BBC日本語部に属するスタッフは、日本語翻訳をチェックする2人の英国人担当者が週3日ずつの交代出社をしているのをべつにすれば、1週間に1日の休みというペースでの勤務体制をとっていた。ただ、午前中にはその日の実質的な放送業務が終わり、午後からは自由な取材活動が許されていたから、仕事上の拘束感はまったくなかった。よほどの緊急事態が発生しないかぎりは夕刻の定時退社が普通で残業などもほとんどなかったから、仕事に忙殺されるといったようなことはなく、自分の時間も十分にとることができた。
当時からロンドンの盛り場などにはオールナイト営業のお店などがずいぶんとあったので、夜遅くまで、あるは、夜が明けるまで盛り場をうろつきまわる日々も少なくなかった。休日のときや、午後取材に出向いたあとそのまま帰社せずにオフに入ることがでる日などには、大英博物館やナショナル・ギャラリー、テート・ギャラリーなどで心ゆくまでのんびりと時を過ごすことも多かった。
またBBCの勤務規則により、スタッフらは通常の休日以外に年間4週間の休暇をとることを義務づけられていた。連続して4週間休むことも可能だったし、1週間くらいづつに分けて休むことも可能であった。イギリスに来てからしばらくは、そんな連続休暇がとれたりすると、ロンドンのあちこちの盛り場や各種劇場や美術館、博物館、競馬場、球技場などに1日中入びたり、半ば無為ともその有様を自省し自嘲したくなるような時の過ごしかたをするのが常であった。賭け事好きのイギリス人の中にあって、彼がいろいろな賭博を体験し、それらを楽しむようになったのも必然のことではあった。
だが、ある時、イギリス独特の勤労奉仕制度があることを知った彼は、それを契機にして英国内のあちこちの地方に出向くようになった。地方への旅をかねることもできたからそれは願ってもないことだったし、また、ロンドンでの都市生活を送るにつれてともすると忘れがちになる肉体労働を体験し、弛んだ精神を引き締めるには絶好の機会でもあった。
「Lend your hand to land (あなたの手を国のために貸してください)」とのキャンペーンのもとで実施されていたその独特の制度は、ときに「休暇は英国政府に任せろ!」とも言い換えられたりする大変面白い休暇活用システムであった。一口に言うと現在若者たちに人気のある海外でのホリデイ・ワークの先駆けみたいなものであった。
基本的には土曜日から次の土曜日までの1週間をイギリス各地の田舎で農作業を中心とする仕事を手伝いながら過ごすというもので、その対象となる各地域にはそのための宿営地が設けられた。参加者に若者が多いのは当然であったが、とくに年齢制限のようなものはなく、その気ならかなりの高齢者までが自由にその制度を利用することもできた。もちろん、外国人旅行者などに対してもその制度は開かれていた。
公的に設けられた各地の宿営地までに要する旅費の半額は国や地方の機関が支出してくれることになっており、農産物の収穫期などには特別に旅費が全額支給された。宿営地での宿泊費や食費は基本的に全額個人負担であったが、きわめて安いもので、しかも、労働奉仕を受ける農家側が宿営地での滞在費と酒代、お茶代くらいの慰労金を支払ってくれたから、実質的に費用はほとんどかからない仕組みであった。
個々の農家側は最寄りの宿営地に電話をかけて今日はこれこれの仕事に何人ぐらいの人手がほしいとの依頼をし、それに応じて各個人が自らの判断のもとに自主参加するというなかなかユニークな制度になっていた。
年間4週間の休暇があるからその気になれば1年につき4箇所の地方に出かけることができるわけで、石田はこの制度を最大限に活用してイギリスのさまざまな地域を訪ね、そこの風物や史跡、人々の生活振りなどを目の当りにすることがでるようになった。
もちろん、それなりの労働をしなければならなかったけれども、まだ若く体力もあった彼にすれば得るところのほうがはるかに大きく、多種多様な見聞を広める意味でもこのうえなく有意義であった。英国内ばかりでなく近隣の国からの参加者も数多くあったので、老若男女、それも国籍も人種もさまざまな人々に出会えるという楽しみもあった。
