私は、あらためていまは亡き石田翁の書斎兼ベッドルームに入ると、本棚に並ぶ洋書群の背表紙にしばし見入った。リング・ラードナー、デーモン・ラニアン、アガサ・クリスティ、コナン・ドイル、サマセット・モーム、フォークナーといった英米の著名な作家たちの名前が次々に目にとまった。なかでも、「野郎どもと女たち」や「マンハッタン物語」などで知られるデーモン・ラニアンの名を目にした時は、懐かしいような、それでいてかぎりなく寂しいような、何とも言い難い複雑な気分になった。穂高駅前でいきなり声をかけられそのあと初めて石田邸に案内された日も、石田翁はラニアンの短編作品を翻訳している最中だったからである。
続いて私がしげしげと見やったのは、部屋の壁面に彫り描かれた奇妙な樹系図とグラフ、そして同じく壁に書きしるされた「A TREE」というタイトルのついた一篇の英文詩であった。石田翁は、生前、日々の歩行数を万歩計でカウントして距離換算した数値データを作成、そのデータに基づく奇妙な樹系図を板壁に描き刻んでいたものだった。老翁なりの一定の描画ルールがあったのだが、ともかく、歩行距離がのびるにしたがい樹形図の枝が怪異な形をとりながら徐々に成長する仕組みで、すでに壁いっぱいに伸び切ったいくつかの枝の先端には日本各地の都市名が表記されていたりもした。老大樹そのままに成長を遂げていたその異様な樹系図は、不可思議な存在感をもって来客らの目を奪ったものだった。しかし、もうその怪異な樹系図の枝もそれ以上成長することはなくなった。
樹形図の上に横長に描かれた日付目盛入りの折れ線グラフは、石田翁の感情の起伏をもとにした一種のバイオリズムを図式化したもので、独特の色分けがなされており、怪樹の異様な形態との相乗効果によってその室内になにやらミステリアスな雰囲気を醸し出していた。初めての来訪者などが呆れ顔でその不可解な壁画作品に見入るのを、老翁はニヤニヤしながら横目で眺めたりしていたものだが、もうそれも過去の話になってしまったのだった。
「A TREE」というタイトルの英文詩は石田翁自身の作ったものであった。英語を自由自在に操ることのできた老翁は、何篇も英文詩を書いていた。そのなかの一篇を黒のフェルトペンを用い、自ら樹系図の右下に書きしるしたのがこの「A TREE」という詩であった。晩年の石田翁は草花や樹木をこよなく愛していた。ある時のこと、何気なくその詩を眺めながら、私は、「近頃のドラキュラは美女の生き血を吸うのではなく、若木の樹液を吸うようになったんですかね?」などと軽口を叩いた。すると、翁は「いや、近頃は僕のパサパサに乾いた血を若い樹木に吸い取ってもらうのが快感でね!」などと切り返してきたものだった。
<A TREE>
I think that I shall never see A poem lovely as a tree. A tree whose hungry mouth is pressed Against the earth’s sweet flowing breast. A tree that looks at God all day And lifts her leafy arms to pray.
A tree that may in summer wear A nest of robins in her hair Upon whose bosom snow has lain Who intimately lives with rain.
Poems are made by fools like me. But Only God can make a tree.
