対米英開戦のニュースは直ちに上海にももたらされたが、石田はそれを醒めた気持ちで受けとめていた。上海の日本租界周辺は本国と同様に戦勝気分に湧きかえっていたが、もちろん彼はそんなムードに身を委ねるつもりなど毛頭なかった。戦火が拡大していくばかりの現況と海軍武官府勤務の際に海外の報道を通して目にした日本の国力分析レポートなどから判断すると、先々の戦争の展望にはむしろいちまつの不安さえ抱かざるをえないからだった。しかし、いったん激しく動きだした時流というものは行き着くところまで行かなければとどまることはありえない。どんな困難があろうともとにかくこの上海で地歩を固め、やがて起るであろう戦時の混乱にも負けずに生き抜こうと、彼は彼なりに決意を新たにするのだった。
米英との戦争に突入すると、当然、上海の米英共同租界やフランス租界は事実上日本軍の管理下に入り、十九世紀半ばからほぼ百年にわたって続いた上海の租界制度はついに終焉を迎えることになった。ただ、上海の街並みの様子や国際交易都市としての様相がすぐに大きく変貌したというわけではなかった。もちろん欧米系の上海居留民が即刻強制退去を命じられたり、直ちにその資産を凍結されたりするようなこともなかった。日本の友好国であるドイツやイタリア関連の企業は開戦前よりもいちだんと上海に進出するようになり、ドイツ系やイタリア系の居留民の数はむしろ増加の傾向をたどった。地理的にみて上海が日中戦争や対米英戦争の最前線から遠く離れており、当面直接に戦火が及ぶ可能性がないことも上海の存続に幸いした。
一九四二年の三月頃までには、東南アジアに侵攻した日本軍はマニラ、シンガポール、ジャカルタ、ラングーン、ニューギニアなどを占領して支配化におさめた。そして大本営によるその劇的な戦果の発表は国民を勝利に酔わせ、日本国中にこのうえない歓喜と熱狂の嵐をもたらした。もちろん、それがつかのまのぬか喜びに終わろうなどとは、真の米国の国力を知るごく一部の指導者を除いてはまったく予想などしていなかった。
ちょうどそれと時を同じくするように、上海には、軍需物資や国民生活物資がらみの仕事を通じて一攫千金をもくろむ日本人が本国から大量に流入しはじめた。以前からの日本人居留民と違い、新たに流入したこの日本人たちは国際性に欠けていたうえに、戦勝ムードをよいことに現地の人々に対し傍若無人な振舞いを見せることも少なくなかったから、生活の秩序を破られた先住の日本人たちからさえも顰蹙(ひんしゅく)を買ったり厳しく非難されたりする有様であったらしい。
ただ、好むと好まざるとにかかわらず、日増しに日本色の濃くなる上海で暮らす欧米系や中国系の人々にとっては、一定レベルの日本語を身につけることが当面の急務となったばかりでなく、日本語ができるかどうかが死活問題につながりかねない状況にさえなってきた。だから、外国語のできる石田に個人的に日本語を教えてほしいという依頼などがちらほらと舞込んでくるようになってきた。そして、そんな情況の変化に着目した彼は、どうせならこの際思い切って小さな語学学校を開いたらどうだろうと思い立った。たとえささやかな規模のものではあっても自らの手で語学学校を立ち上げるなど、上海移住当初は想像だにしてみないことだったのだが、皮肉にも戦争の拡大という異常事態がそんな想定外の道を彼に開いてくれることになったのだった。事情が事情だったからすくなからず複雑な気分ではあったけれども、結局、彼は、現実に日本語修得を必要としている人々がいる以上、開校をためらうことはないのではないかと考えるようになった。
語学学校とはいっても当初は小さな日本語塾みたいなものを想定せざるをえなかったから、石田は南京路に近いフランス租界の一隅にちょっとした教室用の部屋を借り、まずはそこをベースに活動を始めることにした。そして、ともかくも「Ishida Language School」という看板を掲げ、英、独、仏、中国語等を介して日本語を教えるということを記した広告ビラを作成した。もちろん、そのビラには、英、独、仏、中国語でその旨を併記しておいたが、いまひとつ石田らしいのは、「授業料は無料とする」という一文を付け加えたことだった。
