ある奇人の生涯

42. 大使秘書が賭博場の用心棒を!

絵・渡辺 淳

絵・渡辺 淳

結局、石田が第二の仕事として選んだのは、あの歓楽街大世界の一隅にある賭博場の用心棒であった。もっとも、用心棒とはいっても、ドスや銃器類を隠し持っていていざというときに身体を張って賭博場の親分を死守するあのヤクザまがいの用心棒ではなかった。賭博場をめぐって客と店との間や客同士の間に起こる大小のトラブルに割って入り、話し合いをもって穏便に処理したり、官憲の調べをあらかじめ察知して賭博関係者の逮捕を防いだり、急な手入れに備えて周辺を見張ったりするのがその仕事内容だった。

「いくらイタリア大使館があってなきがごとき状態になっていたとしても、大使秘書と賭博場の用心棒とを兼務したとは驚きですね!……どうやってそんなところへ?」

取材の際、当時の話を聞きながらこちらがそう尋ねてみると、老翁は悪戯っぽい笑みを湛えながらも、静かな口調でそのへんの事情をかなり詳しく語ってくれた。

「いまの時代からすると信じられないことかもしれませんがね、当時の上海の政治や経済の情勢からしますとね、もう仕事の種類に貴賎などの差別をつけておられるような状況じゃなかったんですよ。詰まるところ、支配する立場と支配される立場があるだけでね……。過酷な支配を受けていた中国人らは、日本軍部とつながりのある一部特権階級を除いては、その苦しい時代を生き抜くために、善悪を超えて知恵を働かせその身を守り続けなければならなかったんですから」
「それはたぶんその通りだったんだろうとは思いますが、そうは言ってもあまりに大使秘書と賭博場の用心棒とではかけ離れているような……」

なお納得がいかないでいるこちらの口振りをまるで諌(いさ)め諭しでもするかのように石田翁は言葉を続けた。

「いいですか……、かつてのフランス租界だって英米租界の場合だって、結局、各国の領事館当局は、賭博や麻薬売買、売春などの胴元である紅幇や青幇などの中国人大親分と裏で密接な関係を持ち、莫大な利益の分け前を本国へと持ち返っていたんです。当時の上海の繁栄というものは、表面的には別物に見える各種金融業や貿易業、ホテル業、飲食業、サービス業の発展、さらには文化芸能関係の興行等の隆盛を含めて、すべてが賭博、麻薬、売春と表裏一体の関係にあったんですよ」
「じゃ、日本語学校の経営も、ドイツ・アルバイト・フロントやドイツ企業支社の顧問も、大使館秘書も、そして賭博場の用心棒も、本質的には大差などなかったとでも?」