書斎兼ベッドルームの壁面に書きしるされていたのはこの英文詩だけたったが、のちになって石田翁の遺品類の整理を手伝っている時に、たまたま私はこの英文詩に対応する翁直筆の和文詩を見つけ出した。英文詩と和文詩のどちらを先につくったものなのかはいまひとつ定かでなかったが、英文詩の韻の踏み具合や和文詩の詩句の流れから推測すると、英文詩のほうを先につくり、そのあとで和訳をおこなったもののように思われた。ただ、いずれにしろ、それらのどちらにも亡き老翁の深い想いが篭っていることだけは確かであった。
「木」
私は思う 木ほどに美しい詩はないだろうと 木…その乾いた唇を大地のやさしい胸に力の限りおしつける木 木…そのやわらかい葉をつけた枝々を祈るようにさしのべ 日がな神を見つめる木
木…夏になると駒鳥の巣を髪に飾りつけ 冬には雪を胸に抱き 事あるごとに雨と親しく睦み合う木
詩は私のように愚かな人間がつくるもの しかし、木をつくることの出来るのは ただ神だけなのである
「A TREE」というその詩が、詩として優れたものであるかどうか、あるいはまた、英文詩としての完成度が如何ほどのものであるのかなどは、最早私にはどうでもよいことだった。老翁がその詩を詠むことを通して樹木へと託し傾けたその深い思いのみが問題だった。私はその詩の「Poems are made by fools like me. But Only God can make a tree.」という最後の二行にあらためて見入った。それまではなにげなく読み通すだけで、その言わんとするところをあまり深く考えたりすることなどもなかったが、この時ばかりは妙にその結びの二行が胸に響いた。
ドラキュラを自称し、あの初対面の日に私がその餌食にされたように、行きずりの旅人を言葉巧みに誘い込み、毒舌のかぎりを尽くして翻弄し食い尽くすことを楽しみにしていたあの老翁が、遠くに超越者の存在を見据えていたということは、考えてみるとなんとも感慨深いことであった。
ドラキュラ翁の崇める神がいかなる神であったのかは私にはわからなかった。ただ、それが釈迦でもキリストでもアラーでもなく、また日本古来の神々などでもなかったことだけは確かであった。そして、老翁にほんとうのところを訊ねるすべのなくなってしまったいまとなっては、その神はドラキュラ神とでも名づけるべき新種の超越者、あるいは超越概念であったとでも考えてみるしかなかった。
弔問を終え石田邸をあとにしてほどなく、私は谷内、市川両氏とも別れて一人だけになった。そして、穂高の町を離れる前にもう一度万水川の水面を眺めておこうかと思い立ち、再び大王ワサビ園方面へと向かった。もう夕闇の迫る時刻になっていたので、大王ワサビ園一帯に人影はまばらで、万水川のほとりに佇む者など他に誰も見あたらなかった。「万水川」というその名に恥じず、澄んだ水が淀みなく流れ、薄明かりのもとでも水中でゆらりゆらりと揺れ動く美しい梅花藻の緑の影がはっきりと望まれた。
私が佇む地点のすこし上流にある二基の水車は、相も変わらずゆっくりと回転を続けていたが、冥界へと立ち去っていった老翁があの日のようにこの岸辺に立ち現れることはもうなかった。そして、いつの日のことかはわからないが、いずれは私もまたこの世界を去っていかなければならないはずだった。その日まで、さらにはその日のずっとのちまで、黒澤映画「夢」のラストシーンに登場したこれら二基の水車は回り続けていくのであろうか――そんなとりとめもない想いに駆られながら、おもむろに私は万水川をあとにした。
石田翁が他界してから四年余が経った二〇〇五年十月十三日のこと、私は松本市西方郊外の波田町に住む石田俊紀さんを訪ねた。俊紀さんが石田翁のもとに養子に入ってからの二人の生活の様子についていますこし確認しておきたいことがあったからだった。また、そのことをお願いするため俊紀さんに電話でコンタクトをとった際、石田翁の遺骨がすでに信州大学から戻され、松本市の蟻ヶ崎というところにある墓地の一角に眠っているということを告げられた。そのため、俊紀さんに案内してもらい、ともかくも一度お参りだけはしておいきたいと思いもした。
波田町の閑静な住宅地にあるお宅で俊紀さんに率直な質問などをぶつけ、いろいろと話を伺って一段落したあと、いよいよ石田翁の眠る場所に案内してもらおうかということになった。すると、俊紀さんが、出かける前にちょっと見せたいものがあるといって、奥のほうから一枚の表彰状みたいなものを持ってきてくれた。なんだろうと思いながら差し出されたものに目をやると、それは表彰状ではなく、二年前に国から出された感謝状であった。
<感謝状>
故石田達夫殿
あなたは生存中の御意志に基づき、このたび医学歯学の教育のために御遺体をささげられました。その崇高なお心は医学歯学を志す者にとって大きな励みをあたえ、医学歯学の教育充実向上に大いに寄与されたところであります。よってここに深く感謝の意を表します。
