ある奇人の生涯

131. 最後の「十三日の金曜日」表敬訪問

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

二〇〇一年四月十二日早朝のこと、私はあらためてカレンダーを眺めながら、「明日は十三日の金曜日だよなあ……、しかも仏滅のおまけまでがついているときてるよなあ。こりゃ、そろそろお誘いのテレフォンコールがあってもはおかしくないな……」と呟いていた。すると、案の定、キュルキュルキュル・キュルキュルキュルと電話が鳴り出した。手にした受話器から流れ出てくる独特の声の響きは間違いなく石田翁のものだった。

これまで度々述べてきたように、旅先の信州穂高駅で私が石田翁と出逢ったのは十三日の金曜日のことで、以来、私は、なるべくなら老翁お気に入りの十三日の金曜日を選んでは穂高を訪ね、この不可思議な人物の過去の解明に努めてきた。忙しさのあまり、こちらがついつい十三日の金曜日であることを忘れたりしていると、「今日は特別な日のはずなんですがね、でも、何も変わったことがなくて退屈でねぇ……」などと、少々意地悪な口調で老翁のほうから電話をかけてくることもあった。

ずいぶんと時間はかかったが、ジグソーパズルを解くのとおなじ要領で、私は老翁の破天荒な人生模様を明かにすることはできた。そして、その人生譚をなんとか筆に托そうと準備を重ねてきてはいたが、当時はまだ冒頭部の草稿をまとめた程度で、本格的な執筆開始には至っていなかった。そんな私をからかうように、「あんたが原稿を書き上げるまでは死ねないよなあ。あと十五、六年ほどかけて原稿を仕上げてくれれば百歳までは生きられる計算になるんだがなあ……」などと老翁は軽口を叩いた。こちらも負けじと、「そんなに長生きされたんじゃ、世の中が大いに迷惑しますよ。まあ、あと半年ほどで書き上げちゃいますから、それまでのはかない命だと覚悟なさっておいてたほうがいいですね」などと相応に切り返したりもしていた。

「十三日の金曜日」に「仏滅」のおまけまでがつくという、キリストの死に釈迦の成仏までが絡んだダブルパンチのアンラッキー・デイは、石田翁にとっては二重のラッキー・デイということになる。この記念すべき日に老翁のもとを表敬訪問しないわけにもいかないだろうと思った私は、翌十三日の午前三時頃に府中の自宅を出発し、中央高速道に上がるとひたすら安曇野目指して走り出した。甲府昭和インターチェンジを通過する頃には東の空が少しずつ明るんできて、周辺の山々が次々に美しい輪郭を浮かばせはじめた。路肩に車を寄せて後方を振り向くと、前衛の山々越しに、いましも眠りから覚めようとする富士の姿が望まれた。残雪を戴く八ヶ岳連峰を右手に、甲斐駒ケ岳の白く鋭い稜線左手に見ながら、小淵沢をいっきに走り抜け、五時少し前には諏訪湖パーキングエリアに到着した。ちょうどそのとき、斜め後方に大きく位置を変えた八ヶ岳連峰のなかほどから、少し滲んだ色の太陽が昇ってきた。

――天候にも恵まれていることだから、高ボッチ山に登って山岳風景を眺めていかない手はないな。今回の穂高行きはあくまで表敬訪問で先を急ぐこともないから、ここは道草を楽しむにかぎる。このまま直接穂高に向かったのでは六時か七時に到着してしまう。それに、こんな早い時刻だと、石田翁だってまだ寝ているかもしれない――そう思いなおした私は、岡谷で高速をおり国道二十号伝いに塩尻峠へと上がると、そこから高ボッチ山を目指すことにした。高ボッチ山頂へと続く道に入り、山頂から少し下ったところにある牧場入口に着くまではすこぶる順調だったのだが、それ以上は前進できなくなった。路面が深く固い残雪に覆われ、チェーンを巻いても到底歯が立たない状態だったからである。いつもなら四月初旬頃までには山頂直下の駐車場まで上がれるようになるのだが、その春は例年になく残雪が多かった。

