青島ビールなどでも知られる青島は衣食住の環境にもずいぶんと恵まれていて、実際に暮らしてみると想像していた以上に過ごしやすいところだった。青島市街やその郊外周辺の様子も一通りのみこめ、新しい生活のリズムにも慣れてくると、それをみはからいでもしていたかのように、ベティは石田にちょっと風変わりな人物を紹介してくれた。懐かしそうに彼が語ってくれたその人物にまつわる話はなかなかに面白かった。
「そうこうするうちに、ベティから大阪屋さんを紹介されたんですよね」
「大阪屋っていうと、デパートかなんかのことですか?」
「いやあ、そうじゃなくて人間なんですよ」
「はあ?……てっきりお店かなにかの名前だとおもいましたが……、でどんな?」
戸惑いながらそう問い返すと、石田は愉快そうに笑いながらその人物のことを詳しく説明してくれた。
「大阪出身ということで大阪屋を名乗ってたんでしょうかね。興行師、いわゆる香具師の大親分でしてね、青島のあちこちに旅館なども経営していました」
「ありゃま……船員からこんどは香具師の子分に転身ですか!」
「ははははは……、でもねえ、単なる子分っていうわけじゃなかんたんですよ」
「じゃ、いきなり幹部クラスにでも?」
「ベティの口利きに加えて、一応は旧制高校卒業の学歴もあり、ある程度語学もでき経理の知識もあるというわけでしたから、結局、その香具師の大親分の秘書になったんです」
「美人秘書じゃなく美男秘書ですか……、なんだかちょっと場違いなような?」
「いやいや少しも場違いなんかじゃありませんよ。はまり役でしてね……なにしろ文字通りに大阪屋さんの右腕になったんですからね!」
そう言って悪戯っぽく笑う石田のほうを少々困惑顔で眺めやると、相手はここぞとたたみかけるように言葉をつないだ。
「なぜって、その大親分は実際に右腕がなかったんですよ。出入りが原因で右腕なくしたらしいんですがね……、まあそれはともかく、なかなか面倒見のいい人でしたね」
「ははははは……、正真正銘の右腕っていうわけですか!……、でも石田さん、もしもその人物の欠けたほうの腕が左腕だったら、そううまくは務まらなかったかもしれませんね」
私は半ば笑い転げならがそう応酬した。
「まあ、香具師連中の総元締めの秘書としていろいろな書類を作ったり、各方面との交渉や契約に携わったり、会計を担当したりしましたよ。秘書になってしばらくすると、すっかり信用されるようになりましたから、当面の生活にはまったく困らなくなりました」
「いやあ、いくらドサクサまぎれとはいえ、石田さんがそんな変った仕事についたことがあったとは意外でしたね。会計担当っていうことは、要するに金庫番もやってたっていうことですよね」
「金庫番は大袈裟でしょうが、まあ、似たようなものだったんでしょうかね」
「天津の中国人女性に盗られてしまった分の大金を、青島の香具師の親分の金庫からちゃっかり取り戻すなんてことは考えてみなかったですか?」
「いやあ、それは考えませんでしたよ。発覚して両手落ちなんぞにされてしまったらたまったもんじゃありませんからね。それに、そんなことをしなくても十分生活は成り立つようになっていましたからね」
「日中戦争が激化せず、すべてがそのまま順調にいってたら、そのうち香具師の石田親分なんぞが誕生していたかもしれませんね」
「そしたら、あんたに秘書になってもらって、いまごろは跡目相続なんかをしてもらったりしていてねえ」
「でも石田さん両腕があるから、右腕にも左腕にもなれませんよね」
「それならせめてこの右足にでもなってくれれば……」
時々痛みが走って近頃思うように動かせなくなってきているとかいう右足を擦りながら、相変わらず石田は軽口を叩き続けた。
「それはともかくとして、そんな秘書生活ばかり送っていてとくに退屈ということはありませんでしたか?」
「いや、実を言うと秘書としての事務的な仕事ばかりやっていたわけじゃないんですよ」
「じゃあ、大親分の右腕がわりになって大立ち回りにも一役買ったとか?」
「ははは……、いくらなんでもそれはねえ。そんなことになっていたら、いまごろこうして生きてなんかいませんよ」
「とするといったいほかにどんな仕事を?」
「いろいろな興行などで、ハンドマイク片手に呼び込みやアトラクションの実況解説なんかもやってましたね。言葉巧みに客引き文句を並べ立てたりしましてね」
「お祭りのときなんかによく見かける見世物小屋のあれとおんなじような?」
「そうそう、まさにあれとおなじですよ。さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、いまこれを見そこなったら皆さん一生後悔するよ!――なんて調子でね。でも、はじめはさすがに気恥ずかしかったですね」
「石田さんは博多の芸人町で育ったっていうお話でしたから、もともと十分にそんな資質があったんじゃないんですか?、それに、青島でのその経験がずっとのちになって、イギリスのBBC放送でのアナウンサーの仕事に活かされたとかいうことだって?」
イギリスにおけるずっとのちの石田の活躍ぶりについて断片的ではあるがそれなりには知っていたので、少々意地悪だとは思ったがあえてそんな質問を浴びせかけてみた。
