ある奇人の生涯

64. 再会の喜びのなかで

チャーリング・クロスへと引き返した石田はそこで右折してストランド・ストリートに入り、その通りにそって5・600メートルほど歩いた。すると、ストランド・ストリートとオールド・ウイッチと呼ばれる半円弧状の通りとに囲まれた、まるで川中の大きな中之島みたいな半月形の区画に出た。BBC海外サービス部門のおかれている有名なブッシュハウスは、その半月形の地帯の中央部を占めるようにして建っていた。眼前のその特徴的な建物のすぐそばからはキングス・ウエイと呼ばれる大通りが北西方向へと真っ直ぐにのびていたので、その一帯を訪ねるのが初めての石田にも、それがブッシュハウスであるということはすぐにわかった。

大きなアーチ状空間を2本の柱と1本の梁で仕切ったような独特のデザインをもつ正面玄関をくぐってブッシュハウスに入ると、すぐさまインフォメーション・オフィスに出向いた。そして、昨日ロンドンに到着したばかりの日本語部門の新人であることを告げ、自らの来意を伝えた。既に海外サービス部門のジェネラルマネージャーに昇格しているジョン・モリスか、日本語部門の現マネージャーであるトレバー・レゲットに面会させてもらいたいという彼の要請に相手は快く応じてくれた。どうやら、インフォメーション・オフィスには石田達夫という日本人が訪ねてきたら取り次ぐようにとの指示が出ていたらしく、彼はすぐに上階のマネージャー・ルームへと案内された。

先導してくれた若い女性職員は、海外部門の総責任者に昇格したジョン・モリスは現在多忙なのだが、石田との再会を以前から心待ちにしており、特別に日程を調整して彼との面会時間を設けてくれたようだというような意味のことをさりげなく話してくれた。その言葉を耳にした石田のほうは、嬉しさを通り越し、むしろ自分にかけられた期待の大きさと責任の重さにひとかたならぬ緊張を覚える有様だった。

ジェネラルマネージャー・ジョン・モリスの執務室に着くと秘書の女性が現れ、すぐに石田を中の応接間へと通してくれた。半ば威儀を正すようにしてソファに腰をおろす彼の胸中を、皇居前お堀端でのモリスとの出逢いに始まる一連の想い出が走馬灯のように駆けめぐった。それらひとつひとつの出来事がまったく偶然の連続であるようにもおもわれ、それでいてまた自らの預かり知らぬ力によって定められた必然の成り行きでもあるかのようにも感じられてならなかった。

奥のほうから現れたジョン・モリスの姿を目にすると、まるで石田はバネ仕掛けの人形であるかのように勢いよくソファから立ち上がった。

「ミスター・イシダ!、遠路はるばるようこそ!、こうして君と再会できて僕はほんとうに嬉しいよ!」

それがほかならぬモリスの第一声だった。しかし、石田はそれに対して即座には何も答えることができなかった。一瞬のうちに熱いものが激しく込み上げてきて、再会の喜びを伝える言葉さえもままならない状況だったからだった。かねてから皮肉屋として知られ、軽口を飛ばすのが得意なその姿からはとても想像できないくらいの感激ぶりだった。そんな彼の様子を目にしながら、モリスはにこやかにその右手を差し出し、さらに言った。

「とにかく、おめでとう!、このイギリスでの君の活躍を心から祈ってるよ!」

差し出されたモリスの右手を石田のほうは両手で力いっぱい握りしめた。太い眉毛をも覆うようにしてかかる大きなロイド眼鏡の奥で、モリスの瞳もかすかに濡れ光っている感じだった。心と心が再び通い合うのにもうそれ以上の言葉は要らなかった。

そのあと二人はお互い向かい合ってソファに腰をおろした。そして一呼吸おいたあと、すこしばかり落ち着きを取り戻した石田は、

「モリスさん、こうしてBBCに呼んでいただいたこと、ほんとうに感謝致します。正直なところ、一時はすっかり諦めかけていたんです。だからいまもまだ夢を見ているようなんですよ!」とその思いを告げた。

するとモリスのほうは、それでもまだいくぶん昂ぶり気味の石田の気持ちを和らげ でもするかのように、

「夢を見ているような気持ちだっていうけど、まさかそれは悪夢じゃないだろうね?、もしかしたら私の顔が君に取り憑いた悪魔かなにかの顔に見えてるんじゃないだろうね?」と言って笑った。

「いまは天使に見えてるんですが、これからは悪魔に見えてくるのかもしれませんね!」

「はははは……、じゃ明日からは毎日、十字架とガーリックをもって出勤するんだね!」

「でもその十字架がどんどん大きく重くなって身体にのしかかり、いくらガーリックで身を固めてもどうにもならなくなってしまったら?」

「そうだねえ、まあその時には君が新たなキリストになるんだな。重い重い十字架を背負ってね!」

「もちろん、モリスさんのためならどんなに重い十字架でも頑張って背負うことにしますよ」

再会の喜びを交し合う会話がそこまで進みすっかり気分がほぐれたあと、すぐに2人はBBC日本語部での石田の具体的な仕事の打ち合わせにはいることにした。

「ところで僕はまず何から始めればよいのでしょうか?」

「我々BBC海外サービスとしては日本語放送部門を今後一層強化したいと思っていてね。ただ、現在の日本人スタッフは戦前から長年日本国外で暮らしてきた人たちだけなので、日本についての様々な知識も、また日本語そのものの言葉遣いやそのイントネーションなども不自然かつ古めかしいものになってしまっていてね」

