「ところがねえ、たとえ石にかじりついても大学まで出してやるって言った当の父親がですよ……」
「どうかなさったんですか?」
「急に死んじゃったんですよ。僕が福岡高校の一年生のときにね」
老翁はちょっと皮肉めいた口調でそう言った。
「僕もずいぶん早くに両親を亡くした身なのでご苦労はわかりますよ」
「石にかじりついても大学を出してやるなんて言ってたけれど、結局、かじりついてはみたものの、その石の硬さに負けちゃんたんでしょう。そもそも、『石田』という石だらけの田んぼを意味する姓をもつ男が石にかじりつこうとすること自体、間違っていたんですね」
「はははは……」
話の深刻さにもかかわらず、石田の軽口につりこまれた私は思わず吹き出してしまった。すると相手はさらに調子にのって言葉をつないだ。
「おなじイシダでも『遺志だ!』ってわけですね。そんな希望的な遺志だけを置き土産にされたってあとに残された家族はどうしようもありません。現実は厳しかったんですから……」
「亡くなった原因はなんだったんですか、病気でも?」
「ええ、結核性の喘息が原因でした。当時、結核は不治の病と言われていましたしね」
社会的な大不況、母親の筑前琵琶の仕事の行き詰まり、そして父親の急死という三重の非常事態のために、石田家の経済状況は壊滅的状態に立ち至った。高等学校に通うかたわら一家の生計を支えなくてはならなくなった石田は、アルバイトその他の都合もあったので、母親や妹たちを引き連れ博多地区から福岡地区へと移住することにした。伝統的な商人町として栄えた当時の博多から城下町としての歴史をもつ福岡地区へ移住することは、昔の浅草周辺の下町から現代の丸の内や内幸町あたりへと移り住むにも等しい生活環境の変化をも意味していた。
異常としか言いようのない石田の職業遍歴が始まったのはこの頃からのことだった。なんとか苦しい家計を支えようと必死になった彼は、高等学校へ通うかたわら、いくつものアルバイトに手を出した。花火をはじめとする玩具類の販売を皮切りに、フルーツパーラーでのボーイのアルバイト、バーテンダーのアルバイトなどを次々と体験した。とくにこの時代におけるバーテンダーのアルバイトは、のちに精を出すことになる様々な客商売の基本を学ぶうえで、さらには人間とはなんたるかを学ぶうえでまたとない貴重な経験ともなった。
体格もよく体つきもスマートで、父親に似てたいへんなハンサムボーイだった若い彼は、女性にもずいぶんともてもした。当然、そんな彼をお目当てにお店にやってくる女性たちもすくなくなかった。だが、彼はそんな仕事だけに甘んじてはいなかった。カフェ・バー勤めのいっぽうでは、家庭教師や各種のパンフレット作成といったような堅い仕事を手掛けもしていた。一家の生計を支えるために硬軟両面を巧みに使い分けていのである。
昭和十年に旧制福岡高校文科フランス語科を卒業した石田は、その翌年、満たされぬおのれの心の落ちつくべき場所を求めて単身上京を試みた。東京に出て一旗揚げたいという思いも幾分あったようだが、たぶんそれだけではなかったのだろう。旧制高校での学業も優秀だった石田は、東京帝国大学や京都帝国大学といった学問のメッカへの強い憧れが胸中に渦巻くのをどうすることもできないでいた。家庭状況からして進学は不可能だとはわかっていたが、上京すればなにかしらの学問のチャンスにも恵まれるかもしれないし、すくなくとも最先端の文化の息吹にも接することができるだろうという密かな期待が胸中には息づいていた。
だが、この昭和十一年は、我が国にとって大激動の年でもあった。大きな内部矛盾を抱えた日本陸軍の皇道派と統制派との対立の激しさはこの年に至って頂点に達し、二月二十六日、皇道派の青年将校に率いられた約千四百人の兵士たちは、五十三年ぶりの大雪の中を突いてクーデターを決行した。世にいう二・二・六事件の勃発だった。
博多という古来国際色豊かな商人町で生まれ育ち、人間の機微に深く迫る伝統芸能の世界に幼少期から慣れ親しんできた石田は、一見仰々しい国粋主義や権威主義の背後に潜む薄っぺらな本質を若いなりに見抜いていた。だから彼は、その時代としては珍しいほどにリベラルな思想をもち、時流に染まることもなく行動した。皇道派だろうが統制派だろうが、横暴に振舞う時の軍部というものは、彼にとって深い嫌悪の対象以外のなにものでもなかった。
