ある奇人の生涯

93. クイーン・マザーのお人柄

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

1952年の秋も終わりに近づくと、ジョージ6世の崩御以降公的な場所に姿を見せることを控えがちだったエリザベス皇太后も、再びその姿を英国民の前に現わすことが多くなった。そんなエリザベス皇太后の優しく温かな微笑みは、英国民にこのうえなく明るい光を投げかけ、戦後の復興に勤しむ人々の心をそっと包み励ましてくれるのだった。

娘のエリザベス女王はまだ戴冠式こそ迎えてはいなかったが、すでにクイーン・エリザベスとして国民に親しまれるようになっており、それにともなって女王の母であるエリザベス皇太后のほうは、クイーン・エリザベス・ザ・クイーン・マザーと呼ばれるようになっていた。どちらも同名のエリザベスであるために、ザ・クイーン・マザーという呼称を補足して二人を区別しようとしたからであった。エリザベス皇太后は、堅苦しい「皇太后」という敬称を嫌って気軽に「クイーン・マザー」と呼んでもらうことを自ら強く望み、そのような呼び名がこの時期にはすでに英国民の間にすっかり定着するようになっていた。

クイーン・マザーは競馬やお酒が大好きであることをすこしも隠そうとせず、庶民の出入りするパブなどにも出向き。そこにいる人々と心ゆくまで語り合うことを好みもした。英王室の人々、なかでも女性の王族らは通常きわめて謙虚で、高見に立って国民に臨み接するようなことはまったくなかったが、このクイーン・マザーの国民に対する心配りのほどはとりわけ大きなものであった。

石田はそんな英王室の女性たちの醸し出す優しく温かい輝きを、同じ輝きを意味する言葉でも、「shine」ではなく「glow」という言葉を用いて表したほうがより相応しいと感じるようになった。「shine」のほうは、宝石の輝きに象徴されるように外から当てられる光を反射して生まれる輝きである。それに対して「glow」のほうは蛍の光にみるようにそのものの内側から自然に発せられる輝きのことである。石田は内奥から発せられるそんな自然な輝きを英王室の女性たちの中に感じ取ったのであった。彼にはその輝きがその人物一代にして形成されるようなものではなく、何代にもわたる英王室の伝統を通してはじめて培われるもののように思われてならなかった。

クイーン・マザーに関しては石田自身取材を通して直接にその人となりを知る機会が何度もあったので、その思いはひとしおだった。英国のタブロイド紙は常々英王室のことを面白可笑しくも書きたてもし、また痛烈かつ容赦ない批判をおこないもしていた。あるとき、たまたま、あるタブロイド紙がクイーン・マザーはワースト・ドレッサーだと書き立てたことがあった。

それからほどなく新聞各紙や雑誌の記者らと共にクイーン・マザーに会見取材する機会があったので、石田は自ら、「タブロイド紙などでクイーン・マザーはワースト・ドレッサーだと面白可笑しく書き立てられたり、皮肉られたりしておられるのですが、その点についてはどんな風にお感じですか?」と尋ねてみた。するとクイーン・マザーはいささかの動揺も見せることなく、にこやかな笑みを浮かべながら即座に答えたものだった。その答はまた、英王室と国民との間に長い時間をかけて培われもし、目に見えぬところで脈々と息づきもしている深い信頼関係を物語るものでもあった。

「確かに私はワースト・ドレッサーかもしれません。公の場に出向く時には、宝石だらけの派手なドレスを身につけ、まるで、お伽噺の中の女王かトランプの中の女王みたいな格好をしたりもします。そのように見るからにあでやかな姿をして国民の皆さんの前に現れ、皆さんの目を楽しませたり、新聞や雑誌になにかと話題を提供したり、誹謗や中傷を含めてあれこれと書き立てられたりするのも私どもロイヤルファミリーの役割のひとつなのです。ベスト・ドレッサーのほうは、ケント公夫人や世の数々の映画、演劇スターらにお任せしておけばよいことですからね」