牧場入口脇のスペースに車を置き、残雪を踏みしめながら頂上へと向かったが、午前六時頃のこととあって、吹き抜ける風は雪面の冷気を吸って身を刺すほどに冷たかった。あちこちを覗き見たりしながらゆっくりとしたペースで歩き、三十分ほどで高原状の山頂に着いた。頂上には他に人影はなかった。朝日の輝きは爽やかそのものだったのだが、晴天の割には視界全体が霞んだ感じで、期待していたほどの展望を楽しむことはできなかった。大気が澄んだ日にはよく見える富士山や甲斐駒も、さらには木曾の御岳や北アルプスの白馬連峰も霞みの向こうに姿を隠したままだった。西方の乗鞍、槍、穂高と、東方の八ヶ岳だけはよく見えていたが、それらの景観にしても、条件のよいときに比べるといまひとつ物足らない感じがした。

仏滅のおまけまでついたこの十三日の金曜日は、石田翁にとってはともかく、自分にとってはやはりアンラッキー・デイであったのかという、愚にもつかない思いにひたりながら山頂を辞した。そして車のところへと戻る途中、残雪の一部が融け出し、路面全体を覆うように流れ広がっているところに出た。その雪融け水は朝の陽光を浴びてこのうえなく透明に澄み輝いていた。なんとも綺麗な水流だし、水深は精々二、三センチほどにしか見えなかったからザバッと靴ごと中に踏み込んでも問題ないと考えた。そして勢いよくその水中に足を踏み入れた。

なんと、それが悲劇のはじまりだった。次の瞬間、私の身体は斜めになって宙に浮き、ガツーンという鈍い音をたてて路面に激しく叩きつけられた。反射的に身体を右にひねったので辛うじて背中や後頭部を打ちつけるのだけは避けられたが、そのかわりに、不意の落下にともなう衝撃のすべてが右肘と右腰骨部とに集中することになってしまった。何が何だかさっぱりわからないままに、私は必死に歯をくいしばり、右腕と右腰一帯に走る激痛にしばらくじっと耐え続けた。

痛みをこらえながらなんとか立ち上がり、足元をしげしげと眺めてみると、溶け出した水に見えたものは、なんとガチガチに凍りついた透明な氷であった。若い頃幾度となく冬山や融雪期の春山に登ったことのある身なのだから、凍結しているんじゃないかと警戒心を懐いてしかるべきだったのだが、陽光に騙されついつい軽率に振る舞ってしまったのだ。不幸中の幸いというか、厚手のセーターの上から着込んでいた防寒用のダウンがクッションとなってかなり衝撃が吸収されたのだろう、骨に異常をきたしたりする事態までにはいたらなかった。

――うーん、これはどうやら十三日の金曜日の祟りらしいな、いやもしかしたら、道草を楽しんでいる私に向けられたドラキュラ翁の祟りかな――自嘲気味にそんなことなど呟きながら、ゆっくりと歩いて車のところまで戻った。そして、痛む身体を休めながらしばし仮眠をとろうと思い車中で横になると、そのまま四時間ほど眠り込んでしまった。目が覚めたのは十一時過ぎのことだっだ。外気温もずいぶんと上がり、差し込む陽光のため車中は暑いくらいになっていた。

いつのまにかそばの路上には除雪作業員がやってきていて、ブルドーザを動かし除雪を進めているところだった。ちょっと声を掛けて話を聞いてみると、やはりこの年は異常に残雪が多く、そのために例年よりも除雪が遅れているのだということだった。山頂下の駐車場までの路面除雪はいつまでかかるのかと尋ねると、その日のうちには作業を終える予定だとの返事だった。どうやら一日だけ早過ぎたということらしかったが、僅か一日違いのせいでずいぶんと痛い目に遭ってしまったわけだった。やはり、十三日の金曜日は私にとっては厄日なのだと思わざるをえなかった。

その高ボッチ山からの下山中、たまたま道路脇に動物の遺骸の一部らしいものが散乱しているのを見つけた。なんだろうと思って近づいてみると、それらは、大きな背骨の一部と、どこのものとも判断し難い半乾きの毛皮の断片、そして、まだ蹄と毛がついたたままの二本の脚部だった。手にとって観察してみると、二本の脚部はどちらも後脚の大関節から先の部分であった。色や形から推測すると、どうやらそれらはこの周辺に棲息するカモシカの遺骸の一部であるらしかった。一見したところ鹿のそれにも似ているが、残された毛皮の毛はかなり長めで毛色もずいぶんと黒味を帯びており、鹿のものとはかなり違っているように思われたからだった。

