横暴な憲兵たちに突然押しかけられ、彼らから一方的な訊問をうけたのはミサもおなじであった。しかも、ミサに対する憲兵らの追及は石田のそれにくらべてはるかに厳しいものであった。外資系のパレスホテルに勤務していたミサはそれだけでも様々な欧米人、なかでも米英人と接したり一緒に仕事をしたりする機会が多かった。また、「当時ミサには星の数ほどボーイフレンドがいた」という石田の言葉通り親交のある欧米人はすくなくなかったし、さたには、おなじ欧米人でもそれなりの要職にある人物やその家族がほとんどだった。知的で英語やフランス語も堪能だった彼女にすれば、そんな欧米人たちと政治的な問題や国際情勢などについて会話を交わすことなど日常茶飯事でもあった。
だが、当然、ミサのそんな型破りの行動と自由奔放な生活ぶりは憲兵隊によって徹底的にマークされるところとなった。ミサの勤務中、パレスホテルに数人の憲兵がずかずかと乗り込んできたのは石田が日本語学校を強制閉鎖させられてから間もない日のことであった。彼らはまずホテルの支配人を呼びつけ、ミサがホテルの奥で仕事中であることを確認すると、すぐに彼女をフロント・ロビーに連れてくるように命令した。
呼び出し要請に応じてミサがフロント・ロビーに出向くと、軍服に身を固め居丈高に立ち並ぶ男たちの姿が目にとまった。彼らの姿を一目見ただけで彼女にはそれが憲兵隊員であることがすぐわかった。石田が日本語学校を閉鎖させられたことを知った時点で、ミサは遅かれ早かれ自分のところにも憲兵がやってくるだろうと予想していた。心の準備のできていた彼女は毅然とした態度で憲兵たちの前に立った。それでなくても男勝りで気性の激しい彼女が、かすかな微笑を湛えながら凛然と佇む姿はヴィーナスかなにかの再来を想わせるほどに美しかった。
ミサは憲兵らに軽く会釈をし終えると、相手の顔を見すえ、鄭重な口調のなかにも敢然とした響きを込めて話しかけた。
「私に何かご用でございましょうか。お呼びだということですので参りましたのですが?」
その堂々とした態度と類なき美貌とに一瞬圧倒された憲兵たちは、沈黙したまましばしその場に釘付けになった。そして、それから、あらためて気を取り直しでもしたかもように、一番の責任者と思われる一人が口を開いた。その男の口から飛び出したのはなんとも唐突な一言だった。
「お前をスパイ容疑で逮捕する!」
我が耳を疑うかのように心中深くでその言葉を反芻したあと、ミサは逆に問いかけた。
「どういう根拠で私がスパイ罪を犯したとおっしゃるのですか?……また、いったいどのようなスパイを働いたとおっしゃるのですか?」
「お前はいろいろなアメリカ人やイギリス人と交際し、我が国の重要な情報を流しただろう!」
「私はこのホテルで働いていますから確かに外国人とのお付き合いはありますし、上海にやってきて以来親しくなった様々な外国人の友人や知人もいます。でも、だからといって、どうして私がスパイだということになるんですか。そもそも私は日本の軍事機密などなにひとつ存じませんよ!」
すると相手の憲兵は、ミサがかねがね顔見知りである二、三の日本軍幹部の存在をそれとなく臭わせでもするかのような口振りで憎々しげに言った。
「お前はそれとなく重要な軍事情報をあの方々から入手できる立場にある。あの方々はお前がスパイだなんてまったくご存知ないから、つい油断していろいろ大切な話などをなさる可能性があるんだ。お前はそれを米英人に流しているんだろう!」
「冗談もいい加減にしてくださいよ。どんな情報を誰に私が流したというんです。それに、あなたのおっしゃるその方々とは、いったいどなたとどなたのことなんですか?」
「……」
ミサの鋭い逆襲に憲兵たちは互いに目配せしならが一瞬口ごもり、おおっぴらに軍幹部の名前をあげることを躊躇った。憲兵たちにしてもなんの確証もなくそれらの人物の名前を口にはできない弱みがあった。下手にそんなことをし、それが問題の人物たちに伝われば逆に自分たちの立場が危なくなるおそれがあったからだった。
「まったく身におぼえのない嫌疑をかけられたのでは私だってたまったものじゃありませんわ。私が女だからって舐めてかかるはやめていただけませんでしょうか!」
鄭重ななかにも厳しい響きのこもったミサの追撃に、相手は思わず低く呟くような口調で言った。
「この売女(ばいた)めが……。もっともらしい口をききやがって……」
「売女とはなんですか。仕事柄もあってお付き合いしている男性は確かにいろいろとございますけれど、あなたがたから売女などと軽蔑呼ばわりされるようなことをやっている覚えはまったくございません」
「こんな時世に毛唐野郎と付き合っている女なんて、それだけでも国賊ものの売女だろうが!……違うかあ?」
「そうだ!……お前のような国賊売女を懲罰するのも我々の任務なんだぞ!」
部下の憲兵の一人が相槌を打つようにそう口を挟んだ。
