ある奇人の生涯

32. 看板書きから海軍武官府へ

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

石田が部屋を借りて住みついたのは上海県城に近いフランス租界の一隅だった。昔は宦官たちが住んでいたところであったという。フランス租界が設けられて間もない頃に造られた洋風住宅の中の一室で、既にかなり老朽化が進んでおり、けっして自慢できるほど綺麗な部屋ではなかったが、一人か二人で住むのには十分な広さがあったし、生活に必要な設備類も一通り揃っていたのでとくに不便は感じなかった。

その場所からは、フランス租界内の名所や豫園、上海商場、市内最大の繁華街南京東路、さらには散策に適した黄浦江沿いの外灘一帯もごく近かったので、暮らしやすいことこのうえなかった。部屋の中を自分で勝手に改造したり、壁面に好みの絵を描いたり装飾を施したりしても構わないというのも、彼にとってはたいへん都合のよいことだった。幼い頃から独特の感性と美観とを具え持っていた彼は、自分の住む部屋の空間を意表を突くようなデザインに仕立て上げるのが好きだった。

住居が決まると、その次ぎにやらなければならないのは仕事探しだった。多少の貯えはあったのですぐに困るようなことはなかったけれども、だからといって何時までも何もしないでいるというわけにもいかなかった。もちろんナーシャのこともすくなからず気にはなっていたが、消息を知るための手掛かりが皆無である以上、それについては最早どうすることもできなかった。そのままだと、日々の生活に追われたり、新たな人事との様々な出逢いを重ねたりするうちに彼女への切ない慕いも徐々に薄れ、やがてはその面影が想い出の世界の彼方へと遠のいてしまうのではないかとも危惧されたが、それはそれでやむをえないことかもしれないと考えもするのだった。

石田が上海で最初に手掛けた仕事は、たまたま親しくなったユダヤ系ロシア人の経営するお店での看板書きだった。中国人や上海在住の日本人を相手にするには漢字表記の看板や商品案内書きが必要だったし、欧米人相手には英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語などによって記された看板や案内書きが不可欠であった。国際都市上海で商売の繁盛を図るには多様な言語を併記した各種の看板類がなくてはならなかったのだ。たまたまそれらの言葉に通じていて、しかも人一倍器用で美術的な感性を具えもった彼は、商店主たちにしてみればなんとも重宝な存在に違いなかった。

いっぽうの彼にはまた、ユダヤ系ロシア人の経営する店の仕事を手伝い、そのことを通して上海在住のロシア人たちと知り合いになれれば、ナーシャ一家の消息についてなんらかの情報が得られるかもしれないという淡い期待などもあった。この頃の上海には、ヨーロッパからのユダヤ人難民と並んでロシア人流民がすくなくなかったからである。石田がそんな仕事に手を染めるに至った背景には、いまひとつ彼なりのそんな思いもあったのだった。

石田の看板書きや商品案内書きの仕事振りはなかなかに好評で、ロシア人店主からもずいぶんと喜ばれた。ただ、ナーシャ一家のその後の消息に関しては結局のところ何一つ手掛かりになるような情報を得ることはできなかった。しかも、運命の悪戯とでも言うべきか、しばらくそのような日々を送っているうちに、彼の身に思わぬ転機が訪れることになったのだった。

ある夜のこと、彼はたまたま足を運んだ外灘地区のホテルのバーで外国人のお客二人を伴った日本海軍の軍人とおぼしき人物と隣席する機会があった。その日本人は抑揚のない棒読み調の英語で懸命に相手に話しかけようとしていたのだが、その英語は発音からしていかにもたどたどしく、二人の外人はずいぶんと理解に苦しんでいる様子だった。加えてまた、その軍人らしい人物は外国人らの話す英語をほとんど聴き取れずにいる感じでもあった。余計なお節介をするのもどうかとも思い、しばらくは素知らぬ顔をしていたのだが、あまりに相互の意思の疎通がうまくいかないのを見かねた石田は、ついついほっておけなくなり、敢えて助け舟を出すことにしたのだった。

突然石田が話に割り込んできたことに一瞬彼らは驚きもしたが、外国人たちは彼の流暢で品格のある英語と日本人離れした身振舞いにいたく好感を覚えたらしく、すぐさま安堵した様子でにこやかに応じてきてくれた。日本海軍の軍人とおぼしきその日本人もそんな石田の登場を渡りに舟と思ったらしく、とくに嫌な顔もすることなく彼のほうを振り向いた。そして、半ば苦笑するような調子で、「君、よかったら間に立って通訳してくれないかい?」と話しかけてきた。

そんな成り行きのもと、石田はごく自然なかたちでその場の会話の通訳を務めることになった。日本人のほうは海軍武官府に務める上村という海軍大尉で、二人の外人は英国商社勤務のイギリス人社員だった。話の内容そのものは国際情勢についての軽い情報交換程度のもので、興味深くはあったけれどもとくに極秘とするような性質のものでもなかったから、彼はことさら緊張したり気負ったりすることもなくその場の即席通訳を務めることができた。

