どのくらいの間眠り込んでいたのかは定かでないが、突然ハッと目が覚めた。列車が駅に停まる直前の微妙な振動の変化のためか、プラットフォームから聞こえてくる駅員の大声のせいであったらしい。石田の意識が覚醒しはじめたとき列車はすでにプラットホームに停っていた。高らかに駅名を伝える駅員の声が流れてきた。彼の耳にはその声が「タンクー、タンクー」と連呼しているように聞こえた。
――タンクーというからにはここは塘沽に違いない、列車は南に向かって走っていたから、もう一度塘沽を通過するのは当然だ――そう考えた彼は無意識のうちに身を縮め、両眼だけを皿のようにしながら薄暗いプラットホームの様子を窺った。
その時、窓越しにプラットホームの上をコツコツコツと急ぎ足で歩く靴音が響いてきた。なんだか聞きなれた感じの靴音だった。さりげなくそちらのほうに視線を送ると、列車からすこしばかり離れたところを何度も往復する一人の男の姿が目にとまった。それは背の低い小太りの男だった。次の瞬間石田の心は動顛した。
――あれはもしかしたら事務長では?、いや、まさかそんなはずはない!、でも確かにあれは事務長だ、乗っていた船の事務長だ!……なんでまたあの事務長が?――柄にもなく石田は大パニックに陥った。
――青二才の自分を人一倍可愛がってくれた事務長、海の話をはじめとしいろいろなことを教えてくれたあの事務長が無分別に船から脱走した自分の身を案じてわざわざ駅まで捜しにきてくれたのだろうか?……それとも、冗談のつもりであのとき脱船の手口をほのめかしたことがこの結果につながったとその責任を感じ、必死になって捜索に出向いてきたのだろうか?――あれこれと想像をめぐらす石田の胸はとめどもなく動揺した。
「いっそうのこと、すぐにも下車してごめんなさいと謝るべきだろうか。でもそうしてしまったら、折角脱船した意味がないからやはりこのまま行ってしまったほうがよいのではないか――とまあ、ハムレットなみに思い悩みましたよ」
なかなか決断がつかず迷いに迷ったそのときの心理状態を、石田はまるでもう一度その場に戻りでもしたのような昂揚を見せつつそう語った。
「結局、どんな決断をしたんですか?」
そのまま列車に乗り続けることにしたのだろうと予想しながら話の続きを促すと、彼は意外な答えを返してきた。
「いやね、ここまで心配してくれるんじゃ、やっぱり素直に謝っていったん身柄を事務長に委ねることにするかって決心したんですよ。それで腰掛けていた上段ベンチから急いで飛び降りたんです」
「えっ、ほんとにそうしたんですか?……信じられない!」
「ところがですね、飛び降りた瞬間、よろよろとして通路の床の上にいた三、四歳くらいの男の子の足をもろに踏みつけてしまったんです。男の子はギャーアッて悲鳴をあげ、火がついたように泣き出してしまいました」
「そりゃ、まるで計算外のことですよね。困ったでしょう?」
「慌てた私は、ゴメン、ゴメンと日本語で謝りながら、子供の足を懸命にさすってやりました。周囲の人たちは皆私たちの様子を眺めていましたが、悪意のある視線ではありませんでしたね。子供も泣きやんで皆もほっとしたみたいでした。そこで私は昇降口に向かおうとあらためて立ち上がりかけました」
「列車から降りようと?」
「ええ……。ところがなんと、その瞬間、発車を告げる機関車の鐘がカランカランと鳴りだしたんです。大慌てで昇降口に駆け出そうとしましたが、混雑のために思うようには動くことができなくって、そうこうするうちに列車が走りだしてしまったんですね!」
「あれまあ、なにが幸いするかほんとうにわからないものですねえ」
「そうなんです、それでその後の私の人生は決まってしまったんです」
「結果的に脱走は成功したというわけですね!」
「ハハハハハ……」
「でもねえ石田さん、いくら事務長が寛大な人だったとしても、船長やボースンほかの乗組員の手前もあったでしょうし、国家総動員令の発せられたのちのことでもあったようですから、そこで降りていたら職場放棄と脱走の罪で処罰されていたかもしれませんよ。いずれにしろ危機一髪だったってわけですよね」