当然、彼は、東京の片隅にあって、突然の事件に大騒ぎする世間の有様をひとり冷ややかに眺めていた。「下士官兵に告ぐ」と記されたビラを目にしたり、「兵に告ぐ、今からでも遅くない」という有名なラジオ放送を耳にしたりしもたが、醒めた目をもつ二十歳の青年の瞳には、その後の軍部暴走の契機となったこの歴史的な事件も別世界の出来事のように映っていた。むろん、日本という国の行く末に漠然とした不安がないわけではなかったが、このときの彼の胸中には、国家の動向にかかわらず徹底した個人主義を貫いてこの暗い時代を生き抜こうという思いが募るばかりであった。
上京した石田がまず手を染めたのは牛馬の売買に携わるバクロウの仕事であった。うまくいけばそれなりの収益を見込めると期待してのことだったらしいのだが、海千山千のその世界は、さすがに二十歳そこそこの素人の手に負えるような甘い世界などではなかった。伯楽から転じたというバクロウという言葉は和語では「馬喰」とも表記されることがあるようだが、彼は馬を喰うどころか、逆に馬に喰われるはめになって、たちまち行き詰まってしてしまったのである。のちに石田が馬を喰うのではなく人を喰うほうへと趣向変えをするにいたったのは、このときの苦い経験が身にしみていたからなのかもしれない。
このバクロウの仕事と並行して、石田は、当時東京帝国大学の赤門前にあったカフェ・バーで働いていた。不遇な家庭的事情のゆえに大学進学の夢は断念せざるをえなかったが、旧制福岡高校時代にひたすら憧れていた東京帝大の正門前の店で働くことによって、帝大教授や帝大生らの姿をかいまみ、彼らのもつ文化的な雰囲気に接することを通していくらかでも自らの心を慰めようとしたからだった。
赤門前のそのカフェバーに勤めるようになった経緯についてはそれ以上詳しく語られることはなかったが、学問への道を絶たれた当時の石田の挫折感は想像以上に大きかったのではないだろうか。「僕は二流の一流にはなれるが本物の一流になれるような人間ではない。また、もしもそんなことが可能だとしても一流にはなろうとは思わない」というのちのちの彼の言葉の背景には、その折にうけた人知れぬ深い心の傷が大きく影響していたふしが窺えてならないからである。長年のうちに磨き上げられたその能力と有無を言わさぬ実力にもかかわらず、生涯を通じて彼が純粋に学問的な世界を敬遠しがちで、学術分野の専門家に対しいくらかの心理的なコンプレックスを抱いていたのは、その折の大きな挫折感に起因するものであったように思われてならない。
在京中、石田は赤門前のカフェバーのほかに銀座のカフェバーなどにも勤めたりもし、その仕事を通してダンサーをはじめとする幾人かの若い女性たちとも懇意になった。一七六センチという当時の日本人としては珍しい長身、すらりとした筋肉質の体躯、そして二枚目映画スターとまがうばかりの甘くて知性的なマスク、ある種の存在感を秘めた美声と話術――若年にしてすでに、彼には女性たちを瞬時に魅了してやまないすべての要素をそなえもっていたといってよい。石田が二十代だった頃のスーツ姿の写真が資料として一枚手元にはあるのだが、そこに写っている彼の姿は若い男優ともまがうばかりのスマートさなので、若い女性たちがほっておくようなことはまずなかったに相違ない。ただ、この時代に銀座で知り合った女性の一人とのちに遠く離れた異郷の地でたまたま出逢い、彼女によって苦境に陥った身を救われることになろうとは、さすがの彼もその時は想像だにしていなかった。
上京してまだ長くはなかったが、東京という大都会での生活にも慣れた石田には、上京時の深い挫折感とは裏腹に、へんな自信が湧きはじめかけてもいた。見方によっては魔都とも言える東京で価値観の異なる様々な人間と出遭った彼は、そのことを通していったん自らの人生観を低い視線で解体再構築し、そのうえであらためて自我観の確立を試みたのだった。そのお蔭もあって、彼は、身ひとつであるかぎりは、どんなところにおいても、また何をやっても生き抜いていけるという自負を抱くようになっていった。
人間としての根本的な誇りを捨てることはけっしてなかったが、そうでないかぎりは徹底してピエロを演じることも平気になった。むろん、晩年まで失われることのなかった生来のナルシスティックな気質や、若さのゆえの鼻っ柱の強さなどがすべて払拭されたわけではなかったのだろうが、彼自身にすれば、大きく一皮むけた気分ではあった。もっとも、現実の人生の荒波はそんな自信をも一瞬にして打ち砕きそうな激しさで次々と石田の身に襲いかかってきたのだが、そんなことなどつゆ知らぬ彼はしばし達観したような気分にひたったりもした。
