ある奇人の生涯

26. さよならも言わないで

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

たまたま三連休をとっていたため、石田は翌日も翌々日も出勤はせずに、読書をしたり音楽を聴いたりしながらのんびりと自宅で過ごした。ナーシャはどうしているのかなという思いが絶えず胸中を駆けめぐりはしたが、敢えて自分のほうから連絡をとることはしなかった。前日の夢かとまがうばかりの出来事を思い返すにつけても、気まずさとも気恥ずかしさともつかぬ複雑な心理がはたらいて、自分から彼女の家に電話をかけたりするのは気が引けたからだった。ナーシャのほうからなにか連絡はないものかと内心では期待はしていたが、彼女のほうからも二日間なんの音沙汰もなかった。きっと彼女も自分とおなじような気持ちでいるに違いないと想像をめぐらし、石田はおのれの心を慰めた。

小島での一件があってから三日目の朝、石田はいつにもなく緊張した面持ちで家を出た。老虎灘から大連の中心街にある勤務先の銀行へと向かう時も、いつもの時刻に乗る馬車と路面電車をわざとやりすごし、そのあとの馬車と電車に乗った。いつも乗る馬車や電車だと、かねがね親しくしてもらっているナーシャの父親イワノフと顔を合わせる可能性が大きかったからだった。なにも知らない彼女の父親からにこやかに朝の挨拶をされたりしたら、少なからぬ心中の罪悪感のゆえに、唯々戸惑い対応に窮してしまうような気がしてならなかった。

オフィスに着くと、さりげない様子でイワノフのデスクのほうを窺いながら石田は自分の席に坐った。意外なことに、盗み見るような彼の視線の先にイワノフ姿はなかった。時間にはとても几帳面なはずなのに今日はどうしたのだろうと思ったが、なにかの事情で急に休暇でもとったのかもしれないと考えなおし、彼はとりあえず一日の業務にとりかかることにした。イワノフの姿が見えないことに一瞬ホッとする反面で、もしかしたら彼女の身になにか不測の事態でも起こったのかという危惧が脳裏をよぎったが、彼はその二つの思いを胸の中で押し殺し、素知らぬ顔で業務に就いた。

何気なく近づいてきたアメリカ人支店長に信じ難い事実を告げられたのはその直後のことだった。支店長は、いささか躊躇いがちな口調ながらも、手短に、そしてはっきりと彼に向かって言った。

「Mr. Ishida……, I’m afraid I have to tell you something sad!(石田君、君に悲しい報告をしなければならいんだ)」
「What do you mean, sir ?(いったい何があったんでしょう、支店長?)」

悲しい報告をしなければならないと言われた石田は怪訝な顔でそう問い返した。

「Our able clerk, Mr. Ivanov suddenly left this office three days ago.(三日前のことなんだがね、有能な行員だったイワノフ君が突然会社を辞めてしまってね)」
「What ? ……, you’ve said Mr. Ivanov left the office ?(なんですって?……イワノフさんが辞職したですって?)」
ナーシャの父イワノフが突然銀行を辞めたと聞いた彼は、いくらなんでもそんなことがあろうはずがないとばかりに、相手の言葉を確かめなおした。すると、支店長は自分の言葉に間違いがないことを強調しきながら、さらに驚くべきことを彼に伝えた。
「Yes, I mean it, Mr. Ishida……. Mr.Ivanov and his family have already gone to Shanghai.(その通りなんだよ、石田君……イワノフ君と彼の家族はもう上海に行っちゃったんだよ)」
「They’ve left for Shanghai?……unbelievable!(あの人たちが上海へと向かったですって?……いくらなんでもそんなこと!)」

イワノフ一家はもう上海へと旅立ってしまったのだと話す支店長に向かって、石田は信じられないという表情を浮かべながら、半ば叫ぶような調子でそう言った。だが、支店長はそんな彼を宥めでもするかのような口調で言葉を継いだ。

「But it’s just true, Mr. Ishida!(でもねえ、石田君、それはね、まぎれもない事実なんだよ)」
「What happened to them? Why didn’t they tell me anythig about it ?(いったいあの人たちに何が起こったっていうわけですか?……それに、なんで僕にはなんにも話してくれなかったんでしょう?)」
「I think they were afraid of making you feel so sad, and so they’ve gone there without saying good-bye to you. They all loved you very much, I believe, Mr. Ishia.(きっと君をあんまり悲しませたくないって思ったんだろうね……、だから彼らは君にお別れの言葉も残さないまま上海に行ってしまったんよ。石田君、僕はね、彼らはみんな君のことが大好きだったと思うんだよ)」
「But……(でもそんな……)」

石田はそこまで言いかけて思わず絶句した。この時点に至ってようやく、彼には、老虎灘の小島でナーシャが何気なく吐いた言葉やさりげない振舞いの裏の意味がはっきりと読み取れたからだった。あの日の彼女の一挙一動はすべて計算し尽くされたものだったのだ。次の瞬間、彼の胸には遣り場のない悲しみがどっと込み上げ、その両目には涙が滲んだ。おのれの不覚を悔やんでみたが、もはやすべてがあとの祭に過ぎなかった。

しばらくしてなんとか気持ちを落ち着けた石田は、支店長や一部の同僚行員たちからイワノフ一家が上海へと旅立つまでの詳しい経緯を聞かされた。日中戦争が激化の一途を辿り、日米、日露関係なども日増しに悪化していくなかで、ロシア人のイワノフは、どうやらかなり以前からこの大連で働き続けることに少なからぬ不安を抱きはじめていたらしかった。日本政府の政策や日本軍部の意向が色濃く影を落としている大連にあっては、近い将来時局がいっそう緊迫化した場合、白系ロシア人のイワノフやその一家に弾圧や差別の手が及ぶことは目に見えていた。さらにまた、もしも日米開戦のような最悪の事態が発生した場合には、ナショナル・シティ・バンクそのものがこの大連からの撤収を余儀なくされるに違いなかった。