「それがねえ……、あとでよくよく考えてみると危機十髪くらいだったかもしれないんですよね」
「はあ?」
その言葉の意味を即座には解しかねてそう訊き返すと、石田は笑いながらあらためて言わんとするところを説明してくれた。
「最近なにげなく中国の詳しい地図を眺めていて気づいたんですが、北京から天津、済南を経て上海へと向かう鉄道は塘沽を通過しないんですよね。そうだとすれば、私が塘沽だと思った駅は途中のべつの駅だったことになります。もしもわたしがあの駅で見かけた人物がほんとうに事務長だったとすれば、彼はわざわざ私を探しに塘沽からかなり離れたところまでやってきたことになるんです。冷静になって考えてみると、まさかそこまではやらなかっただろうとね。実際には人違いだったんでしょうが、脱走の途中ということで心理的にもひどくナーバスになってたんでしょう」
「石田さんでも心理的パニックに陥ったことがあったんですね、いまの姿からは想像もつかない話ですけどね。もしかしたら人違いじゃなかったかもしれませんよ。塘沽港の船のほうじゃ大騒ぎになっていたでしょうから、全員で手分けしてあたり一帯を捜しまわっていたとか……。それに連帯責任ということもありますしね」
「何かの事故に遭ったものなのか、それとも意図的な脱走なのか船の者にははっきりとはわからないわけですから、そりゃ大変だったでしょうね。ずいぶん迷惑をかけたんだろうなとは思います、氷川丸の運航そのものにもね。タリーマンは重要な仕事でしたから……」
「石田のバカヤローッとか船員たちが叫んでいたかもしてませんね」
「人生ってごく些細な偶発事によって左右されることがあるわけで、あとで考えてみるとなんだか馬鹿にされたようで腹も立ってくるのですが、でもまあ奥が深いといえば確かに奥が深いともいえますね」
「ともかくも塘沽の真っ赤な夕日に全責任を転化した石田さんは、足を踏みつけてしまった幼児の鳴き声に救われて済南経由で再度青島行きを決意することになったわけですね」
「そうそう、そこであたらめてもう行くしかないと開き直り、当初の予定通り青島へと向かうことにしたんですよ」
そこまで話すと石田はしばらく押し黙り、その間に一杯の紅茶をすすって喉を潤した。そんな老翁の様子をさりげなく眺めやりながら、私は若い頃のその姿にあらためて想像をめぐらせた。素晴らしくハンサムでスタイルも抜群だが、かなり自己主張の強い、小生意気なナルシシスト気味の青年で、一見したところでは内向的だがそれにもかかわらず志向性はきわめて強い――それが心中で密かに想い描いた青年期の石田像であった。
私の知る晩年の石田には、他人を交えて談笑するときも、常に話題の中心となるのが自分に関する事柄や自分のよく知る範囲の物事でないと気がすまないようなところがあった。それはこの人物にまたとない魅力をもたらす長所であると同時に、気の合わない人から嫌われる理由ともなる最大の短所でもあった。半ば冗談まじりに石田のそんな一面をこちらが指摘したりすると、彼自身もそのことをはっきりと自認していたものだから、若い頃のその人物像についてのそんな推測はそう的はずれではなかったに相違ない。
もう引き返すことができないと悟った石田は、済南(チーナン)で山東半島方面行きの列車に乗り換え、当時多くの日本人の住んでいた青島へと向かった。所持金を騙し盗られ上海までの旅費が足らなくなったがゆえの不本意な青島入りだったが、黄昏の空のもとに広がる青島の街並みはそんな石田を慰めいたわるかのようにして迎え入れてくれたのだった。偶然の成り行きとはいえ、魔都と呼ばれた上海に直接向かわずこの風光明媚な青島の地を訪ねることになったのは、のちのちの彼の人生にとって結果的には幸いした。だが、気まぐれな運命の仕組んだそんな人生ゲームの行く末をこの時の彼が知ろうはずなどむろんなかった。
