人間の運命とはなんとも不思議なものである。コーリャン畑の一件があってからほどなくして、その後の人生を大きく変える千載一遇のチャンスが石田の身に訪れた。香具師まがいの仕事をこのまま続けていても埒があかないと思った彼が、たまたまもうすこしましな仕事はないものかと摸索し始めた時のことでもあった。仕事を手伝うという条件で同行してきた香具師の男への義理だてもある程度はすんでいたので、新たな働き口を探してもほぼ問題ない状況になっていたことも幸いした。
ある日石田がなにげなく新聞に目を通していると、たまたま、「英語の堪能な日本人青年を求む」という求人広告が目にとまった。しかもその広告主は当時アメリカでも屈指の大銀行として知られていた「National City Bank of New York」の大連支店であった。その頃大連の人々の間では、この銀行は「花旗銀行」という別称で呼ばれていたという。日中間ではすでに戦争状態が続いていたが、まだ日本とアメリカとは開戦していない時期のことだったので、日本の支配下にあった大連などには、欧米の一流銀行の支店が置かれ、取り引き業務が遂行されていた。
正直なところ、外国銀行の業務に支障なく対応できるほど英語に通じているなどとは思ってもいなかった。ただ、旧制高校で英語とフランス語の基礎学習は一通り積んできていたし、氷川丸のタリーマンとして時には英文表記の船荷証券などを扱ったりもしてきていたから、時間をもらえればなんとかなるかなという自信はあった。それに、もともと語学そのものが嫌いではかったことも、彼が大胆な振舞いにでる一因とはなった。
この際多少図々しくてもやむをえないと開き直った彼は、一世一代の大芝居に打って出ることを決意した。石田らしいと言ってしまえばそれまでだが、なんとも呆れたことに、彼は、日中戦争激化の余波で青島から強制疎開させられてしまった自らの立場を大胆かつ巧妙に利用することを思いついたのであった。
それからほどなく彼は花旗銀行、すなわち、ナショナル・シティ・バンクに電話をかけた。時代の流れもあって当時の同銀行大連支店は日本人の個人顧客や日本関係企業相手の業務が主になってきていたから、電話に出た相手はごく普通の日本語で応じてくれた。
「はい、こちらはナショナル・シティ・バンクでございますが……」
「突然のお電話で申し訳ありません。私は青島避難民団の委員長を務める大川と申します。少々お願いしたい儀がございましてお電話を差し上げたのですが……」
石田は意図的に声のトーンを変えながらすました口調でそう告げた。そもそも青島避難民団などというものがはっきりした形で存在しているかどうかさえ定かでなかったし、たとえそのような民団組織あったとしてもその委員長が大川などという人物であろうはずなどなかったが、彼はあくまでも平静を装ってそう名乗った。
「そうでいらっしゃいますか。それでどのようなご用件でございましょうか」
相手の女性の対応はあくまでも鄭重そのもので、石田が一芝居うっていることなどにはまるで気がついていない様子だった。
「求人広告を拝見したのですが、そちら様では現在英語に堪能な日本人青年をお探しでいらしゃいますよね?」
「ええ、たしかに英語に堪能な日本人青年を募集中ではございますが……」
「それで、もうどなたかお決まりでございましょうか?」
「少々お待ちくださいませ。担当者に状況を確認致してみますので」
そう言って相手はしばし電話口を離れた。石田は内心でまだ採用者が確定していないことを祈りながら、再び電話から声が流れるのをじっと待ち続けた。
「お待たせ致しました。まだ採用確定者はいないようでございますが……、それで、何かお訊ねの儀でも?」
石田はここぞとばかりに蛮勇を奮い立たせて切り込んだ。
「実は、私どもの青島避難民団に優秀な青年がおりましてね。石田達夫君というのですが、彼をそちら様にご紹介申し上げたいと思いましてね。青島から強制退去させられ大連に移ってきたのですが、急なことでこちらではなかなかこれといった仕事がみつからず彼も困っていたところでございまして……。ところが折よくそちら様の求人広告が目にとまったものですから、是非私からも彼を推薦申し上げたいと考えましてね」
「さようでございますか……。上司にその旨を伝えてみますので、いましばらくそのままお待ちくださいませ」
「よろしくお願い致します」
しばらく電話が途切れたあと、再び先刻の女性の声が響いてきた。
「お待たせ致しました。では大川様、その石田さんとかおっしゃるお方に当銀行まで面接試験を受けにお出でになるようにお伝え下さいませんでしょうか。一応、履歴書なども用意くださったうえでお願い致します」
「有難うございます。石田君もとても喜ぶと思います。現段階では彼の英語の実力はきわめて堪能といえるほどではないようなのですが、読み書きの基礎はしっかり身につけているようですので、多少時間を頂戴できればそれなりには能力を発揮するようになるだろうと思います」
