ある奇人の生涯

122. 石田邸はサロンまがいに

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

話は前後するが、石田が穂高町に移り住んで二年目の一九八一年、チャールズ英国皇太子はダイアナ妃と結婚した。盛大な儀式の様子や幸せそうな二人の姿が各種メディアを通して全世界に報道され、人々はみな美しくそして優しいダイアナ妃の微笑みを目にしながら、心からの祝福をおくったのだった。チャールズ皇太子夫妻の前途に待ち構える一大悲劇を予想する者などは誰一人おらず、石田自身もまた将来にわたる二人の幸せな生活を信じてやまなかった。

まだ五歳くらいだったチャールズ皇太子が妹のアン王女を乗せた乳母車を押しながらバッキンガム宮殿近くの公園の芝生の上をとことこと歩き回る姿を、石田は何度となく目にしていた。早朝その周辺を散歩する大人や子供らが自然にそうしていたのにならって、「ヘイ、チャーリー」と親しげに声をかけ、「ヘイ!」と気軽に応じるチャールズと短い会話などを交したこともある石田にすれは、感慨もまたひとしおだった。当時は幼い子供にすぎなかったあのチャールズが、いまや次代の英王室を担う立派な青年皇太子となり、美しいダイアナ妃を迎えるにいたったことをまのあたりにしながら、あらためて過ぎ去った年月の数々を懐かしく想い顧みるのであった。

それから五年後の一九八六年五月、チャールズ皇太子夫妻が来日し、日本国中にダイアナ旋風が巻き起こった。そのため、若い女性たちの間では水玉模様のスーツを身につけたダイアナ妃のファッションが若い女性たちの間で大流行したりもするほどであった。高度経済成長期の申し子とでもいうべき自己中心的で大胆な行動をとる傾向の強い若者たち、すなわち、「新人類」などと呼ばれる若年層が登場した時代に重なることでもあったので、そのフィーバーぶりにはいっそう拍車がかかった感じだった。

さすがの石田もわざわざ東京まで出向いて行ってチャールズ皇太子夫妻の幸せそうな姿を直に目にしようという気にまではなれなかった。だが、もともと野次馬根性が人一倍旺盛なうえに、チャールズに対する想い入れがあり、しかも若者らの自由な発想や型破りな行動に理解のある石田は、終始好意的な目でテレビで報じられるダイアナ旋風やそのゆえの人々の熱狂ぶりを終始行為的な目で見守り続けた。

また、チャールズ夫妻訪日に二年ほど先立つ一九八四年には、元BBC日本語部長のトレーバー・レゲットが来日した。根っからの親日家だったレゲットは、何度も訪れたBBC内での昇進のチャンスを自ら放棄し、退職するまで日本語部長であり続けた。柔道をはじめとする各種の伝統的日本文化を海外へと紹介し、また日英間の交流に多大の功績を残したことが高く評価され、その年、レゲットは、日本政府から勲三等瑞宝章を授与された。もちろん、石田は上京してレゲット元部長と再会、固い握手を交して心から瑞宝章の受勲をお祝いし、こころゆくまで旧交を温めた。権威の象徴ともいうべき勲章のごときものはもともと大嫌いな石田ではあったが、そんな彼にとってもレゲット部長の受勲だけは例外的に喜ばしいものに思われてならなかった。

久々に会った自分より一歳年上のレゲット部長は、さすがにすこし加齢を感じさせはしたものの、その堂々たる風格や全身から漂い出る独特の存在感にはむしろ往年のそれ以上のものがあるような気さえもした。歳をとったという意味ではいっぽうの石田にしてもおなじだったが、談笑にともなう会話の端々から察せられるところでは、レゲットもまた、昔の直属の部下であった石田に対して同様の印象を抱いたようであった。受勲とほぼ時を同じくして、「他山の石」というレゲット元部長の著書がサイマル出版から刊行され、石田にも直接にその一冊が贈呈された。さすが日本通のレゲットだけのことはあって、日本人や日本文化に対するその洞察の深さや親日感の強さには頭のさがる思いがしたし、日本文化と比較しながらの英国文化の批評にもなるほどと納得させれらるものがすくなくなかった。

