全島岩からなっているとはいうものの、ちょっとした木立もあるその小島の上部は世間から完全に隔離された二人だけの別天地だった。こんなところにこんな秘密の場所が隠されていたなんて、石田にとってはなんとも思いがけないことであった。
「ナーシャ、いったい、いつごろからこの場所のこと知ってたの?」
その卒のない行動ぶりから、彼女がこの秘密の場所にやってきたのはこれが初めてではないと感じた石田は、あらためてそう問いかけた。ナーシャとは彼女の名を省略した愛称で、彼は彼女のことをいつもそう呼んでいた。
「ふふふふふ・・…。びっくりしたでしょ、石田!」
美しい顔にいたずらっぽい微笑みを浮かべながら、ナーシャは得意そうにそう答えた。彼女は彼のことをいつも「石田、石田」と呼び捨てにしていたが、べつに悪気があってのことではなかったし、へんにあらたまって「石田さん」などと呼ばれるよりもそのほうがかえって気楽でさえあった。
「うん、さすがに驚いたよ、こんな静かなところがあったなんて」
「私は石田が老虎灘にやってくるずっと前から、そう、幼い子どもの頃からここに住んでるでしょ。だから詳しいのよ、このあたりのこと……」
「ふーん、じゃ、その頃から時々ここには来てたわけ?」
「昔からこのへんじゃよく泳いでたし、それにね、あるとき、家によく出入りしていた地元の親しい老人がこの場所のことをそっと教えてくれたのよ」
「それで、ある時にここに来てみたっていうわけなんだ!」
「そうそう、もう五、六年は前のことだったと思うけど。私、もともと探検ごっこ大好きでしょう。だからここがすっかり気に入っちゃってね……」
「道理で崖をすいすいと登ると思ったよ。そんなこと全然知らないから、最初は見ていてハラハラしたんだよ。なんでこんな小島の上になんかよじ登ろうとするんだろうって……」
ようやく謎が解けた石田は、そう言いながらナーシャのそばに近寄ると、そっとその肩に手を当てた。すると水に濡れた彼女の髪がその手の甲にかすかに触れた。そのこそばゆい感覚を妙に心地よく思いながら、半ば目をそらすようしして、石田はナーシャのしなやかな肢体を盗み見た。その大部分は水着に覆われていたけれども、陽光を浴びて眩く輝く十六歳の娘の白い肌は一瞬息を呑むほどに美しくそして魅惑的だった。
「私ね、ずっと前から、一度石田をここへ連れて来ようって思ってたの。ようやく思いが叶って嬉しいわ」
「ほんとにいいところだとねえ!、この島の上ってけっこう広いようだけど、いったいどうなってるの?」
石田は内心の熱い慕いと動揺を押し隠すかのようにそう言った。
「この小島のことなら、私、隅から隅までよく知ってるわ。いまからすぐ案内してあげるわよ」
ナーシャはそう応じると大きく息を吸い、それから軽く胸を張った。水着の胸部を突き上げるようにして鋭く力強く盛り上がる二つの膨らみが石田の目にはなんとも眩しかった。見るからに毅然としていてまだ一度も男というものを近づけたことのない、だがそれでいて、男の手と唇の近づくのをいまや遅しと待ち焦がれてもいる清らかな乙女特有の矛盾の象徴そのものを、彼はそこに見る思いだった。
何をしようと人目につく心配などまったくないところだったから、その気にでもなればナーシャを意のままにすることなどわけもなかった。だがそれでもなお、彼はおのれの心を懸命に律した。映画の二枚目スターさながらの美男子だった石田は、東京でカフェバー勤めをしていた頃から女性にはずいぶんともてたから、むろん女性経験もそれなりにあった。だが、石田はこの十六歳の美しい娘に対してはこれまで常に紳士的に振舞ってきた。だからこの時も、彼は男の本性ともいうべき狼の牙を自ら剥くようなことはしなかった。力の弱い個体に対しては自らけっして牙を剥いたりすることのないという本物の狼にも似たその優しさが、彼女を大きくそして切なく包み込んでいたといってよい。
男はみんな狼だなどとよく言われるが、真の意味での狼の気質をもつ男であればあるほどに強い自制心をもつようになり、どんな相手に対してもすくなからぬ敬意をもって接するようになるものだから、心底愛するようになった女性に対してはむやみやたらに手を出すようなことはない。ところが、いっぽうの女性にすれば、そのことがつれない振舞いにも、また煮え切らない態度にも映ったりすることがすくなくない。二人だけになる機会がこれまでにも数多くあったにもかかわらず、常に石田が彼女に対して紳士的に振舞ってきたのは、彼がナーシャを掛け替えのない存在として深く愛するようになっていた何よりの証ではあった。
「ナーシャ、じゃ、ちょっと、この小島のなかの素敵なスポットを教えてくれるかい?」
彼女の胸や肢体のまばゆさに堪えかねた彼は、あえてそう促した。すると彼女はにこやかに微笑みながら、我が意を得たりとばかりにすぐその催促に応じた。
「いいわ、じゃ、あとについてらっしゃい。そんなに広くはないけど、眺めもいいし、松の木なども生えていてあちこちに木陰もあったりするから、のんびり過ごすには最高のところよ」
