ある奇人の生涯

90. 記事になった「ロンドン今日この頃」

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

前年の1951年10月から、石田が担当する番組「ロンドン今日この頃」は、内外タイムス紙上において同タイトルの連載記事として掲載されるようになっていた。もちろん、石田達夫という署名入りの記事だった。第1回目の記事の冒頭には「BBCの日本語放送はわが国短波ファンの喜びの的となり、その視聴率は非常な勢いで増加しているが、殊に毎週土曜日に送られて来る石田達夫氏の『ロンドン今日この頃』は甚だ好評である。本紙は石田氏の放送内容からその要点を抜粋して、今後掲載してゆくこととした」という、連載開始にあたっての前文がつけられている。「野球を観たことがありますか?――ふるってるポスターの文句」という見出しのついたその第一回の掲載記事はイギリスにおける野球事情を紹介したものだった。

スポーツといえば、イギリス人は絶対に野球をやらないのを皆様御存知でしょう。何故やらないかと尋ねると、「クリケットがあるじゃないか」と誰でも答えます。勿論クリケットも野球もボールを棒で打って走って行くことには変りありませんが、規則の複雑なクリケットはとても私達には了解出来かねます。第一気の短い私なんかにはクリケットはスローモーで我慢できないゲームです。

しかしイギリス人はフットボールと同じようにクリケットにも夢中です。野球なんか野蛮人のゲームだという人さえあります。ちょっとした広場で子供達がボールを持って遊んでいるのを見ると、必ずクリケットです。しかし、今日地下鉄の駅の壁に貼ってある広告を眺めていましたら、その中に来週の土曜ホワイト・シティの競技場で催される野球の試合を紹介したポスターが掲示されていました。アメリカの空軍とイギリスの空軍の試合だそうです。

ポスターの文句がふるっています。まず大きく「あなたはベースボールを見たことがありますか」と書いてあって、その下に「ホット・ドッグとピーナッツとコカコーラのサービス付きです」と記した小さな文字が付け加えてあります。おやつ付きのサービスというわけです。観客の大部分が野球の規則などまったく知らない人達ばかりですから、この日はBBCのアナウンサーがラウド・スピーカーを手にして、ゲームの進行にそって細かな説明をつけることになっております。日本の皆様には想像もつかないようなお話ではありませんか。

さらにまた、ジョージ6世の崩御の20日ほど前にあたる1952年1月16日付けの記事では、「憧れの的――マーガレット王女――ふりまく近代的な溌剌さ」という見出しのもと、同王女のありのままの姿を紹介したりもした。

ジョージ6世陛下、エリザベス王妃、エリザベス王女、エディンバラ公のニュースは日本にもよく伝えられておりますから、今日はマーガレット王女のお話をお伝えしましょう。マーガレット王女は今年21歳になられますが、小柄でデリケートな一面をお持ちにもかかわらず、とても大胆かつ華やかな一面をおもちで、しかもこのうえなく優雅な雰囲気をおそなえの方でもあります。公の場所では至って静かで冷たい感じさえ受けるのですが、時に応じて近代的な若い娘らしい溌剌さを振りまかれることがあります。マーガレット王女の御召物は若い女性達の憧れの的になっています。そんな王女は、時々若い貴族たちと一緒に劇場やレストランなどに行かれ、突然舞台裏や厨房などをお訪ねになったりして思いがけない喜びや感激を英国民達にもたらされたりもします。

昨年11月王女がパリにお出かけになった時のことですが、パリに到着なさるやいなや、パリの人達はすぐさま「La Petite」というアダ名をつけたそうです。王女はパリ・ファッション界の帝王クリスチャン・ディオールのお店にお出かけになられましたが、その時の御召物はブドー色のヴェルヴェットのコートとそれにマッチした御帽子でした。マーガレット王女は秋の流行衣裳を御覧になりながら、金製のシガレット・ケースから煙草を一本取り出し、長い黒のシガレット・ホルダーに差して金のライターで点火なさったのだそうですが、その優雅な手つきにはパリの女性達も惚れぼれとするばかりだったということです。

また、前駐仏イギリス大使のサー・アルフレッド・ダフ・クーパー夫妻主催のパーティにおいでになられた時のことですが、午前一時半頃のこと、思いがけなくもマーガレット王女はグランド・ピアノのそばに進み出てピアノをお弾きになりました。他のお客達が皆王女の周りを取り巻くと、王女は自らピアノを弾きながら歌をお歌いになられました。イングランドの歌、スコットランドの歌、フランスの歌、ドイツやイタリアの歌と何曲も何曲もお歌いになられました。王女のピアノは素人離れしていてなんとも鮮やかなものだったそうです。歌のほうもなかなかのもので、ダイナショアーの歌い振りなどを真似なさると本物そっくりだとのことなのです。そんな王女の歌声はその場のお客達全員を大喜びさせもしました。