日本人居留民の戦勝熱からは一歩引き、冷静なスタンスをとっていた石田だったが、けっして本来の意味での愛国心がなかったわけでも、また日本文化に対する愛着がなかったわけではなかった。本質的な立場からの日本文化に対する深い思い入れなどは、その生涯を通して彼の心中に脈々と流れ続けていたといってよいだろう。この時石田は本気で、上海在住の外国人に日本語を教えることにより、すこしでも日本のために役立つことができればよいと考えていた。だから無料で日本語を教えることにためらいはなかった。
生活のほうはそれまでの貯えでまだ当分は凌いでいける見込みも立っていたし、そもそも彼は生来基本的な生活に必要な以上の蓄財に勤しむような性格の人間ではなかった。ところが、どこの国の人々でも感じることはおなじのようで、「授業料は無料とする」という文言がかえって人々の強い警戒心を喚び起こしたらしく、彼の心からの配慮にもかかわらず受講を申し込んでくる者は皆無であった。
「只ほど高いものはない」とはよく言ったものであるが、はからずも石田は、その言葉のより奥にある「只ほど怖いものはない」という人々の無言の思いをいやというほどに知らされるところとなった。彼自身は「只ほど有り難いものはない。何かあったらそれはその時!」という精神で生きてきたから、正直少々拍子抜けした感じだった。開店休業ならぬ開校休業状態ならまだいいが、いくらなんでも「開校廃業」に終わってしまったのでは格好悪いことこのうえない。このままでは石田美学の沽券(こけん)にも関わるというわけで、ものは試しと授業料有料化に踏み切り、生徒募集の広告ビラも作りなおした。そして、看板からも「授業料無料」の表示を消した。
皮肉なことにその効果は絶大だった。あれよあれというまに国籍も階層も様々な老若男女の生徒たちが次々と集まり、評判が評判を呼んでIshida Language Schoolは大変な盛況をみせるようになっていった。初めのうちは経営者兼講師として主に英語を使いながら自分一人だけで日本語を教えていた石田だったが、想像していた以上に急激に生徒数が増加したため、自力のみでは手に負えなくなってしまったのである。ついには教室の規模を大幅に拡大し事務局を設ける必要が生じ、それに伴って専任の教師や事務員を相当人数雇わざるをえなくなっていった。
この石田の外国人向け日本語学校は、人種の坩堝となっていた当時の上海の姿を象徴するかのように、最盛時には三十四カ国にもわたる外国人生徒約五百名を有するほどの規模にまで発展した。石田は若くて有能なオランダ人女性秘書を雇い、対外的な交渉や業務上必要な直接的身辺管理は彼女に任せるようになった。新たに雇用した教師たちもそれぞれに個性的で能力も優れていたが、その中の一人に当時五歳の男の子をもつなかなかに知的で美しい女性がいた。母親が出勤するときにはその幼い子供も一緒にやってくることが多かった。可愛らしい顔をしたその男の子は石田にとてもなつき、「石田のおじちゃん、石田のおじちゃん」と言いながらいつも彼のことを父親のように慕い続けた。石田のほうも我が子のようにその男の子を可愛がった。
その幼い男の子の名前はミッキー・カーチス、のちに日本でロカビリー歌手として登場し一世を風靡したあのミッキー・カーチスにほかならない。ちなみに述べておくと、石田がかつて見せてくれたアルバムには、その頃の幼いミッキーの写真や二十代の頃ギター片手に大々的にデビューした見るからにハンサムでスマートな青年ロック歌手ミッキー・カーチスの写真なども貼られていた。
日本語学校の望外の成功によって石田は人も羨むような多額の事業利益を得るようになった。しかしながら、彼はその収益を蓄財し必要以上に財力をつけるつもりなど毛頭なかった。そもそも、そんな成功がいつまでも続くだろうなどとも考えていなかった。蓄財欲と飽くなき事業拡大欲にはほとんど無縁であったところをみると、もともと彼は事業家向きの人間ではなかったのだろうし、また事業家としての自分の能力の限界というものをはじめから熟知もしていたのでもあろう。
