ある奇人の生涯

124. 久々の海外渡航

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田がその本の中の詩文執筆に協力した谷内庸夫の作品集「紙彫刻・第二号」は、刊行からしばらくして、アメリカのある芸術書出版文化賞の最優秀賞を授与されることになった。そして、その授賞式に谷内と共に出席することを要請された石田は、もちろん喜んでその要請を受け入れ、アメリカへと渡ることになった。久々の海外渡航ではあったが、谷内夫妻のはからいもあってニューヨークやボストン周辺に長期滞在できることになっていたので、石田の心は弾んでいた。英国から帰国して以降は短期の海外旅行をする機会さえあまりなく、ましてや長期にわたって海外に逗留し英米人相手に生きた英語を使うチャンスなど皆無だったから、予想もしていなかったその招待はなんとも嬉しいかぎりであった。ニューヨークやボストンを訪問するのは二十年ぶりくらいのことだったし、その時はそれほど長く滞在したわけでもなかった。だから、それはまた、おなじ英語文化圏とはいってもイギリスのそれとはひと味もふた味も違うアメリカの文化をじっくりと体験するには絶好の機会でもあった。そのうえに、昨今の自分の年齢や日本での目下の生活ぶりを考えると、その渡米が海外渡航のラストチャンスなのではないかとも思われてならなかった。

谷内と石田は米国でのその授賞式において、二人の名をそれぞれに刻んだ記念品を授与された。記念品として授けられたのはずっしりとした手応えのある金属製の風変わりなオブジェであったが、それは帰国後、石田宅のリビングの棚にさりげなく、それでいてどこか誇らしげに並べ置かれ、目ざとい来客者たちの関心を惹くところとなった。波瀾に満ちたその生涯の中で、それは石田が最後に貰い受けた一種の勲章みたいなものであった。本物の勲章はもともと大嫌いだったし、またそんなものにはまるで無縁な人生を送ってきた彼ではあったが、形の見えない人生の勲章なら数々のものを手にしてきていた。その記念オブジェには、むろんしっかりとした形がそなわってはいたのだけれども、石田という人物の、見える人にしか見えない人生の勲章歴のフィナーレを飾るにはそれなりに相応しいものであったのかもしれない。

この渡米の折、石田翁は滞在先のボストンから、まだ知り合ってそう時間も経っていない私に、翁ならではの深慮の窺える一枚の葉書を書き送ってきた。その絵葉書は、いや、絵葉書まがいのその葉書はなんともこちらの意表を突いたしろものだった。翁一流のユーモアと諷刺の込められたその葉書を一見した途端、私は思わず吹き出してしまったのだった。白地の葉書の表側には私のアドレスと名前だけが記され、なんとその裏側は濃い灰色一色のみによって全面が塗りつぶされてしまっていた。そしてただ灰色を隈なく塗っただけのその面のほんの片隅に、「霧のボストンにて・石田」という短い言葉が手書きの英語でごく小さく表記されていたのである。

もちろん、この時も石田は谷内夫妻と一緒にニューヨークへと出向き、同市内に長期間滞在しながらさまざまな友人や知人らと再会して旧交を温めた。石田にとっては二十年ぶりのニューヨークだったが、一瞥したかぎりでは市街の様子は以前とほとんど変っていなかった。新築された高層ビルなども見うけられたが、全体的な雰囲気は昔のままで、チャイナ・タウンはなおチャイナ・タウンだったし、ブロードウエイはなおブロードウエイであった。このぶんだと、なにかと想い出のあるグリニッヂ・ヴィレッジの映画館も二十年前同様のたたずまいのまま残っているのではないかと考え、彼はその方面へと向かう地下鉄に乗り込んだ。ところが、地下鉄の駅や車内の様子は一変していた。かつてのニューヨークの地下鉄というと、駅の通路の壁や車内の各所はいたるところ落書きだらけで、ホームや階段には薄汚れた格好をし、見るからに目つきの悪い男たちがたむろしていたものだった。だが、その時はもう落書きや異様な風体の男たちの姿などはどこにも見当らず、乗客らの服装も清潔でこざっぱりしたものになっていた。