デビスカップの授与者として現在でもその名を知られるケント公夫人は若い頃にはパリでファッションモデルをやっていたこともあり、当時の英王室にあっては最高のファッション感覚の持ち主であった。エリザベス女王の妹のマーガレット王女などは常々ケント公夫人のファッションや身振舞いをそれとなく真似ているくらいだった。ケント公夫人はともかくとして、英王室の女性らには一般に写真映りが悪いという印象がついてまわっているのは事実だった。だが、そのいっぽうで、品性のあるピンク色の肌の内側から滲み出てくるような温かい心の輝きに、石田は心底感銘を覚えもするのだった。それは、単に美しいだけの女性などにはけっして見出すことのできない、気品に満ちた光だったからである。

クイーン・マザーに関してはいまひとつ印象深い出来事があった。当時はロンドンの貧民街として知られ、引越し魔の石田が意図的に居住先に選んだこともあるイースト・エンド地域をクイーン・マザーが訪問したことがあった。イースト・エンドに住んだのはほんの一時期にすぎなかったけれども、石田にすればとても想い出に残るところだったから、その訪問の様子を取材するために記者団の一員として当然彼もその場へと同行した。

クイーン・マザーがいつものにこやかな微笑みを浮かべながらイースト・エンドに住む人々との挨拶を交わし終え、お茶が出されるという段階にいたってそのことは起こった。その頃のイースト・エンドの人々、なかでも中・高年の女性たちには、紅茶などを飲む時、ティーカップのお茶を何度かに分けてカップの受け皿に注ぎ、それを皿からすするようにして飲むという風変わりな習慣があった。お茶の用意が整うと、クイーン・マザーを取り巻く女たちは皆が皆、いつものように受け皿のほうにカップの中の紅茶をすこしだけ注ぎ込み、それをすすりはじめたのだった。

クイーン・マザーのお付きの者たちは、貴族連中をはじめとし、当然それなりに身分の高い者ばかりであった。だから、そんな女たちの振舞いを目にしたお付きの者たちは、一斉に困惑したような表情を浮かべ、侮蔑に近い感情を顕にしはじめた。石田がさりげなく彼らの様子を覗うと、ある者などは顔を真っ赤にし身体をぶるぶる震わせているような有様だった。

ところがどうだろう。なんと、クイーン・マザーのほうは実に自然な手つきで自らのティーカップの中の紅茶を受け皿に注ぎ、自分を取り巻くイースト・エンドの女性たちと同様に皿の紅茶をすすりはじめたのである。なんの嫌味もなんの違和感も感じさせないその見事な立ち振舞いを目にして、石田は言葉では言い表わし難い深い感動に襲われた。クイーン・マザーはそうやってお茶をすすりながら、相変わらずにこやかにイースト・エンドの人々と談笑を続けたのだった。まさにそれは、クイーン・マザーという大人物の内に秘められた叡智のなせる業とでも言うべきものであった。またそのいっぽう、お付きの者たちのなんともバツの悪そうなしぐさや、それにもかかわらずどこかホッとしたような表情などが石田にはなんとも可笑しく思われてならなかった。

このクイーン・マザーの血をどこか受け継いだところがあったのだろう、エリザベス女王にもいろいろと庶民的な一面があった。王女の時代からポーカー・ゲームなどが大好きだったエリザベス女王は、夜になるとそっと宮殿を抜け出て昔ながらのポーカー仲間のいる場所に出向き、気軽にワインなどを飲みながら心ゆくまでゲームを楽しむこともしばしばだった。ロンドンの市民たちは女王のそんな行動を内々知ってはいたのだが、そのことを恥ずべきことだとして非難したりするようなことはまったくなかった。それが女王であれ一般庶民であれ、一個人が私的な楽しみに興じているところには他人は介入すべきでないという不文律のようなものが、英国人の間にはあったからである。

たとえばナイトクラブや劇場に有名人が恋人と一緒にやってきているのを目にしても、周囲の者が大騒ぎをしてその邪魔をするようなことはまずなかった。他人が何かを楽しんでいるときにはそれが何であれいっさい干渉したりはしないというのは、イギリス人のもっとも基本的なスタンスであった。ただ、大劇場などで映画スターなどのような有名人が観劇を終えて外に出ると、いわゆる追っかけファンが大勢待ちうけていて、握手を求めたり歓声を上げたりするようなことはよく起こったし、有名人のほうもその歓呼に対し十分に応えたりするのはよくある光景だった。

