりBBC放送を必要としている地域へとまわそうと考えているようだった。
トレバー・レゲットのあとを継いで日本語部長になったジョン・ニューマンなどは、「日本のメディアは英王室のことを除いては英国の出来事をあまり取り上げない。だから、英国人が何を考えているのかを日本人に伝えるためにも日本語放送の存在は不可欠だ。熱心なリッスナーは以前よりもむしろ増えているくらいなのだ」と主張したらしいが、結局のところ、日本語放送廃止の方針は変らないようであった。聴取者減少の大きな原因となったのは、テレビジョンやFM放送を含む国内放送メディアの番組内容が一段と充実してきたことや、パソコン、ゲーム機、その他の各種娯楽機器の普及に伴い、それまで聴取者の中核をなしてきた若者らの多くがその関心の対象を大きく転換したからでもあった。
当時広く知られていたように、BBC日本語放送は、番組の面白さや信頼性の高さ、電波状態のよさ、政治的宣伝臭のすくなさなどから、数ある国際日本語放送の中でもその人気は常に群を抜いていた。日本語部員がきめ細かい取材をし、丁寧な番組作りをしていたこともあって、海外、なかでも真偽様々な情報の錯綜する国際的な紛争地域に滞在する日本人には心から頼りにされていた。そのため、日本人ファンの間からも、「レベルの高いリッスナーはむしろ増えてきているし、EC統合問題など、ヨーロッパについての関心も高まっている時期にBBC日本語放送がなくなってしまうのは残念だ」といったような、放送廃止を惜しむ声もずいぶんとあがった。
しかしがなら、結局のところは時代の流れには抗うべくもなく、当初の方針通りに、一九九一年三月末をもってBBC日本語放送は終了したのだった。もちろん石田はその最後の放送に耳を傾けていたが、込み上げるものを懸命に抑えながら切々と別れを告げるアナウンサーの声に、老いた身の彼もまた熱いものが胸中いっぱいに溢れ広がるのを抑えることができなかった。
一九九一年、最後のBBC日本語部長を務めた五十五歳のジョン・ニューマンは、BBCでの昇進のチャンスを惜し気もなく放棄し、日本語部の廃止とともにBBCを辞職した。ロンドン大学日本語科在学中からBBC日本語部で仕事をしていたニューマンも、前任部長のトレバー・レゲット同様に柔道の高段者であり、日本を深く愛するとともに諸々の日本文化にも精通した人物だった。二人の娘をもってはいたものの八年前に離婚していたニューマンは、成長した娘たちをロンドンに残したまま、BBCを辞職すると同時に単身日本へと移り住んだ。そして、ほどなく日本大学医学部の英語教授に就任した。ニューマンがBBCで仕事をし始めた時には、石田は既にBBC日本語部を辞して帰国していたから、イギリスでは直接に知り合う機会はなかったが、柔道の試合などでレゲット元部長と共に来日した折などに紹介されていた関係で、彼とは一通りの面識があった。
そのニューマンが翌年七月の夕刊フジのインタビュー記事に登場し、ダイアナ妃のことについてあれこれと語っているのを石田はたまたま目にとめた。当時、英国内ではダイアナ妃が五回もの自殺未遂を犯したという内幕暴露本が大反響を呼び、大衆紙は「二人の離婚間近」とか「今度こそ本物」とかいったような不謹慎な記事を書き立てていた。そこで、夕刊フジの記者が、事情通でもあったニューマンに対し、浮上している二人の離婚問題の見通しは実際のところどうなのかと問いかけ、彼の見解を紹介したのがその記事の内容だった。
ニューマンは、「アン王女も別居して将来離婚すると報道され、実際にそうなってしまいました。ダイアナ妃の場合もとうとうそうなったのかということで、英国人は皆悲しんでいます。ダイアナ妃もチャールズ皇太子も、それぞれ一般国民のために十分働きはしたんです。でも二人はうまくいきませんでした。私も残念でなりません。それに、チャールズ皇太子の王位継承がどうなるかも心配ですね」と答えていた。
そして、さらにそれに付け足すようにして、ニューマンは、「王族と一般市民の結婚、それはいつの時代も大衆の夢なのです。とくにダイアナ妃の場合、美しかったこともあって、英国民はそれまでの王室の結婚でも例がなかったほどに盛り上がりました。パレードを見るために寝袋を持参して路上に泊まり込む者もでたくらいですよ。よく知られているように、西欧のラブストーリーの原型は『シンデレラ』と『ロミオとジュリエット』なんです。ダイアナ妃はまさにシンデレラだったんですがね……。マーガレット王女やアン王女も一般から伴侶を迎えたんですが、悲しいことにやはり破綻してしまいました……」とも語っていた。