ワシントン・スクエアで下車した石田は、駅を出るとすぐにグリニッヂ・ヴィレッジへと向かった。すでにあたりには夕闇の迫りつつある時刻のことだった。かつてのグリニッヂ・ヴィレッジ一帯には、まだ芽の出ない芸術家や、名を成しはしたもののなお自由気ままに生きることを願う芸術家などが大勢住んでいた。ただ、時の流れとともにソホーの倉庫街に移り住む者が多くなってきたと聞いていたので、グリニッヂ・ヴィレッジのほうはかなりさびれてきているのだろうとも想像していた。だから、そんな自分の予想がはずれ、一帯はなお昔ながらの賑いを留めていると知った時、石田は小躍りしたいような気分になった。いくつかのレストランやナイトクラブなどもかつてのままの姿をとどめていたので自分の目指す映画館もまだ残っているかもしれないという思いを強くし、遠い記憶を辿りながら周辺をあちこちと探し歩いた。

お目当ての映画館が以前のままのたたずまいをもって再び眼前に現れた時、石田は言葉には現わし難い懐かしさと安堵感とを覚え、しばしその前に立ち尽くしたままだった。石田がその映画館にそれほどまでにこだわったのには、むろんそれなりの理由があった。二十年前偶然に立寄ったその映画館は、普通の映画館よりはずっと小さく、外観から想像するかぎり、客席数も二百足らずの何の変哲もないしろもののように思われた。だが、一歩中に足を踏み入れてみると、そこには予想とはまるで異なる空間が広がっていた。ロビーは実に広々としており、そのデザインも美観もなんとも素晴らしいものであった。ロビーには全身を優しくすっぽり包み込んでくれる造りの一人掛けソファーが二十脚ほど配置されており、ソファーの色も周囲の壁や床の絨毯の色も明るいグレイと濃いめのブルー・グレイに統一され、実に落ち着いた雰囲気に満ちみちていた。

観客席のほうにもただ見事としか言いようのないようなデザイン的配慮がほどこされていた。座席はすべてロビーのソファーと同じ色、同じ形になっており、ただ、場所をあまり取り過ぎないように肘掛の部分だけが木製になっていた。そして、なんといっても圧巻だったのはスクリーンの設置法の見事さだった。なんと、前方の大スクリーンを取り囲む舞台全体が巨大な額縁の役割を果すように立体的に演出設計されていた。しかもそのデザインには十分な工夫がほどこされており、クラシックな模様がモダンな感覚で巧みに色づけされているため、額縁全体の立体感がいっそう増して見える仕掛けになっていた。そして、そのとてつもなく大きな額縁に囲まれて白いスクリーンが存在しているというわけであった。二十年前、石田はこの映画館でホセ・ファーラーの「ムーラン・ルージュ」を観たのだが、その時彼は、大きな美術館で大きなロートレックの絵画を観ていたら突然その絵が動き出したみたいな錯覚を覚え、すくなからぬ衝撃を受けたのだった。

二十年後のその日、同じ映画館の前に立った石田の足は自然に切符売場のほうへと動いていった。そして何の映画を上映しているかも確認しないままに入場券を購入した。館内のロビーに入ると、ソファーのひとつに腰をおろし、それからおもむろに煙草に火をつけた。あたりを見回すとなにもかもが二十年前とほとんど変ってはいなかった。全体的にすこしばかり古びてきたのかなという感じはしたが、すぐにそんなことは気にならなくなってしまった。なんとも満ち足りた思いになり、ゆったりとした気分で煙草をくゆらししているうちに、彼はすっかり夢見心地になり、時が経つのを忘れてしまった。しばらくすると、短くなった煙草の火で指先が熱くなってきたので慌ててその火を消し止め、我に返ったようにようやくそのソファーから立ち上がった。それからちょっとだけ姿勢を整えるような仕草をすると、おもむろに観覧席のあるホールの入口へと向かっていった。

