穂高町の新居に引っ越した翌年にあたる一九八〇年四月のこと、BBC日本語部は、「姿を変えゆくビッグ・ベン」という特別番組を企画した。あるところでたまたまその放送を耳にした石田は、終始興味深げな表情をみせながらラジオから流れ出る真剣なアナウンスの声に聴き入った。その特別番組はビッグ・ベンのデジタル化を報じ、様々な人々へのインタヴューを交えながら、その詳細な背景を詳細にレポートしたものだった。時折自らの膝を打ったりしつつラジオに耳を傾ける彼の様子は、周囲の人々にはいささか奇妙にも映ったりした。だが、石田はそんなことなどまったく気にしていなかった。
まず、ビッグ・ベンの番人を務めるという人物の談話が流され、老朽化のせいか近年ビッグ・ベンが突然止まったり、十二時なのに十三回も鐘を打ってしまったりすることがあるという裏話などが紹介された。そして、そのような問題を根本的に解決するためにも、この際ビッグ・ベンをデジタル化したほうがよいということになったのだという説明がおこなわれた。また、日本人スタッフの一人は、「このビッグ・べンのデジタル化は、イギリス経済の地盤沈下に悩むサッチャー首相が、英国のイメージ・チェンジをはかるためにひねり出した起死回生の秘策なのだ」などという解説を加えたりもした。そして、ロンドンを訪問中の日本人観光客に取材したビッグ・ベンのデジタル化についての感想なども放送された。
番組の最後のほうでは、「BBC日本語部では解体されるビッグ・ベンの針を四本ほど貰い受けることになったので、日本語放送を聴いてくださっている人々のうち先着四人の希望者にその針をプレゼントすることになっている」という耳よりの話なども飛び出した。大時計ビッグ・ベンの針は長針が六・四メートル、短針が四メートルもあって、現実にはイギリスから日本へと送り届けることさえ容易ではなかったはずだったが、そのことについては直接触れられることはなかった。
石田は内心でニヤニヤしながらその放送を聴き終えた。もちろん、彼には初めからすべての事情が呑み込めていた。それほどに手が込んだ番組に仕上げたことはなかったが、彼がBBCに在籍していた当時にも、この時期になると、イギリス国内向けの放送は言うに及ばず、各国語放送とも競ってこの種の特別放送を企画した。それは、四月一日、すなわち、エイプリル・フールの日におこなわれる大ボラ放送なのだった。正確かつ客観的な報道を信条とするBBC放送にあっても、このエイプリル・フールの当日だけは例外的に架空の内容の特別番組を放送することが許された。それは、ユーモア精神をなによりも大切にするイギリスというお国柄ならではのことで、英国滞在中、自らもそのユーモア精神を学びウイットやジョークに磨きをかけてきた石田にとってはなんとも懐かしいかぎりであった。
このビッグ・ベンにまつわる大ボラ放送は、そのあとちょっとした波紋を引き起こしもしたようだった。数時間後のこと、大西洋を航行中の日本のタンカーの乗組員から、「ビッグ・ベン ノ ハリ キボウ スグ オクラレタシ」という電報がBBC日本語部に飛び込んできた。その電文が文字通り大真面目なものだったのか、それとも嘘の放送と見抜いたうえでのジョークだったのかは知る由もなかったが、ともかく、そのあとからも「ぜひ欲しい」という内容の速達が続々と舞い込んできたという。その数はなんと三百通にものぼったらしい。また、伝統の大時計をデジタル化することに抗議し、ビッグ・ベンを旧来のままにしておくべきだと強く訴えかける内容の手紙もずいぶんと寄せられた。
のちになって石田が知ったところによると、当時の日本人スタッフらは放送内容を真に受ける人々が続出して予想外の結果になることを心配し、番組の一番最後で「実はこれは冗談です」と言ったようなコメントをつけるつもりでいたらしい。ところが、レゲットの後を継いだ当時のBBC日本語部長のニューマンが、「すぐに嘘だとばらしてしまっては面白くない。その結果、何か不都合な問題が生じたときには部長の自分が責任を取る」とあらかじめ保証してくれたため、その特別番組を企画した日本語部のスタッフ一同は安堵の胸を撫で下ろし、余計なコメントを付け足すのを控えることにしたのだという。
それでもなお、日本語部の日本人スタッフらは、電報や手紙を送ってきた多くの日本人聴取者に対し、「エイプリル・フールの精神を十分に汲みとっていただき、どうもありがとうございました」といったような内容の受信確認書を発送した。それを知ったBBC本部関係者は日本人の生真面目さ加減にほとほと困惑したらしい。BBCのトニー・ライトリーだけは、各国の新聞関係者からの問合せに応対するのに一時おおわらわだったというが、むろん、ニューマン日本語部長に対してはとくに懲罰が科せられたり、戒告がなされたりするようなことはなかった。
松本にやってきてからというもの、石田は英会話塾の仕事を通じて出合う以外にも数多くの人々に回り遇い、並みはずれた人生経験を積んだ者ならではの存在感をもってそれらの人々にすくなからぬ影響を与えてきた。なかでも、さまざまな若い男女に与えた影響にはひとかたなぬものがあった。養子に迎えた俊紀の場合がそうであったように、石田には、これはという感じの旅の若者に声をかけ、彼ならではの魔力をもってたちまちその相手を虜にし、意のままに翻弄して楽しむという習癖があった。
そうなるともう、煮て食おうが焼いて食おうがあとは彼の意のままだった。ミサに向かって、「若い旅人でもとってを食うことにする」と冗談まじりに言っていた言葉そのままのことを彼はやっていたのだった。ただ、この石田ドラキュラは、そんな若者らの魂を自らのエネルギーの糧にするばかりではなく、彼らの魂の奥に秘められた未来の可能性を見抜き、それらを磨き育て上げることにも尽力した。かねがね口こそ出しはしなかったが、そのことまた彼の密かな狙いでもあり喜びでもあった。