チャールズ皇太子がらみの話題もレゲット部長がらみの話題も、もちろん、石田邸を訪ねてくる多くの者たちを大いに楽しませた。石田の手にかかると、それら一連の話題にも彼ならではの経験に基づく特別な見解や洞察が付け加えられることになった。日本国内メディアの一面的な見方とは違った切り口を提示してくれるとあって、そのことがまた石田のもとを訪ねる者たちの関心をいっそう誘うことになった。

養子の俊紀が結婚して松本で新所帯をもち、石田が穂高の家で独り住まいするようになると、英会話塾の生徒をはじめとする周辺在住の人々のほか、穂高以外の各地からやって来る者たちの出入りは日増しに激しくなった。若者らを中心とするさまざまな男女が彼のところに入れ替わり立ち替わり来訪するようになり、なかには何日も滞在したりする者も現れだした。裏を返せば、それはまた、石田がますます穂高のドラキュラぶりを発揮し始めたことの証でもあった。

もちろん、谷内や市川は、それまで通り折あるごとに穂高町を訪ねたし、それぞれに結婚したのちも夫妻連れ立って同地まで出向くこともあった。谷内の妻はミーシャというアメリカ人女性だったが、彼女などは夫の谷内以上に石田のところを訪ねるのを楽しみにもしていた。谷内や市川は石田邸で初対面の訪問者と一緒になることも多かったが、それがまたよい契機となってますます交流の輪が広がるようにもなっていった。石田は、「自分は人的交流の促進者であり、人間と人間のコーディネータだ」などと冗談まじりに嘯いたりもしていたが、実際、彼のもとに集まってくる人物は男女を問わず個性的な者が多く、その意味では、人間のコーディネータだというそんな言葉もまったくの的外れだとは言えなかった。

「人たらし」の石田が初対面の若者などを誘い込み虜にする手口は文字通り臨機応変なものではあった。だが、相手の意表を突き、この人物はいったい何者なのだろうという強い関心を相手に抱かせ、そのままでは別れ難くなるようにすべく計算し尽くされているという点では、いつの場合も同じであった。たとえば、石田が穂高駅近くの路上である女子学生に声をかけ、彼女をたぶらかすにいたった手口などは、見事ではあるが、またとことん人を喰ったものだとしか言いようがなかった。

ある夏のこと、見るからに重そうな横長の大きなキスリングザックを背負い、両手にも大きな荷物を下げたトレッキングスタイルの若い女性が、穂高駅の改札口を出て、駅近くの細い道を西の方角へと歩いていこうとしていた。細身の美人だったが、なかなか芯の強そうな女性だった。なんとなく心惹かれるものを覚えた石田は、しばらくの間さりげなく彼女のあとに続き、そのあと突然に声をかけた。

「あのう、山内さんでいらっしゃいますよね?」
いきなり見知らぬ老人から声をかけられ、しかも自分の名前をずばり呼ばれたその女性は、驚いた表情でうしろを降り返った。その様子を見た石田のほうは、すかさず追い討ちをかけた。
「確か、横浜国大のワンダーフォーゲル部の山内さんですよね?」
「……?」

自分の本名ばかりでなく、在籍する大学名や所属クラブ名までが相手の口から飛び出すのを耳にして、一瞬その女性はパニックに陥ってしまったみたいだった。その場からすぐにも走り去りたいような様子もみせたが、背負うザックや両手の大きな手荷物の重さなどのためもあって、結局、彼女は戸惑った表情を浮かべながらそのまま足をとめざるをえなかった。

「いまから、この先にある安曇野ユースホステルにいらっしゃるんでしょう?」
石田はその道をもうすこし西に進んでいったところにあるユースホステルの名をあげると、さらに、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、こうも付け加えた。
「山内さんは、この夏休み、あの安曇野ユースホステルでしばらくアルバイトでもなさるんでしょう?……違いますか?」
「……」