「そうなんですか?、なかなかそのあたりの考え方は厳格なんですね!」

「もちろんだよ、いまもし君が日本にいるとしたら、不自然な日本語の放送なんか聞きたくもないだろう?……たとえどんなに内容がしっかりしていても、放送に使われる日本語が時代遅れのものだったりおかしな言い回しだったりしたら、聞くほうだってばかばかしくなってきてしまうよね」

「ええ、確かにそれはモリスさんのおっしゃる通りですね。でもいったい僕にどれほどのことができるんでしょうか?、アナウンサーとしての経験も皆無ですしね」

以前に中国の青島で日本から呼んだ海女たちの実演興行の呼び込みをやったことはあるものの、それ以外にはアナウンスみたいな仕事などやったことのない石田は、ちょっと不安な気持ちになりながらそう問いかけた。するとモリスは彼を励ますような口調で言った。

「そんなに心配することはないさ。東京で出逢った時から僕は君にはおおいに期待してきたんだよ。英語力や欧米文化に関する知識の深さをふくめ、君の総合的な能力の高さについては僕が誰よりもよく承知しているんだからなにも臆することはないよ。アナウンスの仕事だって二、三度やればすぐ慣れるさ。現スタッフのミセス・クラークだってはじめはぎこちなかったけど、すぐにうまくなってきたしね」

「はあ……、でも、それじゃ、僕なんかが出る幕はないんじゃありません?」

「そんなことはないさ。我々はいずれの国向けの放送においても、その国の最新の情報や最新の言語事情に通じているスタッフを極力起用するように心がけているんでね」

「そうなんですか……。じゃ、まあ、それはそれとして、当面、具体的に僕はどんな仕事をすればよいのでしょうか?」

「詳細についてはこのあと日本語部門のオフィスに出向いて、現在の日本語部長のトレバー・レゲット君に相談してもらいたいんだがね。英文ニュースの日本語への翻訳、各種取材と編集業務、日本語放送のアナウンスなど、放送記者からアナウンサーとしての仕事までを一通りやってもらうつもりでいるんだよ」

「わかりました。とにかくご期待にそえるようにできるかぎりの努力はしてみます」

「ロンドンに着いたばかりで申し訳ないんだが、今日のうちにレゲット君とおおまかな打ち合わせをすませ、早速明日から出勤してもらいたいとおもっているんだ。実際に実務に接しながら、業務内容をおぼえてもらえればありがたい。すぐにもロンドン見物をしたいところなんだろうが、これから何年も働いてもらうわけだから、そんな機会はこの先いくらでもあるとおもうんでね」

「ええ、では、このあとすぐにレゲットさんに会い、着任の挨拶をすることにします。そして、明日から正式に出勤させていただくことにします」

「それではいまからレゲット君に電話をして君が到着したことを伝えておくから、しばらくしたら日本語部のオフィスに出向いてくれたまえ」

そう言い終えたモリスは、レゲットと連絡をとるためにいったん席をはずし、奥のほうにあるデスクルームへと戻っていった。一人応接間に残された石田の胸には、自分は日本の民間人として戦後初めてこのイギリスの地を踏んだ人間なんだ、そしていよいよ明日からこのBBCの一員になるんだという自負のようなものが沸々と湧き上がってくるのだった。

いかにもエネルギッシュな身体を揺するようにして戻ってきたジョン・モリスは、不屈の信念と強靭な意思力の存在を偲ばせるその顔に独特の笑みを湛えながら再び口を開いた。

「ミスター・イシダ……、レゲット部長も君の到着を心から喜んでくれているようだよ。もともと彼は大の知日家で、私なんかよりずっと日本語や日本文化に通じているからね。しかも講道館柔道のヨーロッパ随一の高段者でもあるときていてね!」

「そうなんですか……。ところでモリスさん、日本語部門のオフィスもこのブッシュハウス内にあるんでしょうか?」

「日本語放送のスタジオはこの建物の中にあるんだが、日本語部オフィスのほうは目下のところ外部に置かれているんだよ。いずれこのブッシュハウス内にとは考えているんだがね」

「ではどこかこの近隣にでも?」

「そうなんだよ。このプッシュハウスを出てストランド・ストリートを横切ったところに、テームズ河畔に向かってだらだらと下るサリー・ストリートという細い道がある。その街路ぞいの3階建てのビルの3階に日本語部オフィスはあるんだ。テームズ川がちょうどほぼ直角に曲り切ったあたりの北岸に位置する場所でね。そう遠くはないんだが……」

「そうですか、それじゃ早速そちらのオフィスへと出向くことにします」

「それじゃそうしてくれたまえ」

そこまで話し終えると2人はともに立ち上がり、互いにもう一度固い握手を交し合った。「君の前途を祈ってやまないよ! なにか困ったことが起ったらいつでも遠慮なく相談にやってきたまえ」

そんなモリスの温かい言葉を背にしながら石田は再び階下に降り、ブッシュハウスをあとにすると、日本語部オフィスへと向かって歩き出した。

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