山の斜面の雪に埋もれていた遺骸が雪崩などで押し流されて路上に落ち、大型の車かブルドーザに何度も轢かれてそのような状態になったものなのか、それとも、何らかの原因で息絶えたあと、他の動物に食べられたり自然に腐食したりしてそうなったものなのかはわからなかった。いささか躊躇いも覚えはしたが、珍しいものには違いなかったので、どうせなら物好きな石田翁へのお土産代わりにと思い、二個の脚部と毛皮の一部を大きなビニール袋に入れて車に積み込んだ。そして、せめてものお弔いをと、残りの背骨の一部や他の毛皮の小片などはすぐそばの林の中に小穴を掘って埋めてやった。

途中で昼食をとったりしたので、表敬訪問先の石田宅に到着したのは午後二時過ぎであった。東京から手土産に持ってきた虎屋の羊羹だけを先に手渡し、車の中にもうひとつ変わったお土産があるのだがと伝えた。私の表情や口ぶりから、ただのお土産ではないなと察知した石田翁は、訝しげに私の様子をうかがいながら、「あなたの考えることだから、またどうせロクなシロモノじゃないんでしょう?」と問いかけてきた。

ドラキュラ翁の異名をもつとはいえ、相手は八十五歳になる老人である。いきなり実物を取り出して驚かすわけにもいかないと思い、正直に、それは高ボッチで拾ったカモシカの足の先端部だと告げた。すると、石田翁の口からは、「いやあ、それだったらもう遠慮することにしておきますよ。以前だったら喜んで飾り物かなんかにしたんでしょうけどね」という予想外の返事が戻ってきた。さしものドラキュラ翁にもここに至って少なからぬ心境の変化が起こってきたものらしかった。

「シャーロックホームズ物をはじめとし、長年にわたって海外の様々な推理小説の翻訳などもやってきたでしょう。そんな関係もあって、私には、動物の遺骸の一部を見たりすると、その全体像や、そのような状態にに至るまでの悲惨な背景についてあれこれと想像をめぐらす習癖があるんですよ。ところがどういうわけか、歳をとるにつれてその習癖がマイナスに作用するようになりましてね。いまでは生き物の死骸を目にしたりすると、心穏やかではおれなくなってしまうんですよね」

老翁はそんな具合に風変わりなお土産の受取り拒絶の理由を述べた。そこまでの心境の変化が起こっていたとは正直なところ予想外のことだったが、ドラキュラ翁の体内には間違いなく仏心、いやキリスト心が芽生えはじめたもののようだった。すくなからぬ計算違いに私は少々戸惑いを覚えもしたが、ともかく問題の土産物は車中に残したままにして、まずは表敬の挨拶をすませることにした。なんとも複雑な私のそんな胸の奥を「十三日の金曜日の老翁への対応の仕方にはそろそろそれなりの趣向変えが必要なのかもしれないな」という密かな思いがよぎっていった。

毒舌の切れ味だけは相変わらずの石田翁と雑談に花を咲かせたあと、一緒に近くの温泉に出かけた。そしてそこの露天風呂につかりながら、のんびりと二時間ほどの時を送った。帰り道には美味そうな鮨を買い込み、気の向くままにそれらをつまんでは、さらに二、三時間ほど話し込んだ。その時もまたヴァイオリニスト川畠成道のことなどが話題にのぼった。偏屈このうえない老翁ではあったが、波瀾万丈の人生を通して鍛えあげられたその審美眼は的確そのものであった。容易なことでは人を認めもせず褒めもしないそんな老翁の目と耳とに、川畠成道のヴァイオリンの奏で出す音色は十分に適ったということなのであった。

無事表敬訪問を終えて石田邸をあとにしたのは午後九時半頃だった。一泊しても構わなかったのであるが、あえてそうしなかったのは、十三日の金曜日のうちに別れるのが双方の美学にもかなっているような気がしてならなかったからだった。穂高町から松本を経て塩尻市街に抜けたあと、国道十九号沿いのファミリーレストランに飛び込んだ。そしてそのお店の一角に陣取って原稿書きに没頭しているうちに、時刻は十四日土曜の午前零時を過ぎてしまった。