そのような事態に至ったら支店長ら米英人は母国へと引き揚げればよかったが、すくなくともイワノフ一家はそうするわけにはいかなかった。母国ソビエト連邦が東欧に侵攻してきたドイツに対し警戒を強めつつあったうえに、自由主義社会の空気を吸ったことのある海外在住ロシア人に対して厳しい思想弾圧がなされているのがスターリン政権下のソ連の実態だったから、たとえ帰国しても悲惨な運命が彼らを待ちうけていることは明らかだった。そんな状況下にあって、結局、イワノフは家族とともに国際都市上海へと移住する道を選んだのだというのだった。

上海に移住するため銀行員を辞めたいとイワノフが願い出たのは二十日ほど前のことだったらしいが、親交のある石田らにはそのことは内密にしておいてほしいととくに支店長に頼んだのだそうだった。どうせお互い悲しい思いをするのなら、せめて直前まではこれまで通りに親しい友として楽しく愉快な日々を送り、上海へ向かう日がきたら見送りもなにも一切うけずに家族だけで黙って大連を去るようにしたいというのがイワノフの意向だったのだ。石田にすればどうにも居たたまれない思いだったが、それはイワノフ流の男の美学とでも言うべきものだったのだろう。

衝撃的な事実を知らされて、石田の胸中は乱れに乱れた。これまでにもいろいろな経験積み、父親の死など大小いくつかの悲しみを乗り越えてきた石田だったが、そのときの心の痛みはそれまでの人生では味わったことがないほどに激しく辛いものだった。当然のことだがその日はほとんど仕事が手につかなかった。愛おしいナーシャの面影と激しく狂おしい小島での一日の想い出が、いつ果てるともなく、繰り返し繰り返し彼の脳裏を駆け巡った。

その実務能力と冷静沈着な仕事振りを高く評価され、アメリカ人支店長からいまや最も信頼される行員となっていた彼も、この時ばかりは失恋の痛手におのれを忘れて悲しみ悶える一介の青年に過ぎなかった。

どうみても仕事にはならなかったその日の業務をなんとか終えると、石田は大急ぎで老虎灘の自宅へと戻った。そしてすぐさま普段着姿に着替えると身を焦がすような想いで独り無人の磯辺へと降り立った。晩夏の夕日のなかで静かに輝く海も、さわさわと磯辺に寄せ来る青潮も、そして前方に浮かんで見えるあの岩の小島もみな先日のままだった。だが、あの愛くるしいナーシャの姿を探し求めることだけは最早できない相談だった。せめてその影でさえもと念じてみたが、所詮それは虚しい願いに過ぎなかった。力なく磯辺を歩きながら、石田はナーシャの内心の想いを読み取れなかったおのれの不覚を悔い悲しんだ。

あとになって思えば、あの日のナーシャの言動の一つひとつがなんとも暗示的であった。小島の断崖の上から沖を行く船を見ながら、「上海は行ったことある?」とか、「あの船上海にでも行くのかしら……。けっこう大きな船でしょう?」とか尋ねかけてきたナーシャの言葉の裏に込められた想いにもっと早く気づくべきであった。「上海に行ってみたいわけ?」という自分の問いかけに、「私は大連のこの老虎灘が大好きだから上海なんか行きたくない。石田は?」とさりげなく答えたナーシャの姿が、いまとなってはこのうえなくいじらしかった。

おそらくナーシャは潮が大きく引いたときにはあの小島の断崖を降りることができなくなるのも計算済みだったに違いない。自分との最初で最後の愛の一日を永遠に忘れ難いものへと演出するため、ナーシャは内なる悲しみをこらえつつ知恵のかぎりを尽して自分をあの場所に誘ったに相違ない――そう振り返る彼の胸はただもう張り裂けんばかりであった。はじめて唇を重ね合ったとき彼女の頬を伝い流れた涙の意味を悟れなかった己の無神経さが返すがえすも恨めしかった。

遣り場のない悲しみにくれながらとぼとぼと磯辺を伝いに歩くうちに、彼は二人だけの想い出の地となった小島のそばにやって来ていた。海を挟んで浮かぶ小島の断崖は折からの夕陽を浴びて黄白色に輝いていた。先に立って崖を攀じ登るナーシャの姿をあらためて偲びやりながら、彼は再び深い想いへと沈んでいった。

汚れなき処女から一人の妖艶な女への脱皮を決意し、その舞台に眼前の小島を、そして脱皮の儀式に不可欠な相手にほかならぬ石田を選んだナーシャは、一世一代の儀式の果てに永遠の別離が待つことを承知で狂おしく燃え立ち、少女への訣別を図ったのだった。それが男との初めての交わりであるとは信じられないほどに喜び悶え、自ら挑むようにして繰り返し繰り返し石田の愛撫を求めたのも、すべての事情が明らかになってみれば至極当然のことではあった。おそらくは両親のイワノフ夫妻もナーシャの石田に寄せる思慕の深さを知っていて、上海への旅立ちを前にした最後の一日に賭けようとする娘の姿を黙認していたのではないかとも推測された。

そんなことだと知っていたらナーシャにも、そしてイワノフ夫妻にも、もっともっと心のこもった対応をすることができたのにと嘆いてみたが、どんなに後悔してみても最早どうにもならないことだった。支店長にさえ上海の移転先を告げずに大連を去ったイワノフ一家にしてみれば、よほどの決意と覚悟とがあってのうえのことだったに違いなかった。

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