扉を開けて中に入った石田は、暗闇に目が慣れるのを待ってから、ホールの中ほどにある座席に腰をおろした。スクリーンから反射される薄明かりの中で目を凝らして周辺を見回すと、柔らかな座席の色も、スクリーンを囲む巨大な額縁もみな昔のままだった。再び落ち着きを取り戻した彼はスクリーン上に投射される映像を眺め始めたが、しばらくはいったいそれが何の映画なのかよくわからなかった。

やがて、なんとなく見覚えのあるどこかの都会の街路らしいものがスクリーン上に投影された。よくよく目を凝らして見るとそれはいま自分がやってきているニューヨークの街並みのようであった。スクリーンにはゆっくりとしたペースでさまざまな店舗やレストランが映し出されていき、やがて、ある普通の店舗とは異なる大きな建物が大きくアップされたところで映像の動きが止まった。次の瞬間、石田は思わず目を見張った。なんと、その映像中の建物は石田がいま中いる映画館そのものだったのだ。映画館の前を通行人が行き来している様子の映し出されたスクリーンを凝視していると、入口付近に一人の男が後姿を見せながら立っているのが目にとまった。そして、何気なく振り向いたその男の顔を見た途端、石田は思わず驚きの声を上げそうになった。なんと、それは自分自身の顔にほかならなかったからである。

――そんな馬鹿な!、自分はいまこの座席にこうして坐っているじゃないか……、でもスクリーン中の男の姿は二十分ほど前の自分のそれにほかならない!、いったいどうなってるんだろう?、誰かが先刻自分の姿をビデオにでも撮ってそれをいまわざわざこうして映写してるってわけなのか?……まさかそんなことあるわけがない!――石田はすっかりパニック状態に陥ってしまった。

スクリーンに映る男は入場券を買うと映画館の中へと入っていった。そして画面は館内のロビーの映像に切り換わり、そこのソファーのひとつに坐りながら煙草を吸う人物の姿が映し出された。その人物はしばらくすると煙草の火を消して客席ホールの扉のほうへと歩いていった。すると画面がホール内の通路端の映像へと切り変った。信じられないことに、その薄暗い通路に立つ人物もまた石田自身の姿そのものなのだった。なんとも珍妙な事態になったものだと思いながらも、現実の石田のほうはなおも眼前の大きなスクリーンを凝視し続けた。そうこうするうちに状況はますますややこしいことになってきた。スクリーンの中にはもうひとりの自分がいて、その自分が通路の一番うしろから同じ目の前のスクリーンを覗き込んでいるからだった。石田はまるで合わせ鏡の映像を見ているような気分になってきたのだが、合わせ鏡のそれと異なるのは、現実の自分と映像の中の自分との間にいささかのタイムラグが存在していることだった。

もうどうにでもなれといったんは開き直りかけた石田だったが、その次の瞬間ハッとして一連の状況を振り返えざるをえない羽目になった。現実の自分の世界とスクリーン中の自分の世界とのタイムラグが、刻々と縮まってきていることに気づいたからである。もうタイムラグは五分足らずに縮まっていたから、まもなく映像の中の時間は現実の時間に追い着き、それを追い越すことになってしまいそうだった。そうすると、眼前のスクリーン上には、今度は自分の未来の姿が映し出されることになってしまうわけだった。

――自分自身ばかりか、館内の他の観客たちもまた、直接関係ない他人の未来の姿を見せられることになってしまう。自分の未来を見るなんて厭だ!、老いさらばえてもう死ぬ日もそう遠くない自分の未来をいまさら目にしようなんて誰が望んだりするもんか!、もうここから逃げ出すしかない!――そう決断した石田は弾けるようにシートから立ち上がった。

転がり出るようにして観客席の外へと向かい、すぐさまその映画館を飛び出した石田は、大慌てでタクシーを拾った。そして、夜のグリニッヂ・ヴィレッジから逃げ去るようにして、世話になっている友人宅へと戻ったのだった。

――未来が追いかけてくる!、どこまでも未来が俺を追いかけてくる!――彼は帰途のタクシーの中で何度も何度もそう呟いていた。

友人らもなにやら胸中に察するところがあったのであろうか、なんとも心配そうな表情を浮かべつつ石田の帰りをひたすら待ちわびているところだった。ちょうどそこへ、ひどく青ざめた顔をし、ただならぬ様子て戻ってきた石田を見た彼らは、すぐさま驚きを顕にしながらそのわけを問いかけた。