まだ十分には納得がいかない思いでさらにそう問いかけると、

「ちょっと極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、すくなくとも当時の私の目からすると、そういうことになりますかね。フランス租界や英米租界までが日本軍部とその傀儡政権とによって支配されるようになってからというもの、表向きは賭博、麻薬、売春などに対する取締りが厳しくなりはしましたが、それは中国人筋や日本以外の外国人筋にその利益の多くが流れるような場合で、結果的に日本に莫大な利益が還流するようなケースには目をつむったままでしたからね」と老翁は答えた。
「結局、公衆道徳や社会生活の健全化というのは建前で、要は利権を握ることだけが狙いだったということですね」
「そうなんですよ。官憲による賭博場の手入れだって、賭博そのものをやめさせるというよりは、現場を急襲し捜査という名目でその場にある金品や客のもつ所持金、宝飾品類を根こそぎ持ち去り、それで私腹を肥やそうというのが当局関係者の本音だったわけですから……」
「それで、石田さんはどんな筋の賭博場の用心棒をやったんですか?」
「たぶん青幇傘下の中国人親分が仕切る賭博場だったとおもいます。日本語学校を経営していた頃からの付き合いでなにかと気心の知れた中国人が何人もいましたので、彼らに紹介してもらいその仕事場に潜り込んだんです。出入りするお客には中国人のほか、日本人もずいぶんいましたよ。日本人客には結構有名な芸能人や宝塚から流れてきた元関係者などもいましたね。そのほかに、ユダヤ人やロシア人などの姿もかなりの数見られましたよ。その賭博場の儲けがどこにどう流れていたのかまでは私の知るところではありませんでしたけれどもね」
「賭博そのものをやったととかいうなら話はわかるんですが、それにしても、賭博場の用心棒というのはまたどんな風の吹き回しで?……、ヤクザなみに身体を張っての用心棒ではなかったとはいっても、やっぱり石田さんのいまの姿とはどうしても結びつきませんが……。まさか、英語やドイツ語で啖呵を切る必要があったわけでもないでしょうにね?」
「東京でのカフェバー勤めや青島でのダンスホールの裏方のような仕事、さらには香具師の大親分の秘書など、それまでにも世の中の裏の世界にかかわる仕事をやって生き抜いてきてますからね、賭博場の用心棒という仕事にもべつだん偏見などありませんでしたよ。中国人なんかはとくに、みんな必死でその苦難の時代を生きていたわけなんですからね」
「どんな賭博がおこなわれていたんですか?……、石田さんも賭博でちょっとは儲けたとかいうことも?」
「賭博場では様々な種類の賭けがおこなわれていました。現代においてもよく見られるような西洋式の賭博もあれば、サイコロ賭博や花札といったような日本風の賭博などもありましたね。ただ、私自身は競馬とドッグレース以外の賭け事は嫌いでしたから、自らそれに手を染めることはありませんでした」
「じゃ、もっぱら見張り役とトラブルの調停役だったということですか?」
「ええ、そうですね。それとね、開戦直後からは事実上日本人が上海を牛耳っていたわけですから、賭博場に日本人の見回り役がいるというだけで、お客にはもちろんのこと、組織の異なる中国人や他の外国人系の裏社勢力にも警戒心がはたらいたんですね。だから、変な騒動が起ったりすることがあまりなくですんだんです。それからもうひとつ、日本人が賭博場にいるということだけで、日本人や外国人の金持ちのお客たちが安心して出入りできるという利点があったんですね。そうやって上客が顔を出してくれれば、賭博の胴元としては願ったり叶ったりですからね」
「なるほど、それじゃ、石田さんは睨みをきかしながら賭博場や賭博場のある大世界界隈を歩きまわっていたんですね。それで、黒いサングラスなんかかけてですか?」

穂高駅前で初めて声をかけられたときの石田翁のどこか凄みのあるサングラス姿を想い起こしながらそう問いかけると、一瞬、相手はこちらの予想を裏切って申し訳ないとでもいったような笑顔を見せながらさらに答えた。

「いやいや、サングラスなんかかけていませんでした。にこやかな顔を見せながら、あくまでも紳士的に振舞ってましたよ。ここは安心して賭けに興じることができる場所だとお客におもってもらえるようにとね……。欧州のカジノだって、ラスヴェガスのカジノだって名の通った賭博場というのは、お金は動くけれど見るからにいかがわしいっていう感じはしませんよね。当時の上海の賭博場は欧米人の影響を受け、それなりに洗練されていましたから、日本風のサイコロ賭博や花札賭博やる場合だって大テーブルを前に腰掛けてやっていたわけで、日本のヤクザ映画に出てくるような異様な雰囲気はありませんでしたよ」
「なるほど、言われてみるとそれはそうですよね。僕もラスヴェガスの賭博場は一、二度のぞいたことがあるんですが、暗い感じなどまったくありませんものね。現代のラスヴェガスなんて、アメリカで一番安全なところだなんて言われたりしているくらいですから」
「それとね、身長が一七六センチある僕は当時の日本人としては、そしてまたアジア人としては珍しいほどに大柄でしたから、そのことだけで賭博場に出入りする人々に無言の威圧感を与えてはいたようですね。べつに武術のたしなみがあるわけでもありませんでしたし、武器を隠し持っているわけでもありませんでしたから、ほんとうに殴り合いの喧嘩なんかになったらコテンパンにやられていたでしょうね」
「なるほど……、用心棒の石田さんは強そうに見えたけど、実は張子の虎だったというわけですね。ただ、相手が勝手に強そうだと思い込んでくれたおかげで、カジノ仕込みのポーカーフェイスを貫き通し、結果的に張子の虎でも役に立ってしまったと……」
「ははははは……、まあ、そんなところですね。ただ、官憲による手入れの情報や、警察の回し者などについての情報は、それまでにいろいろな方面と付き合いがあったせいでいちはやく入手することができました。まあ、もちろん袖の下を渡してのことではありましたんですけど、ともかくそのおかげで何度もうまく捜査の手を逃れることはできました」
「それで、用心棒の報酬のほうはどうだったんでしょう?、『用心棒』の芯の部分が実のところ空洞になっていたっていうわけですから、バレたりしたら目も当てられないことになっていたんでしょうが……。喧嘩の弱い用心棒じゃ、次ぎから皆になめられて仕事になんかなりませんものね?」

