ある奇人の生涯

111. 再び始まった東京暮し

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

5年ぶりに目にする東京や横浜の様子はずいぶんと変っていた。戦災の名残はまだあちこちに見かけられはしたものの、永久に復興不可能かとさえも思われた敗戦直後の一面焼け野原の状況からすると想像もつかないほどに街々は立ち直りを見せ、街行く人々も明るさと力強さを取り戻しつつある感じがした。生活必需品をはじめとする物資の流通が安定を見せはじめてきているのは一目瞭然であった。すでに通貨が円単位に移行し、銭単位の通貨がすっかり姿を消してしまっているのも帰国したばかりの石田には印象的だった。

英国での仕事を通していくらかの貯えはあったし、ポンドやドルに対して円の為替レートがまだまだ低い時代のことだったから、当面の生活に困るようなことはなかった。とりあえず彼は原宿や六本木から近いイタリアン・ガーデンの階上に部屋を借り、しばしそこに住みつくことにした。当時原宿や六本木一帯には欧米人が数多く在住していたので、得意の語学を活かして彼らとの文化的な交流をおこない、その後の日本での仕事の展開を図ろうと考えたからでもあった。

久々に目にする日本の新聞を通してまずは国内の世相の変化を知ることが、帰国後の石田の日課となった。戦後社会の転換期ともいえる急速な時代の動きを反映し、さまざまな事件や問題が浮上していた。3月に交された日米相互安全保障協定に基づき防衛庁が設けられ、さらに6月には自衛隊が発足した。帰国したばかりの石田にはそこに至るまでの一連の政治的流れやその背景が十分には把握できずにいたが、日本の旧軍隊の実態にかねがね嫌悪感を覚えるばかりだった彼は、自衛隊という不可思議な組織の登場にすくなからず戸惑いを感じたりもした。

いわゆる「死の灰事件」が起こったのもこの年のことだった。その年の3月、南太平洋に出漁していた遠洋マグロ漁船第五福竜丸は、ビキニ環礁付近で操業中、アメリカのおこなった水爆実験によって生じた放射能灰を浴び、漁獲マグロのすべてが放射能汚染したほか、静岡焼津港に戻った乗組員23人が白血病を起こしひどい頭痛や吐き気に襲われるという事態になった。いちはやくこの事件をスクープした読売新聞は、「死の灰」という言葉をもって一連の事態の経過を報道、9月に久保山愛吉無線長が死亡すると、広島、長崎につづく第3の世界的な核爆発による悲劇として、世界中のマスコミに広く取り上げられるところとなった。

しばらくの間、台風というものの存在にまったく無縁な生活を送っていた石田が、その猛威にあらためて衝撃を受けたのもこの年の9月のことだった。日本海を北上する台風15号の暴風雨の合間を突いて夕刻函館を出港した青函連絡船洞爺丸は途中で航行不能に陥り、投錨碇泊を試みるも強風のため七里浜沖で座礁転覆し、死者・行方不明者1,155名を出すという海難事故が発生した。また、同日夜には北海道の岩内町において、全町4,466戸の家屋中3,298戸が焼失、死者数が150名にものぼる大火災が生じたのだった。台風というものの猛威をすっかり忘れてかけていた石田にすれば、自分がいま日本に戻ってきたのだということをあたらめて実感させられる出来事であった。

産業界ではのちのソニーの前身、東京通信工業が革命的な小型トランジスターラジオの試作品を発表、ほどなく世界中を席捲することになる同ラジオの量産態勢に入り始めたところだった。イギリスで放送業務に携わり、しかも人一倍好奇心の旺盛だった石田は、むろん、デパートで催されたその試作品展示会に出向き、トランジスターラジオなるものを初めて目にしたが、それは驚くべき性能をもつ製品で、近々放送技術の大革新が起こるであろうことを予感させた。「パートタイマー」、略して「パート」という新和製英語が国内で広く話題を呼ぶようになり、家庭の主婦たちが家事の時間の合間を見て各種企業で短時間労働をするようになったのもこの年あたりからのことだった。

石田の大好きな映画界でも一大変化が起こっていた。オードリー・ヘップバーンらの出演するウイリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」が日本でも大評判になっていたが、一足先にイギリスでその映画を見ていた石田の関心は日本映画のほうに向けられた。溝口健二監督、長谷川一夫・香川京子主演の「浜松物語」、壷井栄原作、木下恵介監督、高峰秀子主演の名画「二十四の瞳」、さらには、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞に輝いた黒澤明監督、三船敏郎主演の「七人の侍」など、優れた日本映画が次々に制作発表され、自分のおかれていた状況柄、外国映画ばかりに目のいっていた石田は、それらの素晴らしさにあらためて驚かされるばかりだった。

いささか映画の質こそ異なりはするが、この年の11月に封切られた東宝の特撮映画「ゴジラ」にも石田は目を見張る思いだった。ゴリラとクジラの合いの子的なイメージをもとに「ゴジラ」と命名されたというこの怪獣を主人公にした映画は国内はもちろん海外でも大評判となって特撮監督円谷英二の名を世界に轟かせ、大いにドルを稼いだばかりでなく、アメリカなどの一部の辞書には「ゴジラ」という言葉が収録されるまでになった。

