ある奇人の生涯

1. 碌山美術館

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

「これからどちらへ?」―― 信州安曇野の穂高駅前で、手にした地図と観光案内板とを見較べながら気ままな旅の行程を考えていた私は、いきなり肩ごしにそう声をかけられた。「はあ?」と戸惑い気味に振り返ると、眼鏡の奥にいたずらっぽい笑みを湛えた一人の見知らぬ老人がじっとこちらを見つめていた。一瞬言葉に詰まって立ち尽す私に向かって、謎の老人は「昨日も私はあなたにお会いしましたよ!」と、追い伐ちをかけてきた。想わぬ展開に混乱をきたした私の様子を、老人は心底楽しんでいるかのようでもあった。生まれたばかりの樹々の緑が西陽をふくんでやわらかく輝く、ある晩春の夕刻のことである。

「あなたは昨日、碌山美術館のベンチでノートを片手になにやら想いに耽っていましたよね?」
「ええ、若葉は綺麗だし、陽差しもやわらかでとても気持ちがよかったので、ベンチに寝転ってボーッとしてました。でもどうしてそんなことを?」
「あのとき、私も客人を案内して碌山美術館を訪ねていましてね。それでたまたまあなたの寝そべっているベンチのそばを通り過ぎたんです。妙に印象に残っていましたんでね」

老人はそう言ってまた愉快そうに笑った。見るからに上質な麻織りのシャツを前開きにして着流し、太い黒縁のサングラスをかけたその姿には、不思議な存在感さえ漂っていた。どこか往年の黒澤明をも偲ばせる風貌のその老人を私はまじまじと見つめ返した。

旅の途中にあった私は、その前日、穂高駅に近い碌山美術館を訪ねたばかりだった。この美術館は、高村光太郎と並ぶ偉大な彫刻家、荻原碌山の業績を讃えて、昭和三十三年に建てられた。ツタの葉と蔓で覆われたチャペル風のレンガ造りの建物に魅せられてこの地を訪ねる人はいまもなお跡を絶たない。

安曇野の旧家の若当主、相馬愛蔵のもとに才色兼備でなる二十一才の相馬黒光が嫁いできたのは明治二十九年のことである。そのなみはずれた知性と美貌を武器にして、若いながらもすでに多くの文人や芸術家と交流のあった黒光は、嫁入り道具と共に一枚の絵画を持参した。「亀戸風景」というその一幅の風景画は、はからずとも彼女より三歳年下の青年荻原守衛の運命を大きく変えるところとなった。

姓は星、名は良というのが黒光のかつての本名だったが、女学校時代の師、星野天知が、「到底何かやらなければ成仏できそうもない光」を放つ彼女の瞳の輝きを「暗光」と呼んだことから転じて、「黒光」というその不思議な呼び名が生まれたのだという。「アンビシャス・ガール」として知られ、先練された都会的感覚の持ち主の黒光が安曇野に嫁してきた背景には、当時親交のあった国木田独歩や、彼女が傾倒していた田園詩人ワーズワースの影響もあったらしい。

キリスト教徒だった相馬愛蔵らが主宰する東穂高禁酒会に入会していた地元出身の青年荻原守衛は、その縁で美しく理知的な黒光を知るところとなり、彼女の鋭い知性と豊かな感性に圧倒された。なかでも、黒光によって教化され、芸術の世界へと眼を開きかけていた荻原守衛に一枚の油絵がもたらした衝撃は、その後の彼の人生を決定づけるほどに絶大なものであった。荒川河畔に牛が佇む様子を描いた長尾杢太郎筆の「亀戸風景」は、黒光への抑え難い思慕の念とあいまって荻原守衛の若い魂を激しく揺さぶったのである。守衛が芸術の道を志そうと決意したのはまさにこの瞬間であったという。いまも穂高の相馬家に所蔵されている「亀戸風景」の実物大写真が碌山美術館本館の入口近くに展示されている。

二十一歳になった荻原守衛は明治三十二年、相馬黒光の紹介のもと、巌本善治を頼って上京、明治女学校内の深山軒に仮寓した。そしてその二年後の明治三十四年、洗礼を受けて渡米し、ニューヨークの画学校に入学した。いっぽう相馬愛蔵夫妻も同じ年、穂高での生活に区切りをつけて上京、本郷の東京帝国大学前にあったパン屋「中村屋」を屋号ごと譲渡してもらい、その新事業の発展に努めることになる。当時の帝大生や上野の美校(現東京芸術大学)の学生たちの間で大評判を呼んだこともあって、中村屋は繁盛の一途を辿った。明治四十年には新宿追分に支店が開かれ、その二年後には新宿駅前に移転、現在の中村屋の基礎が出来上がった。文人や芸術家と幅広い交流をもつ黒光の才覚もあって、新宿中村屋はますます発展を遂げ、芸術家グループのサロン的役割を果すようにもなっていった。

ニューヨークには渡ったもののいまひとつ満たされぬものを覚えた守衛は、一時的に渡仏し、パリの画学校に入学する。そして、そこで運命的に出逢い心から感動した作品こそがロダンの彫刻「考える人」であった。「考える人」を目にして天啓に近い衝撃をうけた守衛は彫刻家になろうと固く決意する。

いったんニューヨークに戻って身辺の整理を終えた守衛は明治三十九年に再び渡仏し、彫刻の世界に没頭するようになっていった。美術雑誌に紹介された「考える人」の写真を一目見てやはりロダンに傾倒し渡欧していた若き日の高村光太郎と廻り逢い、互いに親交をもつようになったのはこの時代のことである。