それから1時間ほど経った午前2時半、招待客達は皆コート姿で庭先に立ちました。すると夜空に向かって美しい花火が打ち上げらえました。そして午前3時になってようやくこのパーティは終わりました。王女の熱演などもあってよほど楽しいパーティだったのでしょう、神秘の女優と謳われるグレタ・ガルポでさえも一晩中手を叩いて笑い転げていたそうなのです。

イギリスの新聞はそんな王女のことをいちいちプリンセス・マーガレットと敬称を用いて書き表したりせず、親しみを込めてマーガレットと呼び捨てにしています。このマーガレットがアメリカのポップソングを自らピアノを弾きながら歌ってみせたなどという話を耳にすると、英国民は皆、それが自分の娘か親しい友達であるかのように感じ、彼女に対してこのうえない親愛の情を覚えもするのです。

マーガレット王女に関しては石田自身も直接にその様子を見聞きする機会が何度もあった。大劇場やコンサート・ホールなどに取材に出向いたりするとき、放送記者の特権ということもあって、石田はロイヤルボックスのすぐ近くに席をとることができた。そんな折などに王女の姿をすぐそばで目にすることもすくなくなかった。よほど公的な催物の場合でないかぎり、若いマーガレット王女は取り巻きのボーイフレンドとおぼしき2、3人の男性と一緒に来場し、自由気ままに会話を交わしながら演劇や音楽を楽しむのが普通のことになっていた。なんとも優雅で鮮やかな手つきを見せながら、長いホルダーに差し挟んだ煙草をくゆらす王女の様子を、石田はいつも微笑ましい面持ちで眺めやっていた。

若いマーガレットが、美貌と気品と抜群のファッション感覚、さらにはこのうえなく洗練されたその身振舞いで知られる英王室の名花、ケント公夫人の真似をしようとしているのは、石田の目にも明かなことだった。大人の国である英国民はそんな王女の姿を温かく見守りこそすれ、不謹慎であるとか見るに堪えないとかいって非難するようなことはなかった。個人の自由をとことん認めるイギリスにあっては、王子であろうと王女であろうと、一人の人間としての行動の自由を最大限に認められるのがごく当然のこととされていたから、別段驚くに値するようなことではなかった。しかし、日本人の石田にとってはある意味でそれは信じられなくもあり、また羨ましくもある光景だった。

ある盛大な催物がおこなわれた際、たまたまマーガレット王女の声が聴き取れるほど近い席にいた石田は、思わず吹き出しそうになってしまったことがあった。これからまさにイギリス国家が演奏されようとしているとき、王女は周囲の者に向かって、いささか飽きあきしたとでもいったような口調で、「あーあ、またパパのテーマソングが始まるわ!」と語りかけたからだった。もしもそれが日本だったらたちまち顰蹙をかうところであったろうが、たとえ王女であってもそんな人間的な一面を見せることの許されるお国柄に、石田はある種ほっとするものを覚えるのだった。タブロイド紙などが、あるときは面白可笑しく、またあるときは皮肉たっぷりに、またあるときは厳しく容赦なく王室のことを書きたてるのも、その背景の奥深いところに王室と国民とを対等につなぐ太い信頼の絆があるからなのだと、石田はあらためて確信もするのだった。

ジョージ6世の大葬がおこなわれた日から3日後の1952年2月28日付けの内外タイムズ掲載記事では、「涙で皇帝の御略伝放送――皇帝崩御・淋しいロンドンの姿」という見出しのもと、そんなイギリス王室への石田の深い想いなどが紹介された。「国王」でななく前時代の名残のような「皇帝」という表現を「ロンドン今日この頃」の放送の中で実際に石田がつかったものなのか、それとも内外タイムズ側の記者や編集者の判断でそうなったものなのかはともかく、そこには「皇帝」という重たい言葉の響きを補ってあまりある人々の切々とした心の内が語られもしていた。

今日この頃ほど淋しく悲しいロンドンの姿を見たことはありません。ロンドンの街がこれほどに沈みきってしまっているのは、もちろん、皇帝陛下がおなくなりになったからです。実際、私個人といたしましても、皇帝がなくなられたと聞いた直後にはさほどでもありませんでしたが、日が経つにつれて堪えられないほどに悲しく感じることがあるようになってきました。イギリス人でもない私が、イギリス皇帝の崩御を涙を流しながらほんとうに悲しんだといえば、「日本人としての十分な自覚がないからだろう」とか、「よほどイギリスかぶれしてしまってるのだろう」とかいう風に御考えになるかも知れませんが、決してそんな偽善的なものではないのです。