「うーん、それはあるといえばあるような、ないといえばないようなものなんですが……」
「それで、具体的にはどんな風な興行をやってたんですか?」
「たとえば、伊勢志摩地方の海女さんなんかを連れてきて、大きな水槽の中で真珠採りの実演なんかをやらせるわけですね。日本人と中国人両方のお客を呼び込んでおいて、歯の浮くような解説文をもっともらしい調子で読み上げるんです。すると、それを中国人の通訳が、中国語に同時翻訳して聞かせるわけです」
「なかなかのもんじゃないですか!……、でその海女さんの真珠採りの実演は好評だったんですか?」
「ええ、なかなかのものでしたよ。とくに中国人たちにはとても珍しかったようで、ずいぶんと見物人も多かったです」
「最後には水槽に銀貨かなにかが投げ込まれたりしたんじゃないですか?」
「そうそう、そんなこともたまにはありましたね」
「石田さんが海士になって伊勢志摩の海女さんと一緒に潜るなんてことは……まあ、いくらなんでもなかったんでしょうね」
「それはあなた、たとえ僕が泳ぎが得意だったとしても、フンドシや海パン姿じゃとても絵にならないでしょう!」
「絵はもちろん金にさえもなりませんよ、そりゃ!」
「それでね、メインの催し物のある周辺には他の香具師仲間が集まって、チマチマした出し物を並べて一斉に興行を行うんですよ。まあ、一種の相乗効果を狙って雰囲気を盛り上げようってわけですね」
「そのへんは日本のお祭りの興行とおんなじですね」
「興行地のすぐそばには日本人向けのダンスホールもありましたが、そこでは浴衣を着てハワイアンを踊ったりもしてましたよ。いま思うとなんだか妙な取り合わせでしたけれどもね。ハワイアンじゃなくってジャパニアンというか……」
「そうだったんですか。なんだか異国での興行ならではの特別な雰囲気が感じられますね。叶うものなら一度見てみたかった――とは言っても、その頃僕はまだ生まれてませんけどね」
「まあ、香具師の興行が順調にいってるときはいいんですがね、そういかなくなることもままありましてねえ。青島というところはよく大雨が降るところで、とくに日本が梅雨の季節を迎える頃にはむこうも一ヶ月以上にわたって雨が降るんですよ。その年の雨はとくにひどくてねえ……」
「やっぱり雨が降ると興行はうまくいきませんでしたか?」
「洪水が起こるほどの降りかたでしたから、ぱったりと客足が止まってしまうんですよ。すると香具師連中はやることがなくちゃうから、毎日毎日、猪・鹿・蝶の世界にいりびたるわけです。もちろん、お金を賭けてですよ……。僕は花札が好きじゃなかったから、もっぱら入口のところに立って警察がやってこないかどうか見張る役目をしてましたけどね」
「じゃ、毎日毎日フラワーカード・パーティのガードマンをやってたんですね……ははははは、それで大雨はおさまったんですか?」
そう茶化しながらさらに話の先を促すと、再び石田はその後の経緯を面白おかしく語りだした。
「この年の大雨はとくにひどかったうえに、一ヶ月以上続いた雨がやんだあとも一帯は赤土が多いため川口の水がひどく濁ったんです。海女の実演用の大水槽には川水を使ってたんですけど、ひどい濁りをとるため浄水用のミョウバンをいくら入れても水は澄んでくれない。結局、興行は不可能になり、香具師グループもいったん解散せざるをえなくなってしまったんです」
「香具師たちも花札どころじゃなくなったわけですね」
「そうそう、それで僕は大阪屋の事務処理を手伝うかたわら、家具店で店員をやったりもしはじめたんですよ」
「まさか怪しげな家具売ってたわけじゃないんでしょうね?」
「ははははは……、そこはドラキュラ家具店じゃなかったですから、商品はまともなものでした。まあ、それはよかったんですが、そのときになってやっかいな問題が持ち上がったんです。日中戦争がますます激化してきましてね、青島のある山東半島は軍事上の要衝であるため軍部もその確保に懸命になりはじめたんです。そんな要衝ですから、中国側のゲリラによる襲撃などが起こるだろうことも予想もされ、青島周辺に住む民間日本人の安全は保証されなくなってきていました」
「それで退去命令が出たわけなんですね。せっかく青島に落ち着きかけたのに、石田さんにとってはまた計算違いの事態になってしまった……」
「そうなんですよね、民間人は日本へ引き揚げろという強制退去命令が出されました。貨物船から脱走してまだ一年も経ってない頃のことですから、いくらなんでもこのままおめおめと日本に帰れるかと思いましてね」
軍部の打ち出した青島からの民間人強制退去命令はすっかり石田を困惑させた。そのまま日本に戻ったのでは元も子もないばかりでなく、運が悪ければ氷川丸からの脱走による職場放棄の責任を追及されるおそれさえもあった。そんなわけだから、なんとしても彼は中国のどこかに当面の退避場所を探し出さねばならなかた。上海へと向かいたいのはやまやまだったが、鉄道や船舶による青島から上海方面への交通にはすでに厳しい規制が敷かれてもいたため、それは叶わぬ話であった。切羽詰った状況に追い込まれ身の振り方に迷う彼に願ってもない話を持ち込んできてくれたのは、ある香具師仲間の男だった。