まだ、当時の日本円でまだ1台20万円から30万円もするテレビ受像機を一般家庭で購入することは不可能だったが、前年から正式に放映の始まったテレビ放送を高級レストランや高級ホテルのテレビジョンルーム、公共の広場に設置された街頭テレビなどで見ることができるようにはなっていた。全世界に先駆けてテレビ放送の始まったイギリスでテレビ放送をずいぶんと目にしてきていた石田なので、テレビ映像そのものにはべつだん驚きはしなかった。ただ、日本にテレビが普及するのはまだずっと先のことだろうと思っていたので、街行く人々が街頭テレビの前で足をとめ力道山のプロレスの試合に熱狂している有様を目にすると、その普及のはやさは想像以上のものだと感じざるを得なかった。

そんな日本社会の新たな動向にいささか違和感を覚えながら暮す石田が、帰国後しばらくして久々に再会したのは加島祥造だった。1953年に信州大学の教育学部講師に就任し加島は、それからほどなくフルーブライト奨学金を得て1年間ほどアメリカで留学生活を送り、その時たまたま帰国したばかりだった。そして帰国するとまもなく加島は信州大学の教育学部助教授に昇格した。5年以上も合わないうちに加島は英米文学の専門家としていちだんと成長を遂げ、独特の風格をそなえるようになっていた。東京のとある店に出向いた2人は、お互いの無事を祝い、それぞれの発展を称え合いながら旧交を温め、夢中になって話し込んだ。積もりに積もった想い出話や、奇談、失敗談などをはじめとする互いの経験談に興味津々耳を傾け合い、共感したり法服絶倒したりしながら、いつ果てるとも知れない談笑を続けたのだった。

語学の実務的なキャリアだけは人一倍積んでおり、能力も十分にあった石田だが、大学卒の学歴のない彼には、学歴重視の当時の日本社会において学術的な仕事をすることは困難だった。また、翻訳などのような専門性の高い語学関係の仕事を探すにしても、出版社などに直接的なコネクションのない身にはその糸口を掴むのにそれなりの苦労があった。その点、学歴も学者としてのポストもあり、すでにそれなりに名を成して多方面にコネクションもある加島の存在はたいへんに有難かった。

いっぽうの加島にしても、英国における石田の豊富な経験や実践的な語学力の助けを借りることは、大学での研究をはじめ、自分の仕事を効率よく進めるうえで願ってもないことだった。その再会を機に、2人は、加島が表に立ち、石田のほうは裏に身をおいて、なにか必要があるときには互いに助力し合うことを固く約束したのだった。楽しい再会のひとときを終えると、石田は東京に残り、加島のほうは信州大教育学部の勤務地のある松本へと戻っていった。

東京で暮しはじめてほどなく、石田は様々な年齢や職業の人々相手に英語の個人教授をおこなうようになった。日本人としては稀なほどに巧みな実践英語を使いこなす石田の評判はなかなかよかったし、機関銃の弾みたいに次々に打ち出される英国仕込みの切れのよいジョークは、教えを乞いにくる人々を大いに喜ばせたりもした。そんななかで彼は一風変った仕事をおこなったりもした。それはアメリカ軍人の妻となる日本人女性にアメリカの憲法と歴史とを英語で教えるという仕事だった。

戦後日本に駐留している米軍兵士や軍属のなかで日本人女性と懇意になり、やがて2人の関係が結婚にまで発展するといったケースは少なくなかった。そんな日本人女性が夫となる人物に付き従って米国に入国し、同地で国籍を取得して暮せるようになるには、事前に米国憲法や米国の歴史についての基本事項を問う試験に合格する必要があった。時代が時代だったこともあり、英文による試験や英語の口頭試問による審査に準備なしで合格できるほどの教養をもつ若い日本人女性は皆無に近かったから、石田のような人物の存在は彼女らにとってはとても貴重であった。

当然、英語がまったく出来ないような女性などもいたりしたから、教える側の苦労もすくなくなかったが、うまく彼女らの願いを実現できたときの喜びはまたひとしおであった。ただなかには、これから今後のアメリカでの生活に不可欠な「憲法」を教えるというと、その護身術となる「拳法」はどんな流派のものですかなどという「拳闘」違いならぬ見当違いをする若い女性などもあったりした。

しばらくすると、石田は麻布に英会話塾を開いた。かつて上海で経営していた学校に較べれば規模も生徒の数もごくささやかなかものであったが、英語の必要性が日々高まってゆきつつある時代のこともあって、レッスンを受けにくる人々は男女を問わず皆ずいぶんと熱心だった。ここでも石田の貴重な国際的体験談は大いに活かされることになり、受講者の関心を強く惹くことしきりであった。また、加島祥造による紹介もあって、彼は都内のある大学進学予備校で英語の指導をおこなうようにもなった。もっぱら英文読解と英作文とが担当だったが、どちらかというと細切れの文章を中心に文法重視の大学受験問題の解説指導や受験技術の伝授をおこなうことは、彼にはあまり性の合わない仕事だった。

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