あまりのことに呆気にとられたその女性は、何がなんだかわからないといった表情を見せて立ち尽くしていたが、しばらくすると気を取り直したように石田のほうに視線を向け直した。そして半ば苦笑でもするかのように問い返してきた。
「私の名前などをご存知のところからすると、もしかしたら、安曇野ユースホステルの方でいらっしゃいますか?」
「いいえ、違いますよ。私はあのユースホステルとは無関係の人間ですし、もちろん、貴女とも今日が初対面ですよ」
「それじゃどうして私のことをそんなに……?」

ますます戸惑うばかりの彼女をさらに煙に巻くかのように石田は続けた。
「私は安曇野のシャーロック・ホームズを自認している人間です。ですから、私なりの推理を通してすべてはお見通しなんですよ。それに、もともと、私はシャーロック・ホームズ物の翻訳などもやっている人間でしてね……。そのためか、自然に初対面の人の素性を推理したりする習癖がついてしまったんですよ」

ここまでくるともう、完全に石田のペースだった。相手の女性は、眼前の不思議な老人がなぜ自分の名前や素性を知り得たのかという謎を解明せずにはおられない衝動に駆られたし、また老人の全身から漂い出る圧倒的な存在感の背後にあるものに強い関心を抱きもせざるをえなかった。だから、もはやそのまま老人をそこに残して自分だけ立ち去るわけにもいかなかった。

石田がその女性を驚かせた手口は実をいうといたって簡単なものだった。その種明かしをすると、すぐさま女性は笑い転げ、そしてまた、石田という人物の気転のほどにつくづく感心もするのだった。当時の大学の山岳部やワンダーフォーゲル部の学生らは、何かの時に備えて自分の大きなザックの表側に在籍大学名や所属クラブ名、さらには自分の姓などをマジックで大書しておくことがすくなくなかった。彼女のザックの表には、「横浜国大ワンダーフォーゲル部・山内」と記されていたのである。だから、石田はただ単にその文字を読み取るだけで彼女の姓や所属大学名などを知ることができた。

また、彼女が向かおうとする方向には、当時の若者たちがよく宿泊していた安曇野ユースホステルがあった。大きなザックを背負った登山姿やトレッキング姿の若者が穂高駅から西へと向かう場合、彼らの行先がそのユースホステルであることは十中八九間違いないことであった。また、その女子学生は夏場にもかかわらず異常に多くの荷物を背負ったり下げたりしていた。そのことから、石田は、彼女がユースホステルに一泊し翌日に次の目的地に出発したり、北アルプスに登山に向かったりするのではなく、そのユースに長期間滞在するつもりに違いないと推理した。そして、もしそうだとすれば、彼女の当面の目的はユースホステルでのアルバイト以外には考られないというわけだった。

山内というその女性がそれからほどなく石田邸を訪ね、それが契機となって以後折々彼のもとにやって来るようになったのはもはや自然な成り行きだった。ともかくも、そんな調子で、あちこちでたぶらかされたさまざまな若い男女が穂高の石田邸を次々と訪ねてくるようになり、時とともにその数も増えていった。養子の俊紀は家屋や各種設備の手入れ、諸々の連絡などのため、定期的に穂高へとやって来ていたが、その折など、石田のもとに遊びに来ている若者らを紹介されることも少なくなかった。男女ともにとても個性的な若者がほとんどで、しかも女性の場合は皆が皆と言ってよいほどに美人揃いだというのが、当時の俊紀の偽らぬ印象であった。

石田はまた、安曇野一帯に住むさまざまな美術家工芸家らとも親交を結ぶようになった。碌山美術館の関係者は言うに及ばず、作家の丸山健二、写真家の上條光水、安曇野文庫の経営者でロイヤル・コペンハーゲンの収集家としても知られる山本夫妻、陶芸家の平林昇、ステンドグラス作家の東出輝彦などといった人々などが折々石田の元を訪ねて来たし、石田のほうもそれらの人々の元を訪れ、芸術談義を楽しむこともしばしばだった。

そのほかにも、石田は地元穂高の観葉植物育成販売会社のアルプガーデンをはじめとする、いくつかの会社の顧問として、主に海外貿易関係の各種実務の手助けやアドバイザーなどを務めていた。そんなわけだから、一時期には石田の家はちょっとしたサロンまがいの様相を呈するようにもなった。私が当時七十二歳の石田と出遭ったのもそんな折のことであった。

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