そこで一件落着となればよかったのだが、困ったことに、体内に棲む気まぐれ虫が、機を窺っていたかのようにもそもそとうごめきはじめた。そして、ノートパソコンのキーを叩き続けている私の耳元に、その虫が、「もう一度高ボッチに登って美しい朝焼けを見ていくのも悪くないぞ!」と、誘い煽りたてるような言葉を囁きかけてきたのだった。気まぐれ虫の誘惑に抵抗するのは難しい。すぐに車へと戻った私は、結局、深夜の高ボッチ山頂目指して再度アクセルを踏み込むことになってしまった。

塩尻峠のすこし手間から高ボッチ山方面へと続く林道に入り、千二百メートル近くまで高度を上げたときのこと、大型の動物のものらしい黒い影が一瞬車の前方を横切り、右手の山の斜面を少し駆け登ったところでぴたりと静止した。車を停めて様子を覗うと相手もじっとこちらの動向を探っている気配である。すぐさま懐中電灯を取りだしその黒い影のほうを照らし出すと、黄色く大きな相手の両の眼が、光輪の中で異様なまでに明るく輝いて見えた。全体的な風貌はどこか黒山羊のそれに似ていて、頭部には大きく後ろに反った感じの二本の角が生えている。しかも、懐中電灯の光を吸って黒く浮かび上がった長い顔の側面は、ふさふさとした長毛で覆われているようだった。魔王ルシェフェルの不気味な容貌をも連想させるその独特の相貌は、カモシカのそれに間違いなかった。

光を浴びながらしばらくじっと佇んでいた相手は、こちらがそれ以上近づくことができないとわかると、急な斜面を悠然と歩みのぼり、そこで大きく横に向きを変えて草か何かを喰みはじめた。いくぶん遠目ではあったけれども、黒い肢体の形だけはライトの光を通してじっくりと観察できた。後脚の大関節から蹄にかけての先端部は思いのほか細く短く、車に積んである二本の脚部そっくりであった。問題の遺骸の一部を見つけたのもそこからほどない所だったから、やはりそれらの脚部は私が思った通りにカモシカのものだったのだ。次第に遠ざかるカモシカの黒影を見送ったあと、再び山頂方面に向かって車を走らせた。すでに除雪が終わっていたため、今度はなんの苦労もなく高ボッチ山頂駐車場に着くことができた。時計を見るとまだ午前三時前だったので、とりあえず日が昇るまでその場で仮眠することにした。

午前五時少し前、人の話し声を耳にして目を覚ますと、驚いたことに駐車場にはいつのまにか多数の数の車がとまってた。除雪が終わり頂上まで行けるという情報がたぶん前日のうちに流れていたのだろう。ナンバーを確認してみめるとほとんどが地元の車のようだった。ほどなく東の空から太陽が昇ってきた。幸いなことに、前日よりはずっと展望がききいた。眼下に広がる安曇野をはさんで、穂高、、槍ヶ岳、常念岳、有明山などの山々の頂きが、早朝の明るい陽光を浴びて白く鋭く輝いて見えた。私は、万感の想いにひたりながら、いまいちど、有明山の麓あたりに視線を向けた。むろん、その一隅の邸内にあって、石田翁はおそらくまだ夢路の中にいるはずであった。

高ボッチをあとにする前に、ビニール袋に入れて積んでおいたくだんのカモシカの脚部の先と表皮の一部がどうなっているかを確認してみた。拾った時にはかなり乾いているように見えたのだが、車内の温度が高いせいもあってか、かなり腐食が進んだらしく、鼻を突くような異臭を発していた。表皮の体毛もちょっと触っただけでポロポロと抜け落ちてしまう有様で、とてもそのまま長期にわたって保存できるような状態ではなかった。しかたがないので、塩尻峠へと下る途中、前日カモシカの遺骸を見つけた場所に車を停め、背骨の部分などを埋葬したのと同じところに残りの部分も埋めてやることにした。

まさか、十三日の金曜日に高ボッチでカモシカの遺骸の一部を発見し、結果的に、翌日それらをすべて発見場所に近いところに埋葬してやることになろうとは予想だにしていなかったのだが、それもまた「他生の縁」と呼ばれるもののひとつではあったのだろう。そして、のちになって思うと、このカモシカがらみの一件は、十三日の金曜日の穂高詣でがもう最後になるだろうことをそれとなく暗示してもくれていたのだった。

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