「私はスパイだの国賊だのと責められるようなことはいっさい致しておりません。それに、私のことを売女などとおっしゃるなら、中国人や一部日本人婦女子に対して平気で強姦をおこなったり暴行をはたらいているあなたがた軍人のほうだって野獣集団なんじゃじゃありませんか!」
あくまでも毅然としたそんな彼女の態度に業を煮やした相手は、ついに半ば叫ぶような調子で宣告した。
「帝国軍人に対してなんたる侮蔑……おまえを連行して徹底的に調べればスパイであることはすぐにわかることなんだ!、これから即刻憲兵隊本部におまえを連行する!」
「やましいことなどなにもやっていないんですから、あながたたに連行されるつもりはありません。私がスパイを働いたという証拠がどこにあるというんですか。なんの証拠ないじゃありませんか!、それに、誇り高い帝国軍人だとおっしゃるなら、もっと人間としての品格とというものを大切になさったらどうなんですか!……とにかく、もう私は仕事に戻ります」
当時の状況からして、素直に連行に応じれば、第三者の目がないのをよいことに身におぼえのない自白調書を捏造されたり、拷問にさらされたり、強姦や暴行をうけたりすることは目に見えていた。そんな事態になるくらいなら、女の意地にかけて自ら命を絶ったほうがまだしもましだと思ったミサは、その時すでにとこととん抵抗する覚悟を決めていた。
「逃げようたってそうはいかないんだ!……そこを一歩でも動いてみろ、容赦なくお前を撃ち殺すぞ、いいか!」
そう言いながら、相手の憲兵は腰から短銃を抜き取り、威嚇するようにその銃口をミサのほうに向けると、すぐさま彼女を拘束するよう顎で部下の男たちを促し動かそうとした。だが、それはまさに彼女が待っていた瞬間でもあった。ミサは短銃を構える憲兵のほうにすばやく近づくと、その銃口に自らその胸をぴたりと寄せ、相手の両眼を見すえて叫んだ。
「あなたの名前と所属をきちんと名乗りなさい。そして私がスパイだと確信があるならこの場で即刻射ち殺しなさい。それから、かねがね私をご存知の軍幹部の方々に、スパイ容疑で私を射殺したと報告しなさい。さあ、おやりなさい、あなたがたが正しいというなら、まわりの人も大勢見ているこの場で堂々と私を射殺しなさい。そのつもりで短銃を抜いたんでしょう!」
先刻からの騒ぎを聞きつけてホテルのロビーに集まった人々は、憲兵たちとミサとを遠巻きに取り囲み、その成り行きハラハラしながら見守っていた。日本人と中国人と欧米人との入り混じったその人々にも聞こえるように、彼女はいっそう挑発の度を強めながらさらに叫んだ。
「射ち殺しなさいよ!、そうでないと、私はあなたがたのこの不当な行為を軍幹部に報告しますよ!」
そう啖呵を切ったあとしばし無言の睨み合いが続いたが、ミサの思いがけない抵抗に相手はいささかたじろいでいる感じだった。怒り心頭に達した相手が発砲するかもしれないことを覚悟で胸元に突きつけられた銃口を見下ろす彼女の目には、かすかだがその筒先が小刻みに震えているのが見てとれた。
これだけ人目のあるなかでミサを射殺などしたら、彼女が懇意にしている軍幹部らにまで克明な情況報告がいくことは間違いないなかった。そもそも、そんなことをしたりしたらホテル側だって黙っているはずがなかった。そうなれば、彼ら憲兵の身だってそのままではすまないだろうことは明白だった。まただからといって、命がけでこれだけ毅然と無実を主張されたあととなっては、彼女を連行し密室状態のもとで不当かつ不正な調書を捏造するという姑息な手段に訴えるわけにもいかなかった。いまさら彼女を拘束してみても一連の事の次第が問題の軍幹部たちに伝わることは目に見えていた。
のるかそるかのミサの大博打は結局のところ効を奏した。苦々しい表情を浮かべ、彼女の顔を睨みつけながらもその憲兵は短銃をおもむろに鞘に収めた。そして、なんとかその場を取り繕い、ホテルから引き揚げる苦し紛れの理由づけでもするかのように、
「国際的なホテルの中のことでもあり、お客にも迷惑がかかるから今回は引下るが、今後また怪しい行動を取るようなことがあれば、断じて許さないからそのつもりでいろよ!、かねがね気の強い女だとは聞いていたが、それにしてもこれほどとはなあ……」と捨て台詞を吐くと、いかにもいまいましげな様子を全身に漂わせながら部下とともに立ち去っていった。
その後は、ミサのほうも、一人でいるところを急襲され拘束連行されたりすることのないように慎重に行動するよう心がけた。その甲斐あってか、それともミサの気性の激しさに圧倒されてか、幸いにも再び憲兵らが彼女の前に立ち現れるようなことはなかった。
石田翁が他界する一年ほど前のこと、たまたま高齢のミサさんに直接お会いし、当時の情況について詳しく聞く機会があったのだが、その時の話によると、パレスホテルでの憲兵との間のやりとりは、実際、女の意地を賭けた生死五分五分の大博打であったという。銃を突きつける相手の手に力がこもるのを何度も感じながら、その度ごとに、内心では今度こそ撃ち殺されるなという思いに襲われ、激しく緊張する有様だったのだそうである。