ある奇人の生涯

109. 貨客船で帰国の途に

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

1954年の6月半ば、ひとりロンドンを発った石田はサウサンプトン港へと向かった。そして同港に停泊しているイギリス船籍の貨客船に乗り込んだ。その船は、地中海、紅海、インド洋経由で横浜港へと向かう貨客船だった。1949年4月のイギリスへの渡来時に石田が乗ったのは、当時BOACが運航していたダグラス社製四発プロペラ・エンジンの飛行艇だった。終戦からまもないその頃には、まだ日本と英国間を結ぶ通常の旅客機の運航はなされていなかった。まるで魔法の絨毯に乗ったようなアラビアン・ナイトの世界なの旅を10日余り続けたあと、彼はこのサウサンプトン港に降り立った。その後ほどなくして通常の旅客機が日英間を運航するようになったから、飛行艇で日本からイギリスまで旅をした日本人は、後にも先にも石田達夫がただ1人だけだった。

旅客機で帰国しようと思えばもちろんそうすることもできた。しかし、石田は長い船旅を楽しみながら帰国する道を選んだ。乗船した貨客船はそんなに大きくもなく、イギリスが世界に誇るクイーン・エリザベス号やクイーン・メリー号のような豪華客船などには程遠いものであったが、若い頃に貨物船のタリーマンの経験などもあってもともと船に強いかった石田にすれば、長い船旅は大いに好むところでもあった。イギリスへの往路は飛行艇による旅だったということもあって、地中海一帯の景観をほとんど目にすることはできなかった。だから、せめて帰路には地中海を通る船上からじっくりと各地の海の景色を眺めてみたいという願望が彼にはあった。また、十分に時間をかけて5年余にわたるイギリスでの生活を反芻しながら日本へと帰りたいという気持ちもあった。

ロンドンでのBBC日本語部局員との別れはごく静かなもので、特別に大袈裟な送別会などが催されるようなこともなかった。ジョン・モリスやトレバー・レゲットなど、お世話になった上司や、アラブ・エミコ、岩間達雄らの同僚、松本俊一駐英大使夫妻、さらにはイギリス人の友人知人らにも個々会って簡単な挨拶を交わしたり、離英する旨を電話で端的に伝えたりしただけだった。それが英国流であったし、もともと仰々しい送別パーティや見送りなど石田の望むところでもなかった。ロンドンを発ちサウサンプトンに向かう朝も、ひとりで鉄道の駅に行き、誰にも見送られることのないままに、ひとり車中の人となった。

ロンドンを発つ前日、ミサにはお別れの電話を入れた。直接に会って互いに別れを惜しむといったようなことは二人の性分には合わなかった。終戦直後の引き揚げ時においても、ミサのほうはひとりそのまま上海に残るということになり、石田だけが引き揚げ船に乗り込んだ。その際にあっても二人の別れはさらりとしたものであった。まして、イギリスでのミサは、ネダーマン・ミサとしてれっきとした夫をもつ身でもあった。

「ミサ、明日、イギリスを発って日本に帰るよ。サウサンプトンから船に乗ってね。そんなわけだから、とりあえずミサも元気でな!」と石田が言うと、受話器を通して、相変わらずの彼女の減らず口が聞こえてきた。

「タッツアンのことだから、まあ、当分死ぬようなことはないわよね。帰国の途中、船から落っこちて鮫の餌にでもなるようだったら、その時はあらためて連絡ちょうだい。その場所にあとで献花でもしに行ってあげるからね……」

「その時は、化けて出てミサを海にひきずりこんでやるさ。きっと鮫が泣いて喜ぶだろうからね。とにかく、縁があったらまたどこかで会うことにするさ!」

「そうだわね、タッツアンとは腐れ縁だから……。ただ、腐れ縁っていうのは、縁が腐れてしまうわけだから、どこかでその縁が切れるはずなんだけどね」

「ふふふふふ……、その縁を結ぶ糸の芯の部分が鋼鉄の針金かなんかで出来ているのかな?」

「じゃ、ヤスリかペンチでちゃんと切らないと駄目だわね」

「そうらしいねえ。それじゃまあ、とりあえず元気で……、ご主人のネダーマンさんにもよろしく!」

「それじゃね、タッツアン……、まずはイギリスでの5年間ご苦労様でした!」

石田とミサのイギリスでの最後の会話はそんな風にカラッとしたものだった。なんとも不思議な腐れ縁は、ずっとのちになってから、またもや意外なかたちをとって石田とミサとを結びつけることになるのだが、そんなことなどその折の二人には想像もつかないことだった。

石田を乗せた貨客船は、高らかにエンジン音を響かせながらサウサンプトン港を出るとほどなく英仏海峡に入った。次第に遠ざかる英国本土の山影やヨットレースの本場ワイト島の島影を眺めやる彼の心中に、深い感謝とやり場のない淋しさが入り混じった複雑な想いが込み上げてきた。

「さらばイギリス……、また会う日まで……」

深い感慨のこもったそんな呟きを人知れず発しながら、石田はイギリスとの最後の別れをいつまでもいつまでも惜しんでいた。

その貨客船には石田のほか12人ほどのお客が便乗していた。ただ、日本人は彼が1人だけだった。サウサンプトンを出港した船はフランスの沖を通り、スペインやポルトガルのあるイベリヤ半島沖に至り、ジブラルタル海峡を抜けて地中海に入るルートをとった。フランス沖を通過中たまたま眺めた真っ赤な夕陽は悲しいまでに美しかった。かつてタリーマンをやっていた貨物船で小樽から天津や基隆方面に向かう途中、美しい夕陽を何度となく目にはしていたが、大西洋に沈む夕陽の輝きにはそれとはまた一風異なる趣きがあった。

ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸とを隔てるジブラルタル海峡の幅はわずか14キロメートルと想像していたよりもずっと狭かった。イベリア半島最南端のジブラルタルの町だけはイギリス領になっていたが、石田らの乗る船はいっきにその海峡を通過したため、ゆっくりジブラルタル一帯の史跡や風物を見聞する時間などはなかった。だが、それでも、「ヘラクレスの柱」と呼ばれる岩山にはさまれたこの狭い海峡の有様を目にした彼には、ローマ帝国時代、ハンニバルの率いる軍勢がアフリカからヨーロッパに侵攻したり、ウマイヤ王朝期のイスラム勢力がイスラム文化を携えてイベリア半島に続々と上陸するにいたったのも当然のことだと納得がいった。

貨客船とはいっても、石田らの乗る船は貨物の運輸が主務で、客船の役割のほうはあってなきがごときものだったから、地中海に入っても無寄港でひらすら東へと走り続けた。せめて地中海に散在する島々のどこかに寄港でもしてくれれば、そこの風物を楽しめるのにという思いもあったが、石田のそんな淡い期待は呆気なく吹き飛んだ。時々遠くに島影が見えたりはしたが、便乗客の胸の内などいっさい無視するかのように船はそのまま海上を東進し、いつしかスエズ運河の地中海側入口、ポートサイド沖へと到達した。

イギリスを出てからひたすら走り続けてきた石田らの船は、スエズ運河を通過したあと、同運河の紅海側入口に近いスエズ港に2日間ほど碇泊することになっていた。その当時、世界の海運の要衝スエズ運河はまだイギリスの支配下にあった。そのような状況を考えてみると、石田の乗る英国籍の貨客船が本国から運搬してきた生活物資などを降ろすためスエズに寄港することはごく自然なことだったし、また、イギリス人乗客のうちの何人かがスエズで下船するというのも当然の成り行きであった。

フランスの外交官であったフルディナン・レセップス(1805~1895)はスエズ地峡を掘削して地中海と紅海とを繋ぐ大運河を建設することを計画、エジプト太守にその計画の遂行を請願した。その結果、フランスとエジプトが資本金をおおよそ半分ずつ拠出するかたちでスエズ運河株式会社が設立されることになった。そして一八五九年四月に掘削工事が開始され、10年余の歳月をかけたうえで、1869年に全長163キロメートルのスエズ運河が開通した。かつてナポレオンもスエズ運河掘削を計画したことがあったというが、当時の地理学的データに基づくと地中海と紅海との平均水位の差が10メートルほどにも及ぶということで、その問題を克服することが技術的に困難だとされ、実現にはいたっていなかった。

実際にはその水位差は1メートルから2メートルに過ぎないことが判明、またスエズ地峡の陸地部はほぼ平坦で最高地点でも海抜15メートル程度であり、しかも途中の30キロメートルほどは湖をそのまま活用することができたので、レセップスの時代の土木工事技術をもってすれば運河の掘削そのものはひどく難しいことではなかった。ただ、投入された労働力は膨大で150万人ものエジプト人が動員され、しかもそのうちの12万5千人がコレラを主とする伝染病やさまざな事故などで死亡したと推定されている。それに加えて、イギリスはこの運河の開鑿をなんとかして妨害しようとあらゆる手段を弄したのだった。海運王国イギリスは、エジプトがフランスに接近することによってインド支配に間接的な悪影響が及ぶだけでなく、運河の開通によって商業上の主導権をフランスに奪われることを危惧していたからであった。

しかし、そんなイギリスの妨害にもかかわらず、約4億フランの総工費をかけてスエズ運河は完成した。そして、最終的には工費の7割をエジプト側が拠出するという結果になった。完成した運河は、水面部の水路幅が60メートルから100メートル、水底部の幅が22メートル、水深が7・9メートルという大規模なものであった。この運河の開通によって欧米諸国とアジア各国との航路が一挙に短縮され、世界の海運業は飛躍的な発展を遂げることになった。

ところが、ほどなく対外債務を抱えて財政難に陥ったエジプトの窮状をチャンスと見てとった英国首相ディズレーリは、ロスチャイルド家から資金を借り受け、1875年にスエズ運河会社の44パーセントにあたるエジプトの持ち株分を入手した。このことによってイギリスはフランスと並ぶ運河経営権を獲得したばかりでなく、1882年にはエジプト民族主義者の反乱鎮圧と運河の保護を名目にスエズ一帯を武力で占領するにいたった。そして、その後エジプトの支配を拡大していくのにともないスエズ地峡をイギリスの軍事基地化し、スエズ運河の独占支配を実現した。1888年、コンスタンティノープル条約においてスエズ運河の国際化と中立化が調印されたが、1914年にイギリスはエジプトを保護国とし、1922年のエジプト独立後も軍隊を駐留させ続けた。そして1936年にはエジプトと同盟条約を結び、駐兵権を合法化させた。

イギリスによるスエズ運河支配の歴史は植民地主義の本質をよく物語るものでもあったが、ともかくも石田の乗る貨客船がスエズ運河に差しかかったのは、なおそんなイギリスのスエズ運河支配が続いている時期のことであった。BBC在勤中に仕事を通してその歴史を一通り学んでいた石田の胸中はすくなからず複雑なものであった。イギリスのスエズ支配の手口にはけっして賛同できなかったが、自分はというとそのイギリスでさまざまな恩恵に預かり、そこで5年余の生活を送ったのちの帰国の途上にあるからだった。それからほぼ2年後にエジプトのナセル大統領はスエズ運河の完全国有化に踏み切り、それが契機となってスエズ動乱が勃発することになるのだが、その時の船上の石田にはそんなことなど知る由もないことであった。

カテゴリー ある奇人の生涯. Bookmark the permalink.