松本城周辺で俊紀が石田に出遇った時期と前後して、やはり安曇野の旅の途上で声をかけられ、それが機縁となって折あるごとに石田のもとに出入りするようになった若者があった。当時、まだ日大芸術学部の学生だった和歌山出身のこの若者の名は谷内庸夫といった。谷内もまたその回り遇いによって衝撃的な啓示を受け、それからというもの、表現に行き詰まるようなことがあると、なにかしらその打開策のヒントとなるようなものを求めて石田のもとを訪ねるようになった。
大学を卒業した谷内庸夫は二年間ほど国内のデザイン会社に勤めていたが、その間も彼はわずかな時間をみつけては、仕事がらみの着想を得たり、逆にしばし仕事のことなど忘れ去って都会生活で疲れきった心身を休めるために石田のところにやってきた。そんな谷内の潜在的な能力を直観していた石田は、様々な海外での生活体験談を披露したり、英会話や英語読解の基礎を指導したり、国内外のさまざまな表現活動に関する芸術談義をしたりしながら、思い切った飛翔を試みてみるようにと若い谷内の心をそれとなく煽り立てた。石田が谷内に向ける言葉のひとつひとつには、時代の壁や拘束を乗りきり、多感な時期に海外への一大飛翔を実践した先達者ならではの説得力があった。
石田が穂高へと転居する前年の一九七八年、二十五歳になった谷内は米国に渡ることを決意し、勤務していたデザイン会社を辞して直ちにボストンへと旅立った。そして、一九七九年から八二年にかけて、ボストンの教育テレビ局WGBHやW.F.E.M建築事務所に勤務しながらデザインの勉強に没頭した。またその間に谷内はTDC銅賞を受賞し、その嬉しい報告を石田は我がことのように喜んだのだった。
自分の能力に自信をもった谷内庸夫の活躍はなおも留まるところを知らなかった。一九八二年に独立し、ボストンに自分のスタジオを設立した彼は、ニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、ハーバード大学などをクライアントとする編集デザイン、ポスター制作、ロゴタイプ制作、カードデザインの仕事などで次々に優れた業績をあげ、その芸術的創造力や表現力は米国内で高く評価されるようになった。また、そのような仕事と並行して谷内は従来のペーパー・クラフトとは一味異なる「紙彫刻(Paper Sculpture)」という独自の表現領域の開拓を進め、絶妙なオブジェに彩られた彼ならではの宇宙を創出することに成功した。
谷内は、一九八二年・八三年のニューイングランド・ブックショー・デザイン賞を受賞、さらには一九八三年のボストン・ニューヨークADC編集部門賞などを受賞した。谷内は、自分の作品やアイディアの核心や要点をうまく言葉で表現したり説明したりしなければならないようなことが起こると、いつもすぐさま石田に相談を持ちかけた。その相談役として石田はこのうえない適役でもあった。谷内の表現したい内容やそのポイントを電話で聞いたり、手紙で読んだり、彼が帰国した折などに直接会ってディスカッションたりしながら確認すると、石田はまず的確な日本語でそれらを記述し、さらにそれらを直ちにこれまた的確な英文に翻訳してくれた。
もともと並外れた美術的センスを具えていたうえに、なにかを表現する場合初めから英語で記述したほうが楽なくらいだという石田にとって、それは造作もないことであった。この石田の特殊な能力は、のちに谷内が日本と海外の双方に向けて自分の作品を紹介する冊子を刊行するようになった時などに大きな助けともなったのだった。前書きや後書き、さらには各作品の解説文などを和文と英文で併記しなければならないような場合、その困難で面倒な仕事を石田は快く引き受け、迅速かつ的確に処理してくれたからだった。
石田が穂高に移ってから六年後の一九八五年十一月、日本に凱旋した谷内は草月会館で紙彫刻作品を主体とした個展を開催、また、同年十二月には「アルファベット・ランデブー」インスタレーション展を開催して大好評を博したのだった。そのいっぽうで、「アルファベット・ランデブー」(一九八三年、自費出版)や「かみ彫刻」(一九八五年、玄光社)などの作品集が刊行されたりもしたが、石田がそれら一連の谷内の仕事に一役買っていたのは言うまでもないことだった。石田は陰にあって谷内のそんな仕事をサポートしながらも、若い芸術家のそんな成長を心から喜んでいたのだった。その当時の谷内について、石田は短い一文を残していある。まだまだ成長を遂げていくであろう谷内の姿と、長年翻訳の仕事はやってきているとはいえ、もう老境に入り、本質的な創造のエネルギーを失いつつある自分の姿とを対比したその文章はなかなかに興味深いものだった。
庸夫は物を作ったり作らなかったりするのが仕事。 私、達夫は物を書いたり書かなかったりするのが仕事。 庸夫にはまだ作りたいものが沢山ある。 しかし私にはそれがない。たとえあっても、書けないことが分かっているからである。 それでもいつか庸夫と私が何か合作出来たらいいだろうなと思うことはあるが……、 でもやっぱり駄目だろうな……。
「庸夫と私が何か合作出来たらいいだろうな」という石田のささやかな思いは、草月会館での個展開催から二年後に二作目の「かみ彫刻」(一九八七年、玄光社)となって実現する。それは、たまたま碌山美術館を訪ねた私が穂高駅で石田と初めて出遇う一年前のことであった。