先に立つナーシャのなんとも俊敏な動きにちょっとした感動を覚えながら、彼はそのあとに続いた。
「この島の上、全体的には意外なほどに平なんだね」
「向こう側にむかってちょっとだけ傾斜していて、あちこちに大きな岩の凹凸はあったりするけど、全体は想像以上に平なのよね」
「島の周りはどちらの側も崖になってるんだよね?」
「そうなの……。黄海から寄せる荒波に削られて島全体が切り立った断崖に囲まれてるわ。さっきのところだけはなんとか登れるようになっているけど、それでもけっこう高さがあって危ない感じでしょ?」
「そうだよね……。なるほど、この島の上って、ナシャーの言ったとおりけっこう木が生えたりしてるんだ。磯辺からこの小島眺めてるだけじゃわかんなかったけど……」
「ほら、あの大きな岩を越えれば反対側に出るわ。けっこう眺めがいいのよ」
彼女のあとを追って表面の温もった大きな岩を越え、さらに小ぶりの岩と岩の間をすり抜けると、先刻二人で登ってきた崖とはちょうど反対側にある断崖上に出た。ちょっとした岩棚になっていて、心地よい潮風が岩角にぶつかるようにして下から激しく吹き上げてきた。波は穏やかそのもので、眼下にはかぎりなく青く透明な海面が広がっていた。近くには地元の漁船の影などもなく、はるか遠くの沖合いにかなり大きな貨客船らしい船影がひとつ見えるだけだった。
「見晴らしがいいでしょう、ここだったら大声でなにか叫んだって大丈夫だわ」
「そうだねえ、なんて叫ぼうか……日本軍部のバカヤローッとかね!」
「石田は軍隊嫌いなんだ?」
「うん、嫌いだよ。でもね、だんだん軍隊は嫌いだ、戦争は嫌いだっておおぴらには言えない雰囲気になってきているんだ」
「そうらしいわね。でもここだったら、思いきりバカヤローッて叫んだって誰にも聞こえないわ」
「ナーシャのお母さんは日本人だし、ナシャーも日本語とても巧くて日本人そのものだけど、お父さんはロシアの人だよね。お父さんとても素敵な人だけど、もし戦争がこれ以上ひどくなったりしたら、銀行だって閉鎖になり、みんなバラバラになちゃってナーシャとも会えなくなるよね」
このとき石田はその場の会話の流れからそんな言葉を軽い気持ちで吐いただけで、とくに深い思いをそれに込めていたわけではなかった。だが、その言葉を耳にした彼女の顔はこころなしか一瞬こわばったような感じであった。すぐにその表情はいつもの明るい笑顔に戻ったので、彼はそのかすかな心の翳りの裏に隠された深い意味を読み取ることはできなかった。
彼女は石田のそんな言葉にはとくに何も答えず、からかうような調子で言った。
「じゃ、私は、石田のバカヤローッて叫ぼうかしら……、石田には聞こえちゃうけどね!」
「おいおい、ナーシャ、なんで僕がバカヤローなんだい?」
「バカヤローだからバカヤローなのよ!……ふふふふふ」
あとで思えばなんともうかつなかぎりではあったが、悪戯っぽい笑顔と茶目っ気たぷりの口調の陰に秘める哀しい胸のうちと、それゆえの強い決意のほどに、彼はまだまったく気づいていなかった。心の奥の大きな痛みを抑え平静を演じることにかけては、十六歳のナーシャのほうが彼よりもはるかに上手ではあった。
沖を行く遠い船影に気づくと、彼女は言った。
「石田……、石田は船に乗ってたことがあるって言ってたよね?」
「うん、氷川丸っていう貨物船に乗ってタリーマンやってたよ。船荷の管理をする仕事をね」
「ふーん、それでどことどことへ行ったことがあるの?」
「横浜や小樽などの日本の港と台湾の港とを結ぶ航路だったから、基隆や高雄には行ったことがあるよ。そのあと天津の塘沽港にも寄るようになったから、天津周辺なんかもよく知ってるけどね。まあそんなところかな」
塘沽からの脱走劇のことが走馬灯のように彼の脳裏をよぎったが、もちろんそのことについては一切触れなかった。
「上海は行ったことある?」
「いや、一度行ってみたいとはいつも思ってきたんだけど、まだ行ったことがないよ」
「そうなんだ。あの船、上海にでも行くのかしら……。けっこう大きな船でしょう?」
「そうだねえ、大連からも上海行きの船がいろいろ出てるみたいだから、もしかしたらあの船も上海に行くのかもしれないな。でもなんで?……上海に行ってみたいわけ?」
「ううん、べつにね……。私は大連のこの老虎灘が大好きだから、上海なんか行くきたくない。石田は?」
「上海特急という映画などを見たせいでね、上海には昔から憧れてたから、やっぱりいつかは行ってみようと思ってる。でもね、いまはまだ大連に住んでいたいな……」
「私もね、上海ってどんなところかなっていつも思ってはいたんだけど……、でも、なぜかいまはもう上海なんかどうでもいいの」
ナーシャのさりげないそんな言葉をとくに変だとは感じることもなく、石田は軽く聞き流した。その言葉の背後に二重三重の含みが隠されていようなどとは、彼は想像だにしていなかった。