平成十五年十月二日
文部科学大臣 河村建夫
すでに故人となっている献体者本人に贈呈された感謝状というものを目にするのは初めてのことだったので、正直なところいささか奇異な感じを受けもしたが、その文面にも述べられているように、死してなお、石田翁は医歯学教育のために文字通りの献身をしたのだった。亡くなる直前、入院先の病院のベッド上で激しく暴れて治療を拒否したという医療への不信感と、かなり以前から死後の献体を決意していたという医学への貢献の思いとは相矛盾するもののようではあったが、それもまた石田翁らしいところではあったのかもしれない。それに、もともと石田翁には死ぬときは過剰な延命治療なしで自然にという強い意思があったようだから、無意識のうちにそれが病院での治療拒否の行為となってあらわれたのかもしれなかった。
石田俊紀さんに案内され波田町から松本市へと向かう途中の車窓からは、美ヶ原高原王ヶ頭周辺の山並みや、鉢伏山から高ボッチ山へと至るのびやかな稜線がくっきりと浮かんで見えた。松本市街に入ると、俊紀さんはまず市内北西部にある浅間温泉近くの高台に連れていってくれた。そして、その一角のいちだんと高いところに位置する一軒の家を指差しながら、感慨深かそうに言った。
「松本時代はあの借家に住んで英会話塾をやっていたんですよ。私のほうはチンチラを買ったりしてたんですけどね。いまもまだ建物だけはあんな風にちゃんと残っているんですよ」 「結構見晴しがよさそうなところですね」 「松本市の中心街からはかなり離れていますし、またかなり坂道を上ってこなければならかったんですけど、市街一帯はよく見通せましたね。静かなところで、浅間温泉も近かったし、信州大もすぐでしたから、あの頃の親爺には格好の住処だったんでしょうね」
いろいろと当時のことを話してもらいながらその周辺をしばらく廻ったあと、松本市街北部の蟻ヶ崎と呼ばれる丘陵地域へと向かった。やはり高台にあるこの蟻ヶ崎一帯は松本の高級住宅地として知られるところだそうだったが、その住宅街からすこし奥へと上ったところに墓地の広がる一角があった。車を降りると、俊紀さんはその墓地の一隅へと私を案内してくれた。石田翁の眠るその場所へ家族以外の誰かを案内するのは私が初めてだとのことだった。いささか緊張気味の私を先導してくれながら俊紀さんは申し訳なさそうに言った。
「親爺と親交のあった先生のお気持ちを思うと、こうしてここにご案内するのはちょっと気がひけたんですが……。実は遺骨が戻ってきた時に備えて墓も造っておいたんですけれど、生前から親爺は、『俊ちゃん、自分が死んだら葬儀もしなくていいし墓も戒名もいらない、法事など余計なこともいっさいしなくていい、線香もお花も要らないよ。石田達夫の名前なんかどこにも残しなんかしてもらいたくない』って言ってました。以前お見せしたあの短い遺言にもありましたようにね……。それで、いろいろ考えてみたんですが、親爺のそんな遺志に沿うようにするとすれば、結局、こんなかたちが最善なのかと思いまして……」
俊紀さんが最終的に案内してくれた先には茶色の大きな自然石の石碑が建っていて、その大石の表面には「供養塔」という文字が大きく彫り刻まれ、さらに石の下の方には小さめに「信州大学医学部」とも刻みしるされていた。その文字を目にしてすべてを納得した私は俊紀さんに向かって一言だけ呟いた。
「これでよかったんじゃないですか……、いかにも石田さんらしくって……」
その供養塔は信州大学医学部に献体された人々のうち、身元の判らない者や身寄りのない者の霊を祀り、その遺骨を地下に納めるために設けられたもので、いわゆる無縁仏の墓とでも言うべきものだった。その供養碑の前には一対の花立が置かれ、向かって左手にはその碑に寄り添うようにして一本の松の木が生えていた。人によっていろいろと考え方の違いはあるだろうが、ある意味で、それは確かに、ドラキュラの名を語り、そしてその生の証を自ら消し去るようにして逝った石田翁の永眠の場所として相応しいところには違いなかった。
私はその供養塔の前に立つと、黙礼し、そっと手を合わせた。もちろん、焼香や献花などはいっさい行なわなかったし、はじめからその準備もしていなかった。そもそも、合掌するという行為そのものが仏式の作法だから、石田翁の霊がそれを喜ぶとも思われなかった。ただ、だからといって十字を切ったり、一礼二拍手したりするわけにもいかなかった。もしかしたら何もしないでじっと供養塔を見つめているのが最善だったのかもしれないが、それはそれでまた甚だ格好のつかないことだった。
瞑目してしばし合掌を続けるうちに、私にはどこからともなく老翁の醒めた言葉が響き聞こえてくるような気がしてならなかった。
――まあ、人生なんて所詮こんなものですよ。いずれあなたにもそのことがはっきりと判る時が来るでしょうけれどねえ――その声はそう語りかけているように思われてならなかった。 (ある奇人の生涯・完)