上村海軍大尉はイギリス人たちとの話が一段落したあと、石田にそれまでの経歴を問い掛けてきた。石田は福岡高校を卒業してからしばらく東京で働いていたこと、そのあと小樽と台湾間の航路に就航していた貨物船氷川丸のタリーマンとなったこと、それから青島での生活を経て大連に移りそこでナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨークの大連支店に勤務したこと、そして最近思うところあって上海に移り住むようになったことなどを手身近に伝えた。もちろん、横浜の山下公園で行き倒れになったこと、天津郊外の塘沽港で密かに乗り組んでいた貨物船から脱走したこと、青島で香具師の右腕となって働いていたことなどのような、不都合かつ誤解を招きそうなことについては一言も触れないでおいた。

一時的なことだったとはいえ石田にその場を助けけもらった上村大尉は、当然、彼の語学力に強い関心をもった。まだ日米開戦前のことだったがドイツやイタリアをのぞく欧米諸国との対立が日増しに深まっていた関係で、既にこの時期日本国内では敵性外来語廃止の気運が高まり、煙草の銘柄名の「ゴールデンバット」や「チェリー」などはそれぞれ「金鵄」や「桜」に改名された。また、音階を表わす「ドレミファソラシド」は「ハニホヘトイロハ」に、さらに野球の「ストライク」は「一本」にといった具合に外来用語廃止の動きはエスカレートしていきつつあった。だが、国際都市上海においてはおのずから事情は異なっており、在留邦人などに対してそんな馬鹿げた規制をするわけにもいかなかった。

上海事変後、日本軍部は、フランス租界や英米共同租界の外側に大きく広がっていた華人居留域に実質的な傀儡政権を誕生させて一帯の支配を強化した。そのため、この頃には日本軍部やその支配化の勢力に周囲を取り巻かれ、フランス租界と米英共同租界はすっかり孤立したかたちになっていた。だが、それでもなお上海の主要部を占めるそれらの租界地を支配し日本化することはまだできずにいた。

それどころか、外国、なかでも欧米諸国の動向を知り、それらの国々に関する諸々の情報を収集するうえで、欧米要人との直接間接の接触のなお可能な上海という都市は、日本軍部にとってもたいへん重要な存在だった。そして、その情報収集の中枢にあったのが当時の日本海軍武官府であった。当然のことだが、そのためには、外国語、なかでも英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語などのできる日本人で、しかもそれなりに信頼のおける人材がどうしても必要であった。だから、上村大尉の目に、英語のほかフランス語やロシア語にも通じる石田との出逢いが願ってもない幸運に映ったのはごく自然なことであった。

それからも何度か石田と会いすっかり親しくなった上村大尉は、しばらくすると、日本人には稀なその実践的語学力を活かし、ぜひとも海軍武官府で働いてくれないかと相談をもちかけてきた。もしも海軍武官府側が石田のそれまでの経歴行状をあらかじめ詳細に調べ上げていたならば、さすがにこのような勧誘はなかったかもしれない。しかし、日中戦争が激化し米英との対立が日増しに深刻化していく状況の下では、海軍武官府当局といえども、そこまで調べを進めて当該人物が適格であるか否かを判断する時間的余裕も組織的能力も持ち合わせてはいなかったのであろう。

もちろん、石田は軍隊というものがけっして好きなわけではなかった。だが、海軍武官府の責任者が自分の能力を認めてくれたうえに、仕事まで与えくれると申し出てくれたことについては、けっして悪い気分はしなかった。ユダヤ系ロシア人の経営する店で看板書きや商品案内書作りをするのも捨てたものではなかったが、外国語の翻訳や通訳に関わることのできる海軍武官府での仕事は知的という意味でもより魅力的だった。それに、海軍武官府で働いたほうが収入も大きく生活も安定するにきまっていたし、まだ上海に知人や友人がほとんどいない状況を考えると、様々な人脈をつくるうえでもそうしたほうが得策であるように思われた。また、陸軍などの幹部に較べて海軍の幹部たちのほうがずっと発想が自由かつ柔軟であることにもすくなからず好感をもつことができた。

結局、石田は上村大尉の申し出を受け入れ、日本総領事館内や日本租界の海軍陸戦隊本部に拠点の置かれている海軍武官府で働くことになった。最初に彼に割り当てられた仕事は主に英字新聞各紙や各種英文雑誌類のモニターであった。欧米の英字新聞や英文雑誌に隅々まで目を通し、欧米諸国の軍事情勢や政治経済情勢にかかわる記事、日本に対する海外世論の動向や対日批判、各国の対日政策方針などについての記事を的確にピックアップして翻訳整理し、それらを情報収集の担当官に提出するのが具体的な仕事の内容であった。ときには担当官から打ち合わせの場に呼び出され、私的な意見を訊かれたり特定の記事についてのより詳細な説明や関連情報を提供するよう求められたりすることもあった。

全体としては地味でそれなりに根気のいる仕事ではあったが、判断ミスなどが原因でなんらかの責任を直接取らされるような立場ではなかったし、世界の趨勢をいながらにして垣間見ることもできる特殊な業務だったから、飽きたり疲れたりするようなことはほとんどなかった。それに、日常業務を通して文化や芸術に関する海外の様々な記事などを読み漁ることも可能だったので、ある意味で石田には願ったり叶ったりの一面もある仕事だった。むろん、ユーモアや風刺に富んだ記事類を目にするのもいつものことだったから、たとえそれが日本人を痛烈に風刺したようなしろものであったとしても、仕事中にそれらを見ながら人知れず笑い転げることなどもしばしばだった。

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