「石田さん、一人でどこへ行ってたんですか?……しかも、いったいどうしたというんですか?……そんな血の気の引いた顔なんかして!」
「いや、なんでもない、なんでもないんだよ、ちょっと気分が悪くなっただけなんだ。ちょっと休ませてもらったら落ち着くから大丈夫だよ」

石田は敢えてそう強弁したが、内心では谷内らにその夜起こったことの一部始終を話し聞かせたい気持ちでいっぱいだった。だが、いよいよ老人ボケが始まったんじゃないかと疑われたりからかわれたりするのが癪だったので、風邪をひいたらしいから先に休ませてもらうとだけ告げてひとり寝室に入った。疲れていたせいか、それとも気分が落ち着いて安心したせいか、その晩はぐっすりと眠ることができた。

翌朝は寝室にまで漂ってくる芳ばしいコーヒーの香りで目が覚めた。明るく晴れ渡った気持ちのいい朝だった。朝食のテーブルには、グレープフルーツ、ワッフルにメープルシロップ、濃いミルクのたっぷり入ったコーヒー、ジャムにママレード、山盛りのバターに黒パンと、石田の大好きな食べ物や飲み物がふんだんに並べられていた。また、テーブル上の大きな花瓶には、種々の美しい花々がいまにも溢れ出さんばかりに飾り盛りつけられていた。

友人らと楽しく談笑しながら満ち足りた朝食のひと時を過ごすうちに、なぜか石田には昨夜の映画館での出来事が非現実なものだったようにも思われてきた。そしてまた、そうも思われてきたがゆえに、返って気楽に友人ら相手にその不可思議な体験談を洗いざらい打ち明ける気分にもなってきた。そこで、彼は、昨夜の一連の出来事について包み隠さず話をしてにることにした。周りの者たちは終始ニコニコしながらそんな石田の話に耳を傾けてくれた。ただ、石田のほうは、テーブルを囲む仲間たちに向かってその奇妙は体験談を語り進めながらも、内心ではいろいろと考え込むところがすくなくなかった。

――いったい、あの出来事は何だったんだろう?……夢だったのだろうか……それは有り得る話だが、でも眠った記憶はないし、グリニッヂ・ヴィレッジに出かけたのも確かなことじゃないか。じゃ、錯覚か、それとも幻覚だったのか……いや、酒もドラッグもやってなんかいないからそんなはずはない。まったくの偶然の一致による自分の一方的な思い込みだっただけで、あのスクリーン中の人物は実際には別人だったのか?……いや、それにしては話が出来過ぎている。それじゃ、最新のハイテクを駆使した映画館サイドの悪戯かジョーク?……まさかそんな手の込んだことなんかしないだろう。それとも、二十年前へのタイムスリップ?……いくらなんでもそんなことが起こるはずがない!――

胸中のそんな思いをいささかもてあまし気味になった石田は、いまからすぐにもう一度グリニッヂ・ヴィレッジに出向いて、細かく事実確認をしてみようかとも考えた。だが、その日はその日でちょっとした別の予定もはいっていたし、また、真実がどうであったにしろ、いまさらそうやって真実なんかを知ってみたたところで仕方がないことでもあった。また、真実なんて知らないほうがこの際、返って幸せなのかもしれないという気もしないでもなかった。結局、石田は、その不可解な体験をそのままにしておこうと決心するに至った。

石田の話を一通り聞き終えた周囲の者たちは、誰となく彼に尋ねかけた。

「ところで、石田さん、その映画館での不可思議な出来事なんだけど、どこまでが事実で、どこまでが石田さんのフィクションなんでしょうか?」
「うーん、それがねえ、僕にもよくは判らないんだよ……、困ったことにねえ……」

石田は苦笑いしながらそう答えるほかはなかった。もしかしたら、彼の体内か心中のどこかで何かが起こり始めていたのかもしれなかった。

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