この年の12月も間近な頃になると、クイーン・マザーとエリザベス女王の動きはますます活発になってきた。二人は揃ってあるイギリスの貴族の御曹子とアメリカの百万長者の娘との華やかこのうえない結婚式に出席し、ロンドン子をはじめとする英国民に明るい話題を振りまいた。その結婚式は戦中戦後の暗い時代を経た直後のこととしては類例のないほどに豪奢なもので、まるで幻想的な映画の世界そのままであった。むろん、取材に出向いた多くの記者たちも、その夢のような式典を目にしてひたすら驚愕するばかりであった。

それからほどなく、エンパイア劇場でロイヤル・フィルム・パフォーマンスという催物が開かれた。これはその年の映画の大作のひとつをロイヤルファミリーに鑑賞してもらうとともに、それらの大作映画に出演した俳優たちをその場に招待し、しばし王族とともに楽しく過ごしてもらうという趣向の催しであった。この日のエリザベス女王は、前の部分だけが白地で全体は艶やかな黒のイヴニングドレスに身を包み、肘の上まである純白の長手袋をはめ、眩いばかりにダイヤのちりばめられた腕輪をつけ、その頭上には同じくダイヤのちりばめられた豪華なティアラが輝くといういでたちだった。

エリザベス女王をはじめとするロイヤルファミリーの姿を一目見ようと劇場近くの路上には2万人もの群衆が集まった。女王の乗る車がトラファルガー広場に近づくと、夫君のエディンバラ公は運転手の肩を軽く叩いた。すると、その合図を受けた運転手によって、車内燈がまるで舞台の照明燈のように明々と灯され、その光の中に微笑みを浮かべた女王の美しい姿が浮かび上がった。その心憎いばかりの演出に2万の群衆はそれぞれに手を振り、声を上げて歓喜するばかりだった。

映画の上映が終わると、女王夫妻とマーガレット王女の3人は劇場のラウンジに集まった男優や女優らに言葉をかけながら親しく握手を交わしたりした。女王がチャーリー・チャップリンに「お子さんがたはお元気ですか」と尋ねたり、「巴里のアメリカ人」に登場したダンサーのジーン・ケリーと何事かを話し込む姿なども見かけられた。マーガレット王女からも「私は『雨の中の歌』を6回も見ましたよ。それと、イギリスで音楽映画を制作しているそうですけど、ほんとうに喜ばしいことですね」などと声をかけられ、ジーン・ケリーはすっかり感激し言葉も出ない有様だった。そのほかにも、この夜の劇場ラウンジには、ヴィヴィアン・レイ、マーガレット・ロックウッド、シリア・ジョンソンといったようなその時代の高名なスターらが溢れ返り、それはそれは大変な活況ぶりであった。ロイヤルファミリーが劇場をあとにし、バッキンガム宮殿へと戻ったのは真夜中近くのことであった。

石田はこの日の様子を「ロンドン今日この頃」で放送もし、その内容は「ロンドンだより」という特別記事として内外タイムスにも掲載されたが、彼はこの日にロイヤル劇場で上映された映画そのものについては辛口の批評をおこないもした。それは例年のものとはすこし異なり、アメリカの音楽をベースにしたマリオ・ランザというテノール歌手主演の「Because you are mine」というタイトルのミュージカル映画であった。

石田は、「その映画を試写会においてロイヤルファミリーよりも一足先に見てはいたが、それは大した映画ではなかった。映画評論家たちもその点では自分と同意見である。もちろん、ミュージカルのことだから、主演のマリオ・ランザの歌がふんだんに盛り込まれていてそれなりには楽しめもしたのだが、全体的には一貫性にとぼしく、始めから最後まで2本しか足のない椅子に腰掛けでもしているかのような、なんとも落着きのない映画だった」とその率直な感想を述べたのだった。

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