イギリスの皇室というのは、イギリス人であろうと外国人であろうとほんとうに心から親しみを感じさせるような皇室です。とくに私の場合などのように、「ロンドン今日この頃」においてしょっちゅう皇室の方々の御様子を御伝えしていますと、一人ひとりの御性質がよくわかっていますので、今の皇太后陛下の御悲しみや、まだ戴冠式こそ迎えておられませんが、エリザベス2世女王の複雑なお気持ちなどが手に取るようにわかるのです。

陛下がおなくなりになった日の翌日、私は皇帝の御略伝を放送致しましたが、原稿を目にするうちにどんどん涙が出てきてしまい、もう今にも原稿が読めなくなってしまうのではないかと思ったほどでした。ジョージ六世陛下のおなくなりになったのは2月6日水曜の朝のことでした。お昼の新聞号外には「KING DIES IN HIS SLEEP!」といった大見だしの速報記事が載り、ロンドンの人達に強い衝撃をもたらしました。全然予期していなかったからなのです。

これが去年の十月頃のことだったら、人々にこれほど大きな衝撃を与えはしなかったでしょう。あんなにも英国民を心配させた大手術も無事済んで、プリンセス・エリザベスと並んでの病後初の御写真が掲載されたときなどには皆心からその御回復を喜びました。それが突然このような悲しい事態になってしまったわけですから、国民の受けた衝撃はたいへんなものなのです。

石田の「ロンドン今日この頃」の放送番組で新聞記事化されたものの中には、お色気たっぷりの軽い内容のものなどもあった。「霧の夜の椋鳥」という見出し付きの記事などはそんな事例のひとつであった。

11月といえばロンドンもそろそろ霧の深くなる頃です。霧に包まれてその姿こそ見えませんが、トラファルガー広場の寺院や美術館の軒下あたりでは、何百羽という椋鳥が一晩中おしゃべりし続けております。その同じトラファルガー広場の一角にコーナ・ハウスというレストランがあります。夜中の12時を過ぎるとロンドン中の宿なし連中が、一杯のコーヒーをすするためどこからともなくこの店に集まってきます。霧の中の椋鳥たちと同じです。

日本からやってきた貿易商の私の知人が彼女に出逢ったのもそんな霧の夜のことでした。また17か18とおぼしき彼女は、小さなボストンバッグを1つ持って一人しょんぼりとヴィクトリア・ステーションの待合室に座っていました。お化粧っ気のない、まだどこかあどけないその顔が、強く彼の心を惹いたのでした。彼女が彼に話してくれたところによれば、「ロンドンの生活に憧れてサセックスの片田舎から家出してきたけれど、心細くなってきたからもう帰ることにした。でも列車の出る時間までにまだ3時間もあるから、こうしてぼんやりしているのだ」とのいうことなのでした。

冷たく妖しい霧の夜というものは、ふとした冒険心をそそりもするもののようです。彼は彼女をコーナーハウスに誘って、とりあえず温かいお茶を御馳走することにしました。騒々しい椋鳥たちのおしゃべり、淫売婦や俳優くずれ、へぼ絵描き、船乗り――そんな雑多な人間どもの集まりは、案外彼女の心を捉えたようでもありました。堅さのとれた彼女は、頬を紅くしながら彼にいろいろなことを話してもくれました。

気がついてみると、いつの間にか時刻は午前1時を過ぎ、列車の出発時刻に間に合うどころの騒ぎではなくなっていました。すると彼女は「かまわないわ」といいました。そしてさらに一言、「貴方のところに泊めていただくわ。私、ものすごく眠くなっちゃったの」と付け加えました。それから彼女はその柔らかい金髪を彼の肩に凭せ掛けてきたのです。彼は、翌日の朝のパンとバターの消費量を計算しながら、結局、「うん」といわざるを得ませんでした。その晩の夜霧は、彼の心に深い想い出を残してくれました。彼女の金髪は夜霧以上に濃やかなものでした。彼女の肌は若々しくそして艶やかそのものでした。

ところが、その翌朝目覚めてみると彼の部屋にはもう彼女の姿は見当りませんでした。部屋の中には彼女の小さなボストン・バッグだけが一つ、しょんぼりと残されていました。そしてそのかわりに、彼の大きなボストン・バッグと洋服類がごっそり姿を消してしまっていました。

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