行く先々によって依頼される仕事の内容もさまざまだった。牧場などで干草まみれになって働いたり、牛の世話をしたり、搾乳や牛乳の運搬、バターやチーズ造りの手伝いなどをすることもあった。広い農場で泥まみれ汗まみれになって働くこともあった。畑で収穫したジャガイモをジャガイモ袋に詰め込む作業などは腰の弱い欧米人には難しい仕事だったので、長時間の作業に堪えられる石田はずいぶんと重宝がられ、大いに株を上げたりもした。
あるときはスコットランド地方のリンゴの産地に出かけ、リンゴ摘みやリンゴ運びの作業を手伝ったこともあった。リンゴの収穫作業が終わりに近づきリンゴ畑から引き揚げようという頃になって、ちょっとした椿事が発生した。リンゴの収穫作業が終わりに近づきりリンゴ畑から引き揚げようという頃になって、ちょっとした椿事が発生した。
くだんのカップルの夫のほうが、リンゴ採取の作業中の口うるささにも増してなにやら声を荒げてブツブツと文句を言いはじめた。何事かと思ってよくよくその言い分を聞いてみると、木の枝に掛けておいたはずのコートがどうしても見つからないというのである。皆であたりを探したがどこにもそれらしいものは見当らなかった。ところがその時、同じ作業に参加していた一人の若者が突然上方を指差しながらゲラゲラと笑いはじめた。
何事かと思って皆がその方向を見上げると、なんと高いところにあるリンゴの樹の枝先にコートが掛かりひらひらと風に揺れているのだった。事態を察知した一同が大笑いすると、コートの持ち主である当の本人も目を白黒させながら思わず苦笑いする有様だった。リンゴがたわわになっていた状態の時はその重みで枝全体が地上近くまで大きく垂れ下がっていたので、その枝先に男はコートが掛けたのだった。ところが、なっていたリンゴがすっかりもぎ取りられてしまうと、重みから解放された枝の先端が、掛けられたコートごと空中高くピーンと撥ね上がって予想外の事態にまで発展したというわけだった。
その夜宿営地に戻った一同は皆で簡単なパーティを開いて楽しんだのだが、意外なことには口うるさいバーサンに思われた高齢の女性が実に器用で料理もうまく、しかも大変なピアノの名手であることが判明したのだった。彼女は宿舎に備えつけのピアノで次々に名曲を弾き奏でながら同席の皆の心を魅了し、いっぽう周りの者もそのピアノに合わせて歌声を発したり踊ったりして、なんとも楽しいパーティとなった。おのれの人を見る目のなさを内心で恥じ入った石田であったが、その点は他のほとんどの者たちも同罪であった。口うるさいバーサンはいつしか誰にも愛される魅力的なオバーチャンに変り、同宿者仲間のヒロインへと変貌を遂げたのだった。ところが、なっていたリンゴがすっかりもぎ取られてしまうと、重みから解放された枝の先端が、掛けられたコートごと空中高くピーンと撥ね上がって予想外の事態にまで発展したというわけだった。
そんな労働奉仕を兼ねた地方の旅をしていると、英国各地のカントリー・クラブの果している役割というものをあらためて認識することもできた。イギリスのカントリー・クラブというものは単なるゴルフ場などではなく、れっきとした地方文化の集積点であり、またその発信点なのでもあった。もちろんゴルフ場もあるにはあるけれどそれはカントリークラブのごく一部の施設であるにすぎなかった。カントリークラブにその地域の諸文化が集まり、やがてそれらがその地域の文化の中核となり、そこで生まれ育った上質の文化がだんだんとロンドンのような大都市に攻め上って来て次第に英国中を席捲するようになる――それが英国における基本的な文化の流れであり文化の構造であるのだと、彼にはよく理解できるようになった。質的には中央よりも地方文化のほうがはるかに上であり、すでに何度も述べてきたように、その文化の中核、地域文化の総合的拠点になっているのがほかならぬカントリー・クラブなのであった。
そもそもイギリスの貴族をはじめとする上流階級の人々は、必ず地方にカントリー・ハウスをもっており、そこが彼らの本邸となっていた。カントリー・ハウスには、ポロ、クリケット、乗馬、フォックスハンティング、テニス、ゴルフ、各種公演やパーティなどを楽しむことができるような諸施設があって、多くの客人を招待できるようになっているのが常だった。ロンドンにはタウン・ハウスが設けられてもいたが、実際のところ、そちらのほうは別邸なのであった。上流階級においても、庶民の間においても、日本などの場合と違い、文化の流れが中央から地方へではなく地方から中央へと向かおうとするのは、イギリスの文化構造や社会構造の一般的な特徴であるように思われてならなかった。