ある奇人の生涯

25. 岩上の恋

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

外界から完全に隔絶された時空のもたらす静寂に見守られるようにして、二人は長いながい抱擁を交し合った。そのあと、いったんその抱擁の手をゆるめると、手に手をとって先刻まで横になっていた岩陰へと引き返した。再びその場所に戻ると、無言のまま、またじっと互いの顔を見詰め合い、全身が甘く切なくしびれるような抱擁をもう一度繰り返した。そしてそれが終わると、どちらからともなく崩れ落ちるようにして岩の褥(しとね)に身を横たえた。二人の間にはもうそれ以上お互いの気持ちを確認し合う言葉など不要だった。時間が止まり、彼らを包み込む大気は、「二人だけの孤独」の世界を演出するために他者の侵入をいっさい許さない透明なバリヤーと化した。

恥じらいの翳をどこかに残しながらそっと目をつむって身を寄せるナーシャの胸に、石田はこのうえなく優しくその指先を伸ばしやった。優しくはあったが、その指先にはまた男という動物の性(さが)のもたらす欲望のすべてが凝縮もされていた。水着の下の弾力のある膨らみのすこし尖った頂きに指先が達した瞬間、彼女は歓喜とも慄(おののき)きともつかない小さな声をあげると反射的に身をよじらせた。それを目にしてより激しく本能を煽られた彼の指は、彼女の身体の動きに遅れじと素早く動いて、執拗に二つの胸の膨らみを追いかけ、さらにはそのしなやかな肢体の奥深いところに隠された命の泉へと迫ろうとした。おのれの滾る欲望のゆえなのか、逃げると見かせて巧みに誘い惑わす妖精の幻術のゆえなか、それとも古来男女の間に宿命づけられてきた暗黙の儀式性のゆえなのか、もはや当の石田にもよくはわからないままにそんなイタチゴッコがしばらく繰り広げられた。

お互いの動物的本能を煽り高め合うようなそのイタチゴッコの決着を求めて、ついに石田の手がまだ誰にも知られていないナーシャの命の源泉に辿り着いた瞬間、彼女は言葉にならない声を上げ、もはやこれまでと観念したかのようにひときわ大きく身悶えした。そして、自らの聖域のすべてを空け渡すかのようにその身体の動きを止めた。石田はそんな彼女の濡れた水着を小刻みに震える手でそっと脱がすと、すぐに自らも生まれた時のままの姿になって半身を起こし、彼女の身体をいたわるように抱き寄せた。その白く引き締まった裸体は眩いばかりに美しかった。すっかり上気したナーシャの身体から伝わってくる温もりを愛おしさともやるせなさともつかぬ気持ちで受けとめながら、石田は、一瞬、これから行なおうとしているおのれの行為の重さとその業の深さを想った。

まだどこかに固さを残してピンと張り立つ両の乳房は、熟れようとしてなお自らの力では熟れきれずにいる思春期の少女に特有な至純さと危うさとをそなえていた。石田はその乳房の頂点にある輝くようなピンクの突起にそっと唇と舌先をあて、それを優しく吸い寄せた。そして二人は互いの身体を半ば重ね合うようにして還り道のない陶酔の世界へと崩れ落ちていった。

少女への訣別の瞬間のもたらす心身の不思議な興奮と、そのために避けることのできない痛みとの交錯するなかで、ナーシャは心から愛する石田の腕に深々と抱かれ、そしてついに一人の女へと脱皮した。石田はそんなナーシャを優しくしかしどこまでも狂おしく愛撫し、体内から突き上げてくるような随喜の末に果て去った。

美しい蝶と化したナーシャは、脱皮の痛みなどすこしも感じてはいなかったかのように、何度も何度も抱擁と愛撫のかぎりを求めてきた。まるでそれは明日にも石田がこの世からいなくなってしまうとでも思っているかのような激しさだった。その哀願にも似た熱い誘いにいまさら抗するすべなどあろうはずもなく、忘我の淵に深く身を託した石田は、いつしか一匹の野獣となりはて、弾むような美獣の肉体の生み出す歓喜と幻夢とを嬉々として貪り喰った。