そんなインタビュー記事を読みながら、石田は、幼き日のチャールズ皇太子やアン王女の姿、戴冠式のときのエリザベス女王の輝かしいばかりの姿、さらには何事にも動じないクイーンズ・マザーの毅然とした姿などを懐かしく回想した。ニューマンのコメントを待つまでもなく、英国事情に明るい石田には、折々流れてくるニュースを通じ、英国のロイヤルファミリー内になにかと不和が生じているらしいと察しはついていた。しかし、長年BBCに勤務していたニューマンにあらためてそう断言されてみると、まるで我がことのように寂しくやりきれない気分にもなってくるのだった。ただ、そのいっぽうで、ロイヤル・ファミリー内にさまざまな不和や不慮の事態が生じても、それをとことん隠し通したり、上辺だけをとり繕ったりすることなく、国民の前にすべてを曝け出すところは、そして国民もまたそれを当然のものとして目をそむけることなく受け入れるは、報道の先進国イギリスならではのことだとも思うのだった。
BBC日本語放送が完全に廃止され、BBC日本語部の最後の部長を務めたジョン・ニューマンまでもが日本にやってきて暮すようになったいま、四十八年にもわたってさまざまな足跡を残してきたその栄光の歴史が終焉したことはもはや疑うべくもなかった。そして、その事実をしっかりと胸に受けとめるとき、好むと好まざるとにかかわらず、おのれの人生もまたいよいよ最後のステージに差しかかったのだと、石田は素直に認めざるを得ないのだった。
石田はなおも翻訳の仕事を続けてはいたが、一九九〇年代も後半になるとそのペースはきわめてゆっくりとしたものになっていった。私が初めて石田邸を訪ねた当時は、デーモン・ラニアンの著作の翻訳などを手がけており、「一週間のうち、三日は懸命に働いて残りの四日は大いに遊ぶんですよ」などと語っていたものだが、やがて気が向いた時だけ短時間机に向かって筆を執る程度になっていった。すでに八十冊以上の翻訳の仕事を手掛けてきていた老翁だったが、さすがに年齢には勝てぬとあって、次第にその気力が衰えてきてもいたのだろう。地元の人々を相手にした英会話のレッスンも折々おこなわれていたが、そちらのほうも、以前のように駅前近くに本格的な英会話教室を設けておこなうのではなく、自宅の居間に気心の知れたごく少数の人々を集めただけのごくささやかなものとなった。
ただ、若者らをはじめとした人々の出入りは、以前に比べその数こそずいぶんと減ってはきていたものの、なおそれなりの賑いをみせていた。晩年の石田はそんな人々と繰り広げる日々の談笑を生きるよすがにもしている感じだった。まだ、あまりよく石田邸の状況をわきまえない者などがその玄関に近づき、独り言を呟いたり同行者と会話を交したりしながら呼び鈴を押すタイミングなどをはかったりしていると、老翁が自分のほうから扉を開けてぬーっと姿を現わし、来訪者を仰天させたものだった。それは、まるで来訪者の門前における言動のすべてを見通していたかのようなタイミングのよさだった。「もしかしたらドラキュラ爺さんはお昼寝中なのかな……」などと下手に軽口を叩いたりすると、突然に姿を現わすなり、「お生憎さま……、この頃のドラキュラは昼間に活動することのほうが多いもんでねえ……」などと言って、相手の度胆を抜いたりすることもすくなくなかった。
それもまた石田流の悪戯のひとつで、ちょっとした仕掛が一役買っていたのだが、その秘密を知る者は意外にすくなかった。実を言うと、石田邸には養子の俊紀の手で業務用の高性能小型監視カメラと、同じく業務用の高性能小型集音マイクが一目につかぬように設置されていた。もともとは、独り暮しの老人宅にやってくるいかがわしい物売りや新興宗教の勧誘者など、諸々の不審者に備えるために導入したセコムのシステムのひとつだったが、老翁はその音声画像モニターをベッドの枕元に置き、二十四時間休みなしに作動させていた。夜間でも十分使用に耐えるくらいに映像もシャープで、小さな雨垂れの音をも捕捉できるほどに集音力も優れていたことから、遊び心の塊みたいな老翁は、なんとも人を喰ったそんな監視システムの転用を思いついたのだった。
ともかく、「穂高のドラキュラ」とか「穂高人喰い老人」とかいう形容がぴったりで、その呼称に賛同しない者は誰一人いなくくらいではあったのだが、もちろんそれは老翁の一面のみを物語るもので、翁には経験豊かな教育者、鋭い目をもつ批評家、さらには事態に即応した的確なアドバイザーとしての一面などがあった。多くの者たちが次々に、しかも何度となく穂高の石田邸を訪ねたりしたのは、実際にはむしろ老翁のもつそんな深い一面に強く惹かれてのことなのだった。現在専門職をもつ私の教え子の中の幾人かの男女も、また大学で研究者の道を歩んでいる私自身の息子も、晩年の老翁の的を射た示唆と大いなる激励とによって、チャレンジングな世界に挑む勇気を与えられたのであった。