あの奉天郊外の夜のコウリャン畑で孤独地獄を体験してからというもの、彼は人間というものが自分一人の力だけでこの世を生きることなど不可能なことを痛感していた。そしてそれ以来、大連での銀行勤めのときもそうであったように、万事においてなるべく多くの人々と生きる喜びを分かち合うことができるように心がけてきた。だから彼はまず、雇っている教師や秘書、事務員などの給与のアップやその他の労働条件の向上をはかった。さらにまた、少しでもそれらスタッフの生活の向上につながるような福利厚生面になるべくお金を使うように心がけた。スタッフの給与は能力給にしたが、それは彼が大連でナショナル・シティバンクに勤務し、押し掛け就職にもかかわらず自らの能力を高く評価してもらい、日本本土では考えられないような高給を支給されるよになった経験があったからだった。
雇用条件がよければスタッフたちも労を厭わず気持ちよく働いてくれるから、それがまた通ってくる生徒たちに好印象をもたらし、評判が評判を呼んで石田の日本語学校はますます繁栄の一途をたどった。教務のほうはすべてスタッフに任せ、自らは学校の経営に専念することも可能ではあったが、彼は教壇に立ち生徒たちと直に接することをけっしてやめようとはしなかった。また、もともと無料で日本語を教えようと思い立ったのが学校盛況の発端となった経緯などもあったから、授業料未払いの生徒があっても別にそれを責めたり厳しく取り立てたりするようなこともしなかった。
石田自らが担当するクラスにユダヤ人の女の子が通ってきていた。ある時、たまたま必要があって彼女の名前を呼ぶとその子はなぜかすぐには反応を示さなかった。三度ほど繰り返し名前を呼んだところでその女の子は慌て戸惑ったように反応し立ち上がったが、その様子から、その女の子がもともと生徒として氏名登録されている女の子とはどことなく違っていることに石田は初めて気がついた。瓜二つの双子の姉妹が授業料節約のため一人分の入学手続きをしたうえで交互に教室に通ってきていたというわけなのだったが、その裏事情が判っても彼は素知らぬ顔で騙された振りをし続けた。べつに姉妹の一人のほうを無料にしてやっても構わなかったが、そうすると他の生徒との公平さを欠くことになるし、当人たちもかえって周囲に対してバツが悪くなり学校に通ってきづらくなるだろうと考えたからだった。他の生徒に較べ半分くらいしか授業を受けていないわけだから、結局彼女たちのほうにだってそれなりの苦労があるに違いないと感じたのも、それを黙認した理由のひとつだった。
上海という特別な社会の中における望外の成功で得た利益は同じ上海社会の中へと還流させるのが最善だと確信した石田は、まっとうな事業家なら設備投資や運営資金用貯蓄、さらには事業拡大費へとまわすはずの余剰資金を、上海市内における各種文化活動の支援や歓楽街での遊行のために惜しげもなく使いまくった。もともと零からの出発だったのだから、再び零に戻っても悔いはないし、そうなったらそうなったでまたなんとか生きていくさ、という開き直りに近い思いがいっぽうにあったことも事実だった。まるで中国禅宗六租慧能の「人間もともと無一物」という有名な言葉に導かれでもするかのようなその日々の振舞いのゆえに、いつしか彼は上海社交界の名士としての地位を手にするようになっていた。
Ishida Language School の校長兼経営者として名声を馳せるようになった石田の噂を、同じ上海のどこかに住んでいるはずのナーシャが耳にしている可能性は皆無ではないと思われた。石田の胸中にも、それを知ったナーシャからなんらかの方法で連絡があるかもしれないという淡い期待のようなものがなくはなかった。しかし、結局、ナーシャに関する情報は何一つ得られるままいたずらに時は流れ、やがて訪れた新たな身辺の変化にともない、もはや彼女の面影を懐かしい想い出の一つとして記憶の一隅に留め置かざるをえない状況を迎えざるをえなくなったのだった。