いっぽうのナーシャも、そんな石田の灼熱しきった命の化身を体内深くに呑み込みながら、先刻まで清純な少女だったとは想われぬほどの妖艶さで、絶頂にあって陶酔する相手の呻きに共鳴した。どんなに歓喜の声をあげどんなに悶え狂おうと、誰かに漏れ聞かれたり覗き見られたりする心配はなかった。岩の褥をべつにすれば、何から何までが、二人の織りなす究極の生命のドラマとその舞台とに相応しかった。いや、岩の褥さえも二人には温かくそしてこのうえなく柔らかものに感じられた。

もう明日はないとでも言わんばかりの激しさで妖しく挑みかかるナーシャの姿は、まるで、若い石田の盛り立つ命の証を一滴も残さずに吸い尽くしてしまおうとしているかのようであった。いつしか攻守が逆転し、相手の攻勢に圧倒され翻弄されるばかりになった彼は、一匹の獣としての誇りも抗うすべも忘れて束の間の至福と悦楽に酔い痴れ、そして快い疲労の底へと沈み込んだ。

すべてを尽した愛の戦いを終えて放心しきった二人は、脱力しきった互いの身をそのまま寄せ合うようにして静かに目をつむった。その有様は、命を賭してどこまでも急流を遡上し、産卵のための交尾を終えて力尽き流れに漂う雌雄二尾の鮭の姿をも彷彿とさせた。ただ、鮭のそれと明らかに違うのは、この恋がまだ始まったばかりだということであった。燃え盛る二つの心と心の、さらにはその肉体と肉体の慄き撼えるような交接がまだこれからも幾度となく繰り返されるだろうことを遠のく意識の中で想いつつ、石田は深いふかい眠りへと陥った。

二人が目覚めた時、すでに太陽は大きく西空に傾き、刻々とその赤味を増していくところだった。爽やかな風が小島の上を吹き抜けはじめ、裸体のままで横たわっている彼らにとっては涼しすぎるくらいであった。ずいぶんと時間が経ってしまったことに気づいた石田は、いつにもなく慌てた様子でナーシャを促した。

「ナーシャ、眠っているうちにすっかり日が傾いちゃったみたいだよ。急いで帰らなきゃ!」
「そうみたいね。でも夏の日脚は長いから気にすることはないわよ、石田……」

意外にも、彼女のほうはとりたてて慌てた様子もなくそう答えた。

「でも、あまり帰りが遅いと、ナシャーのお父さんやお母さんだって心配するんじゃないのかい?」
「大丈夫よ。父と母は早急に片付けなければならない用事があるとかで出かけていて、今日は帰りが遅くなるって言っていたわ。両親には石田と一緒にのんびりと海水浴してくるって伝えてもあるし、二人とも石田のことは信用してるから……」

ナーシャにそう言われた石田は一瞬言葉に窮した。すると、彼女はそんな彼の複雑な胸中を察するかのように言葉を繋いだ。

「いいのよ、石田、そんなことなんか全然気にしないでね。両親には関係ないことなんだもの……、これって私と石田の二人だけの問題なんだから!」
「……」

なおも返事に戸惑う彼の顔をどこか憂いを含んだ表情でじっと見つめると、心底哀願するように彼女は言った。 

「それよりもお願い、石田、帰る前にもう一度だけ抱いて……」
「それはいいんだけど、でもナーシャ、いくらなんでももうこの時間だから……。それに、これからだってまたいつでも会えるわけなんだし……」

六歳年上の大人としての分別を示すつもりで石田はそう諭しかけた。するとナーシャはちょっとだけ微笑みを浮かべ、甘えるような仕草で軽く首を振りながら、

「今日は今日、明日は明日……だから、今日できることは今日のうちにしておいたほうがいいってことだってあるでしょ?」と言った。そして、石田の身体にもたれかかりながらその胸に深々とその愛くるしい顔を埋めた。