黄海に臨む膠州湾の東に位置する青島は、石田が想像していたよりもはるかに文化的で詩情にあふれ、しかも驚くほどに美しく整然とした港町であった。一八九一年、清の北洋艦隊が膠州湾を基地にした際に青島の町の建設がはじまり、その六年後の一八九七年に山東半島を侵攻したドイツが同地を租借地とすると、その一帯の統括支配を強化するために欧州風港町としての市街整備が大々的に進められた。個々の民家や街路は当時のドイツの町をそのまま模して構築されたため、石と煉瓦造りの赤い屋根の家々が海を見下ろす緩やかな傾斜地に整然と立ち並び、しかもそれらの街並みは豊かな樹々の緑や海の風景と見事なまでの調和をみせてのび広がっていた。ドイツ人たちによる青島の町の建設は、徹底した自然との融合を念頭に入れながら計画的に行なわれたため、その景観は当時からたいへんに素晴らしいものだったようである。
一九一四年にサラエボでオーストリアの皇太子フランツ・フェルナンドが暗殺されたのが契機となって第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟を結んでいた関係で英国は日本の参戦を求めてきた。そして、それを中国大陸への勢力拡大の好機だと判断した日本政府は、青島周辺に要塞を築き守備についていたドイツ軍の攻撃を開始した。艦船七十余隻に二万人の軍勢をもって攻める日本軍に対してドイツ守備軍は同盟国オースリア・ハンガーリー帝国の巡洋艦一隻とその兵員四百人を合わせた四千四百名の寡勢で立ち向かい、二ヶ月余にわたって果敢に善戦したがついに敗れ、以後青島は日本の支配下に入ったのだった。
この戦いに参戦したオーストリアの巡洋艦カイゼリン・エリーザベト号(皇后エリーザベト号の意)に関してはちょっとした逸話がある。暗殺されたフェルナンド皇太子は一八九三年に三週間にわたって日本を訪問したことがあったが、そのときのお召し艦だったのがほかならぬこの巡洋艦カイゼリン・エリーザベト号であった。しかも、運命の皮肉はそれだけでは終わらなかった。
一九一四年にも日本を親善訪問したこの巡洋艦はそのあと上海へと向かい同地に碇泊していたが、たまたまその時に第一次世界大戦が勃発した。当時オーストリアはドイツと同盟関係にあったため、カイゼリン・エリーザベト号は急遽青島に移動してドイツ軍と合流、親善訪問したばかりの日本の軍隊と戦闘をしなければならないという予想外の事態に遭遇した。結局、同巡洋艦は青島沖で自爆沈没し、艦をあとにした四百名の乗組員は上陸してドイツ軍とともに要塞にたてこもり日本軍と戦った。
日本軍に敗れ捕虜となったドイツ人とオーストリア人たちは日本各地の捕虜収容所に移送され、それから五年間ほどわたって捕虜生活を送ったあと釈放された。その捕虜たちの中には洋菓子バウムクーヘンで知られるユーハイムの創立者であるユッフハイムなどのような人物もふくまれていたという。解放されたあと、ユッフハイムは横浜でユーハイムを開店、その後同店は神戸の三ノ宮に本拠を移したのだそうである。
第一次大戦にともなう日独戦の際にも青島の町はドイツ人によって建設された当時の姿のまま無傷で残り、第二次世界大戦終了にともない日本の支配から解放されたあとも美しい街並みは昔のままに保存された。その後、人口七百万の大都市にまで発展した風光明媚な青島やその一帯は現在も中国有数のリゾート地となっている。
ともかくも石田はそんな青島の駅に降り立った。ポケットの中にはもう小銭一枚さえ残っていなかった。それからどうするかなどまるで考えていなかったし、また考えようにも考えられるような状況でもなかったが、天津などと違って駅の構内を行き来する人々には日本人の姿が数多く見られ、また、いろいろな案内表示などにも日本語が多用されているのはせめてもの救いであった。とりあえず言葉が通じ周辺の状況が読み取れるということは、そのときの石田のおかれている切迫した状況からするとたいへんに心強いことであったからである。