皮肉なもので、世渡りのコツのようなものをそれなりに身につけるようになったことが、それまで体内で半ばまどろんでいた石田の気まぐれな性格をいっきに目覚めさせる結果となった。女性問題なども絡んで仕事仲間とのちょっとしたもめごとに巻き込まれた石田は、それまでの仕事がらみの人間関係をすべて絶ち切ることを決意、それからほどなく東京での生活を捨て京都へと移住した。移住といえば格好もつきはするけれども、その気まぐれな振舞いの結果あとに残された仕事仲間たちにしてみれば、彼の転居は突然の失踪みたいなものであったに違いない。ともかくもそうやって京都に身を置くようになった彼は、加茂川にほど近いあるカフェバーに勤めはじめた。父親譲りの流れ者の気質がむくむくと頭をもたげてきたからだと彼は笑って話していたが、たぶん半ば本音ではあったのだろう。
移転先として京都を選んだ理由については石田はべつだん詳しく話してはくれなかった。ただ、幼児期に日本の伝統芸能や伝統文化に親しんで育った彼に、その原点ともいえる京都の文化の雰囲気をしっかりと体感しておきたいという強い想いがあったことだけは間違いない。いまひとつ考えられるのは、西の学問の府、京都帝大の存在である。東京帝大赤門前のカフェ・バーに勤めたときと同様の内なる思いが彼の胸中には渦巻いていたのかもしれない。
京都でのカフェバー勤めはそれなりに順調ではあったのだが、その年、京都の街は加茂川の氾濫による大洪水に襲われて多数の民家が水浸しになり、大変な混乱に陥ってしまったのである。加茂川近くにあった石田の勤めるカフェ・バーも当然甚大な損害を被り、営業不能になってしまった。おかげで急に仕事口がなくなったばかりか、前月分の給料さえも支払ってもらえない状況になってしまったのだった。とくべつなツテなどもないうえに、そのような混乱した状況下にあっては、すぐに京都で新たな仕事口を探すことなど難しかった。結局、失業状態に追い込まれてしまった彼は、とりあえずもう一度東京へ戻ってみようと考えた。
ところが、困ったことに京都に出てきてそう時間も経っていない彼には預金など皆無で、しかも給料は未払いだったから、東京までの旅費さえ持ち合わせていなかった。なんとか給料を支払ってほしいとカフェ・バーの店主に掛け合ってみたが、洪水による多大な被害のために店主自身が生活費に事欠く事態に陥っていたからまるで埒があかなかった。困り果てた彼はついに非常手段にうってでることを決意した。
「ここはもうトンズラするしかないと思ったんです。お店の二階の小部屋に寝泊りしてましたから、泥水浸しになりボトルやグラス類の破片が散乱するお店に自由に出入りすることはできました。幸か不幸か……いや、私にとっては幸いでお店のオーナーにとっては不幸なことだったんですが、高い棚に並べてあった高級酒だけはそのまま無事に残っていたんですね」
青年時代を回想する老翁は、そこまで話すともう想像がついたろうとでも言いたげな表情でニヤリと笑った。
「深夜に店におりるとジョニウォーカー三本を無断で持ち出し、そのままその場から姿を消したんです。まあ、ジョニーウォーカーが三本あれば未払いの給料と相殺ということになるかと考えましてね……。もちろん、ほんとの私の身元なんか店主は知るよしもないんで、あとになってからしてやられたって気がついたってどうしようもなかったでしょう」
「なにか面倒な事態が生じたとき、差し引き勘定をしてエスケープするのがのちに石田さんの定番になった背景はそんなところにもあったんですかね。合理的というか狡知に長けているというか……。で、そのジョニーウォーカーはどうなったんです?。まさか無賃乗車してそれで車掌や駅員を買収したんじゃ?」
「二本は闇市みたいなところで売って換金しました。そのお金を東京までの旅費に充てたんですよ。残りの一本はたしか自分で飲んじゃいましたね」
「じゃ身ひとつで東京に舞い戻ったわけですね」
「舞い戻ったなんてそんな……迷い戻ったんですよ!……情けない話ですが」
そう言って自嘲気味に笑った老人はさらに言葉をつないだ。