ほどなく憧れのロダンに師事し、彫刻の腕に磨きをかけた守衛は、「女の胴」、「坑夫」などの秀作を次々に生み出していった。この頃から守衛は、「碌山」と号するようになるが、この雅号は、渡欧中に彼が愛読した漱石の小説「二百十日」に出てくる「碌さん」をもじったものであったという。しかし、その語調の中には恩師「ロダン」の名前のもつ響きが暗に込められているようにも想われてならない。明治四十一年、三十歳になった荻原碌山は、盟友高村光太郎が激賞した作品「坑夫」を携えて帰国する。現在碌山美術館に所蔵されているその作品を、当時の厳しい運搬事情を承知のうえで是非とも母国に持ち帰るようにと勧めたのも光太郎であったという。

帰国した荻原碌山は、相馬夫妻が営む新宿中村屋の二階に仮住まいし、東京で帽子屋を開いている実兄の援助で出来た近くのアトリエに通いながら、作品の製作にとりかかった。アトリエと言えば聞こえはいいが、実際には麦畑やトウモロコシ畑の中に立つ六畳一間ほどのバラック小屋だったらしい。

「愛は芸術なり。相克は美なり」という有名なロダンの芸術思想を継承した碌山は、激しく美しくも、いっぽうで救い難い葛藤と愛憎に彩られた世界に自らの魂を投じ、そこに彫刻表現の根源を求めた。愛の相克のもたらす美に文字通り命をかけていったのである。青春期に安曇野で出逢って以降、若くして他界するまで、碌山の相馬黒光に対する深い思慕は変わることがなかった。とくに、相馬愛蔵が安曇野に愛人をつくり黒光との不和が囁かれるようになると、碌山は黒光母子を連れて渡米することさえも考えたという。しかし、黒光はそんな碌山の激情を鎮め制するかのようにひたすら中村屋の家業に精魂を傾けるばかりだったため、碌山の煩悩は果しなく高まりゆくばかりだった。

自らの意志ではいかんともし難い胸中の苦しみを叩きつけるようにして、碌山は「文覚」、「ディスペア」、「労働者」といった作品を製作した。「文覚」は芸術としての彫刻が何たるかを初めて我が国に知らしめる歴史的記念作品ともなった。モデルとなった文覚上人は、北面の武士だった頃に恋慕した人妻、袈裟御前を誤って殺め、その苦悩のゆえに出家して仏門に入った歴史上の人物だけに、碌山には、黒光に対する自らの処し難い気持を重ね見る想いだったのであろう。絶望に悶える女の姿をテーマにした「ディスペア」は碌山と黒光の深い関係とそれに伴う複雑な事情が形を変え、類稀なる芸術作品へと昇華したものにほかならない。

明治四十二年の暮れ、自らの命の炎に避け難い翳りと揺らぎとを感じた碌山は、精魂を尽して一つの作品の制作に取りかかった。伝記の語るところによれば、塑像を作る粘土が凍結するのを防ぐため、毛布はおろか自分の着衣までも覆いとして用いた碌山は、暖房器具一つない貧しいアトリエの中で立ち震える有様だったという。

翌年の明治四十三年三月半ば頃に「女」と題されるその作品は完成した。完成後まもなく碌山のアトリエに案内された黒光の子供たちが、一目見るなり「あっ、母さんだ!」と叫んだというその塑像こそは、碌山最後の、そして明治期最高の傑作といわれる作品であった。膝を立て、両腕を後手に組んで豊かな乳房を誇示するかのように胸を張り、こころもち右へと首を傾け、両眼を閉じてわずかに口を開き、悩ましげに天を仰ぐその像は、まさしく相馬黒光その人の裸形そのものだったのだ。日本近代彫刻の名作「女」は、碌山と黒光が、その相克の深さにもかかわらずどこまでも心身を許し合う仲であったことをはっきりと物語っている。

「女」を完成してほぼ一ヶ月後の四月二十日、中村屋の奥にあった相馬家の居間で友人達と談笑中、突然に吐血した碌山は、それから二日後の早暁、相馬夫妻や駆けつけた多くの知己が見守るなかで絶命した。時に碌山三十二歳、天才にありがちな夭折であった。折しも奈良を旅していて碌山の臨終に立ち合うことのできなかった高村光太郎は、のちに「荻原守衛」という詩を詠んで次のようにその死を深く悼んでいる。

粘土の「絶望(ディスペア)」はいつまでも出来ない
 「頭が悪いので碌なものは出来んよ」
 荻原守衛はもう一度いふ
 「寸分も身動き出来んよ。追いつめられたよ」
 四月の夜更けに肺がやぶけた
 新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして荻原守衛は血の魂を一升吐いた
 彫刻家はさうして死んだ……日本の底で

息を引きとる直前、碌山は人目を忍んで黒光に一つだけ重要な頼みごとをした。碌山の葬儀が行われてから何日かのち、今は主なき碌山のアトリエに一人佇む相馬黒光の姿があった。黒光は死の床で碌山から秘かに手渡された合鍵で故人が愛用していた机の引き出しを開けて一冊の日記帳を取り出した。びっしりと歓喜や苦悩の文字の書き込まれたその日記帳の一枚一枚を黒光はむしりとり、深い想いを押し殺すようにして火にくべた。立ち昇る煙が天上遥かな碌山の魂に届けとばかりに、黒光は、情念の写し絵とでもいうべき紙片の数々を燃やし去っていったに違いない。

荻原碌山の遺骸の眠るひつぎは列車で信州穂高の実家に運ばれ、北アルプスの常念岳を望む安曇野の一隅に埋葬された。碌山の遺作「女」は、その年の秋の第四回文展において、「この一品をもって及第品中の最高傑作と断ずる」と絶賛された。日本近代彫刻の金字塔ともいうべき「女」は、荻原碌山が文字通りその命を賭け、最後の血の一滴までも絞り尽して完成させた作品だったのである。

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