再び湧き上がった激情が石田の全身を瞬時に貫き、またもや彼の理性のすべてを解体させた。抑制という名の呪縛から解き放たれ、先刻にもまして本能の権化と変じ果てた彼は、夏の夕日を背にしながら狂ったかのようにひたすら彼女を抱き求めた。奇妙なことではあったのだが、その肉体を強く抱きとどめようとすればするほどに、そしてその魂を懸命に追い求めようとすればするほどに、愛おしいナーシャの心身がまるで実体のない虚像のような存在と化し、どこか遠くへ逃げ失せてしまいそうな思いがしてならなかった。それでもなお石田は、ナーシャという存在の確たる証を手に入れたいと願うがごとくに、彼女の身体を激しく愛撫し続けた。それに応じるナーシャのほうもまた、石田への愛おしさが募れば募るほどに、切なく儚い思いへと駆られていくばかりだった。たぶんそれは、一時の快楽と昂揚をともなう「愛」という名の業深い営みに、古来例外なく宿命づけられてきた代償のようなものであったに違いない。

二人がそれぞれの水着を纏い帰途に着こうとする頃には、赤々と燃え立っていた夕陽も西方の山影に姿を隠し、西空一帯は黄昏色に染まっていた。小島の断崖の縁に立って下を眺めやると、ナーシャの言葉を裏付けるように、あれほど低いところにあった海面が大きく上昇し、眼下四、五メートルのところにまで達していた。先に立った石田が海面まで降りるルートのステップを探そうとすると、それを押し留めるようにナーシャは言った。

「石田、この崖の上から直接海に飛び込みましょうよ。ここにやって来た帰りにはいつも私そうしてるから!」
「えっ…・・大丈夫なの・・…ここから飛び込んでも?」
「すっかり潮が満ちてきたから大丈夫よ。ほら、すぐそこに岩棚が張り出したところあるでしょ、あの真下は深くなってるから飛び込んでも平気なの!」
「へえ、そうなんだ!……じゃ、そうしようか、そのほうが手っ取り早いから」
「どうせなら二人でしっかり抱き合ったままで飛び降りてみることにしない?」
「そりゃ、面白いかもね、折角のことだから……」

思いがけない彼女の誘いに一瞬躊躇いを覚えはしたが、とくに危険はないことを確認すると、彼はそう答えてその岩棚の端へと進んだ。そして、あとから来たナーシャと向かい合って立つと、しっかり抱き合ってもう一度だけキスを交わした。それから二人はそのままの態勢でしばし呼吸を整えると、一、二、三の掛け声とともに岩棚を蹴って空中に飛び出し、足先のほうから勢いよく海中に突入した。いったん水中に沈み再び海面に浮かぶ上がるまで二人はしっかりと抱き合ったままだった。

夕潮のなかをゆっくりと泳いで老虎灘の磯辺に戻ると、彼らは岩陰に置いてあったそれぞれの衣服入りの袋を手にし、水着姿のままで集落のほうへと歩きだした。ちょっとだけ身体が冷えはしたものの、堪えられないほどの寒さではなかった。肩を並べて家路に着いたが集落の入口近くに着くまでなぜかナーシャは無言だった。集落の入口に戻った二人は、周囲に人目がないことを確かめると、もう一度熱いキスを交わした。

海寄りの集落の入口からは石田の家のほうが近かった。自宅のすぐそばで来ると、石田はまだしばらく彼女と一緒にいたいという気持ちを抑えながら、ナーシャにとりあえず別れの言葉を囁きかけた。

「今日はどうも有難う、ほんとうに素敵な想い出ができたよ。また近いうちに会うことにしようね……。じゃ、今日のところはこれでね!」
「そうね、私もとても楽しかったわ。また、ゆっくり会えるといいわね……。石田もまた元気で頑張ってね……、じゃ、さよなら・・…」

ちょっと淋しげな笑顔を浮かべてそう言い残すと、ナーシャはこころもち足を速め、見送る石田を振り返ることもなく夕闇の中に消えていった。そんな彼女の目から二筋の涙が溢れ出し両の頬を濡らしていたなどとは、石田にはさらさら想いもよらぬことであった。

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