「わかりました。面接にあたる上司がどう判断するかはわかりませんが、その旨は伝えておきますので……。ともかく、明日面接にお出でくださるように申し上げておいてください」
「特別なご配慮を賜わり感謝に堪えません。では当人にそのように伝えておきますので、宜しくお願い致します。突然不躾なお願いを致したりして、大変申し訳ありませんでした」
「いいえ、どう致しまして……」
相手がそう言い終わるのを待って、石田はそっと受話器をおろした。そして、なんとか破綻なく一芝居を演じ終えられたことにほっとしながら、本来の自分に向かって「それでは石田君、明日はナショナル・シティ・バンクに面接に行ってきたまえ!」と自嘲気味に呟きかけた。もちろん、そのあと翌日の面接に備えて対応策を練りはしたが、実際の面接となると誤魔化しがきかないだけに小手先の小細工が効を奏するかどうかは大いに疑問で、さすがの彼にも確信はもてなかった。ただ、裏を返せば、そこまで策を弄せざるをえなかったのは、「どうしてもこの際シティ・バンクに採用してもらいたい。このチャンスを逸したらもう二度とこのような機会に恵まれることはない」という切羽詰まった思いのなによりの証でもあった。
翌日石田は面接を受けるためにインターナショナル・シティ・バンクに出向いた。インフォメーションの担当者は女性だったが、幸いなことに、声の調子から判断するかぎり前日に電話で応対してくれた人物とは異なっているようだった。
「私は石田達夫と申しまして、昨日、青島避難民団委員長の大川様の仲介があってこちらの銀行に面接に伺うようになった者でございますが……」
内心の緊張を抑えながら、彼は相手にそう来意を告げた。さすがに心の片隅にはうしろめたい思いが残りはしが、事ここに至っては運を天に任せて開き直るしかなかった。
「当社の行員採用面接でございますか?」
「ええ、そうです。大川様の強いご推薦がございまして……」
ご推薦もへったくれもあったものではなかったが、自らが描いた筋立てにのっとって有能かつ実直な青年を演じきるしかもはや道は残されていなかった。
「わかりました。少々お待ち下さいませ」
とくに訝しがる様子もなくオフィスの奥へと引っ込んだその女性は、ほどなく再び姿を現すと、にこやかな表情を見せながら石田をオフィスの中へと案内した。第一段階はまずもって彼の計算通りの展開となった。
面接に応じてくれたのはアメリカ人の支店長で、その脇に通訳担当の日本人男性が坐っていた。正直なところ、内心ハラハラしていた石田は、その通訳が女性ではないことを知ってすくなからず胸を撫で下ろした。むろん彼がもっとも惧れていたのは、前日電話を受けてくれた女性が現れ、自作自演の茶番劇の舞台裏が見えみえになってしまうことだった。前日の電話では声のトーンと口調を意図的に変えていたとはいえ、絶対にバレないという保証はなかった。
面接が行なわれたのは応接間のような特別な個室においてではなく、行員たちが通常業務を遂行しているフロアの一角においてであった。そんなわけだったから、面接の様子は仕事中の行員たちにもほぼ筒抜け状態であった。面接が始まる前、さりげなく石田は行員たちのほうに視線を送った。海外の銀行とあってか行員のほとんどは外国人で、日本人らしい行員の姿はごく少数のようであった。フロアのずっと奥のほうに先刻のインフォメーション担当の女性とは違う日本人とおぼしき女性の影が見えたが、それが前日電話で応対してくれた人物であるかどうかは確認のしようもなかった。
ただ、たとえその女性が同一人物であったとしても、彼女の坐るデスクは自分のいる場所から相当離れたところに位置していたので、そう慌てることはないとも考えた。面接を受けている最中にいくらか自分の声が漏れ響くようなことがあったとしても、そのことだけから前日来の茶番劇の裏事情が発覚してしまう可能性はほとんどないだろうと思われたからだった。
面接の冒頭で、アメリカ人支店長は、前日に青島避難民団委員長の大川という人から推薦のあった石田達夫という日本人青年はあなたのことかと確認はしてきたが、青島避難民団や大川なる人物などについてそれ以上詳しく訊ねてくることはなかった。相手がアメリカ人で、日本人社会の事情に疎かったことなどもそれなりに幸いした。もしも面接担当者が日本人で、中国の日本人社会の動向に通じていたとすれば、青島避難民団なるものの実態や大川なる人物との関係などを詳細に訊ねられたりし、そうこうするうちにしろどもどろになっていたかもしれなかった。アメリカ人支店長にすれば、面接対象となっている人物の日本人としての社会背景などどうでもよく、その実務能力と本質的な人物評価にしか当面の関心がなかったから、その点は石田にとってなんとも有り難いことだった。おまけにこの日はたまたま、彼にとってツキのある十三日の金曜日でもあったのだった。