こちらの意地悪な問いかけにも石田翁は悪びれることなくたんたんと答えてくれた。その表情はむしろこちらの質問に応じることを心から楽しんでいるかのようでさえあった。

「幸いというか、最後まで化けの皮は剥げなくてすみましたんで、生活していくには困らないほどの報酬はもらえました。それに、賭博場はなんと言っても夜が仕事の主たる時間帯で、みな適当に食事を取りながらお客の相手を務めるわけですから、夕食代なんか自分で払うことはまずありませんでしたね」
「でも、賭博場の仕事は結構夜遅くまであったわけでしょう。たとえ張子の虎なみの中身が空洞な見かけだけの用心棒だったとしも、賭博場の営業が終わるまでは帰るわけにもいかなかったんでしょうね。翌朝の大使館出勤に響かなかったんですか?、いくら開店休業状態の大使館だったとはいいましてもね?」
「それがですね、年が明け、一九九四年になってしばらくすると、イタリア大使館そのものが閉鎖状態になってしまったんです。連合国がイベリア半島に上陸し、防衛にあたったドイツ軍はじりじりと内陸部への撤退を余儀なくされていましたから、日本の傀儡政権との関係で上海におかれたイタリア大使館には存在意義がなくなったんです」
「じゃ、イタリア大使秘書という仕事も自動消滅というわけで?」
「もちろんです。それで、結局のところ、賭博場の用心棒の仕事に専念することになったんです」
「イタリア大使館秘書からいっきに賭博場の用心棒に転落ですか、なんとまあ!……でも、それ以上にヤバイ仕事の手伝いなんぞはなさらなかったんでしょうね?」

麻薬取り引きや売春斡旋がらみの仕事のことをそれとなく暗示しながら、そう尋ねると、

「あのような状況ですから、もちろん、麻薬取り引きに手を染めようと思えばそうすることができたかもしれません。周辺にはアヘンの常習者もずいぶんといました。でも、麻薬関係の仕事には絶対に手を出しませんでしたよ。売春のほうは、あれは中国人の組織がやっていたことで、日本人がその組織にかかわり、そこから金銭を得るようなことはほとんどありませんでした。とにかく、賭博場の芯の空っぽな用心棒どまりがまあよいところではあったんでしょう」と言って、石田翁はどことなく自嘲気味な笑みを浮かべた。
「それで、その賭博場の用心棒の仕事は終戦時までずっと?」
「いえいえ、そうそう事は無事には運びませんでしたよ」
「じゃ、また、予想外の事態が起ったんですか?」
「予想外というわけではなかったんですが、とうとう僕のところにも来きたんですよ。あれがね……、現地の警察による賭博場の一斉手入れの翌日にね……」

石田翁はそこまで話し終えると、いったん言葉を切ってキッチンへと向かって立ち上がった。

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